第九十七話 また会える場所
森を抜けた先、木々の隙間から見覚えのある景色が見えてきた。
小さな家々、その向こうには畑が広がり。
細い煙が、いくつもの家の煙突から空へ昇っている。
ラグナは足を止めた。
「見えてきたな」
その声に、一行の真ん中を歩いていたセリナが顔を上げる。
「……村!」
ぱっと表情が明るくなった。
「帰ってきた!」
セリナは嬉しそうに声を上げると、一歩前へ踏み出した。
けれど、そこで止まった。
足元を見る。
まだ森の中。
木の根や蔦が、ところどころ地面から顔を出している。
少し前に、橋を渡り終えた時のことを思い出した。
嬉しくなって一人で走り出して、蔦に足を取られて盛大に転んだ。
泣きそうになった自分のところへ、一番に来てくれた人。
セリナは隣を見る。
ライカが立っていた。
セリナの小さな手は、変わらずライカの手を握っている。
「走らないの?」
ライカが不思議そうに尋ねた。
「うん!」
セリナは元気よく頷く。
「また転んじゃうから!」
そう言って、ライカの手を握り直した。
「今度は歩く!」
ライカは少し目を丸くする。
それから小さく笑った。
「うん」
二人は並んで歩き出す。
その後ろを歩きながら、エルがくすっと笑った。
「ちゃんと学んだのね」
「偉いね」
リオンも微笑む。
ルミナスも二人の後ろ姿を見ながら、どこか嬉しそうだった。
ラグナは何も言わず、ただ二人の後ろを歩いていった。
少しずつ村が近付いてくる。
やがて村の入口近くにいた一人の男がこちらへ気付いた。
最初は、旅人でも来たのだろうと思ったのかもしれない。
けれど。
一行の中にいる小さな少女を見つけた瞬間、男の目が大きく見開かれた。
「……セリナ?」
立ち止まる。
何度も目を瞬かせる。
そして。
「セリナだ!!」
男は村の中へ振り返った。
「セリナが帰ってきた!」
その声が村中へ響いた。
「おーい!セリナが帰ってきたぞ!」
何人もの村人が家から顔を出す。
畑で働いていた者も、道を歩いていた者も次々と集まってくる。
「本当か!?」
「どこだ!」
「誰か、あの二人を呼んでこい!」
「セリナの父親と母親だ!」
一気に騒がしくなる村。
セリナは嬉しそうに手を振った。
「ただいまー!」
その声に村人たちの表情が緩む。
無事だった。
行方が分からなくなっていた子どもが、ちゃんと生きて帰ってきた。
けれど。
一行が村へ近付くにつれて、その喜びの中へ少しずつ別の感情が混ざり始めた。
「……おい」
一人の村人が呟く。
「セリナの隣にいるの……」
視線がライカへ集まる。
黒い髪。
人間と大きく変わらない姿。
他の魔族と比べれば、どこか人間に近い雰囲気を持っている。
それでも違う、人間ではない。
そのことだけは見れば分かった。
「魔族……?」
誰かが呟いた。
空気が変わる。
セリナがいなくなった時、村の誰もが考えていた。
魔物に襲われたのではないか。
魔族に連れ去られたのではないか。
だからこそ、無事に帰ってきたセリナがその魔族と手を繋いで歩いている。
目の前の光景を、すぐには理解出来なかった。
ライカもその変化に気付いた。
先ほどまで、セリナだけに向けられていた視線が今は自分へ集まっている。
警戒、戸惑い、そして僅かな恐怖。
ライカの足が少しだけ遅くなる。
握っていた手に、僅かに力が入った。
すると、小さな手が握り返してきた。
ライカは隣を見る。
セリナは何も気にしていない。
ただ嬉しそうに村を見ている。
その小さな手は、当たり前のようにライカの手を握っていた。
ライカは、もう一度前を見る。
そして、止まりかけた歩みを進めた。
その隣には、いつの間にかラグナがいた。
前へ出るでもなく、ライカを背中へ隠すでもなく。
ただ、いつもと同じように隣を歩いている。
それだけだった。
「セリナ!」
遠くから声が聞こえた。
一組の男女がこちらへ走ってくる。
「お父さん!お母さん!」
セリナの顔が一気に明るくなる。
セリナの手が離れて、一目散に走り出す。
けれど、足元をちゃんと見ながら。
両親の元へ向かっていった。
母親が膝をつき、飛び込んできたセリナを強く抱き締める。
父親もその二人を包むように抱き締めた。
「セリナ……!」
「どこに行ってたの!」
「怪我は!?」
「痛いところはない!?」
「怖くなかったか!?」
次々と投げ掛けられる言葉。
セリナは、二人に挟まれながら。
「大丈夫だよ!」
元気いっぱいに答えた。
それから、くるりと振り返る。
「ライカお姉ちゃんが、ずっと隣に居てくれたんだよ!」
小さな指がライカを指した。
村人たちが、再びライカを見る。
ライカは少し困ったように、その場に立っていた。
セリナの両親も、ライカを見る。
驚き、戸惑い、警戒。
いくつもの感情がその表情に浮かんでいた。
けれど、ライカの隣には一人の少年が立っている。
赤い髪、剣を背負った少年の姿に父親が気付く。
「……あなたは」
ラグナは小さく笑った。
「約束したからな」
その言葉で思い出す。
娘がいなくなったあの日、この少年は自分たちへ言った。
『必ず連れて戻る』
その言葉通りセリナは今、目の前にいる。
父親はもう一度ライカを見る。
娘は、あの魔族を恐れていない。
それどころか信頼している。
ずっと隣にいてくれたと、嬉しそうに話している。
長い沈黙の後。
父親はゆっくりと頭を下げた。
「……娘を」
ライカが目を見開く。
「娘を助けてくれたんですね」
「ありがとうございます」
母親も、セリナを抱いたまま深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます」
ライカは何も言えなかった。
人間が自分へ頭を下げている。
ありがとう。
そう言っている。
知らない感覚だった。
海底神殿にいた頃、人間は遠い世界にいる存在だった。
その後、ラグナたちと出会った。
自分を受け入れてくれた人間。
ラグナたちは特別なのだと思っていた。
だから目の前の光景を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
ライカは隣を見る。
ラグナが笑っていた。
何も言わない。
ただ大丈夫だと言うように、小さく頷いた。
ライカはもう一度、セリナの両親を見る。
「……うん」
そしてセリナを見る。
「セリナ、頑張ってた」
「一人で怖かったけど」
「ちゃんと頑張ってたよ」
母親の目から、涙が溢れた。
セリナは少し照れくさそうに笑った。
その様子を村人たちも見ている。
全員が同じ顔をしていた訳ではない。
まだ難しい表情でライカを見る者もいる。
警戒を解かない者もいた。
小さな声で。
「本当に信用していいのか」
そう話す者もいる。
けれど、別の誰かが呟いた。
「……でも」
「あの子がセリナを連れて帰ってきたんだろ」
また別の者がセリナを見る。
「ずっと手を繋いでたな」
誰も答えを出せない。
それで良かった。
今日、初めて見たのだから。
人間を助け、その手を握り故郷まで連れて帰ってきた魔族を。
すぐに全てを受け入れることなど、出来なくてもいい。
ただ、今まで信じてきたものとは違う何かが。
確かに村人たちの目の前にあった。
しばらくして、ラグナたちは村を離れることにした。
セリナは両親の間に立っている。
もう帰るべき場所へ帰ってきた。
ラグナが笑う。
「それじゃあな」
「うん!」
セリナは元気よく頷く。
エルも手を振った。
「今度は一人で知らない人について行っちゃ駄目よ!」
「うん!」
「走る時も足元に気を付けて下さいね」
ルミナスが言う。
「うん!」
「ちゃんとお父さんとお母さんの言うことを聞いてね」
リオンが続ける。
「うん!」
何を言われても元気よく返事をする。
そして最後に、セリナはライカを見る。
少しだけ寂しそうな顔になった。
「ライカお姉ちゃん」
「うん?」
「……また会える?」
ライカは少しだけ目を見開いた。
その言葉を、胸の中で繰り返す。
また会える。
別れることは、終わりではない。
もう二度と会えないという意味ではない。
少しだけ考えて、ライカは優しく笑った。
「……うん」
そしてセリナへ手を振る。
「また会おうね」
セリナの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!」
ラグナたちは村へ背を向け、歩き出す。
少し進んだところで。
「ライカお姉ちゃーん!」
後ろから大きな声が聞こえた。
ライカは振り返る。
両親の間でセリナが大きく手を振っている。
ライカもゆっくりと手を上げた。
小さく、手を振り返す。
「……また」
呟く。
その言葉を聞いて、エルがライカの隣へ並んだ。
「良かったね」
ライカがエルを見る。
リオンも後ろから微笑む。
「また会いたい人が増えたね」
ルミナスも頷いた。
「セリナも、きっと喜びます」
ライカは、もう一度村を見る。
自分を警戒していた人もいた。
怖がっていた人もいた。
それでも、ありがとうと言ってくれた人がいた。
そしてまた会いたいと言ってくれる子がいる。
ラグナがライカの隣に立つ。
同じ村を見ながらいつものように言った。
「また来ればいいさ」
ライカは、少しだけ驚いた顔でラグナを見る。
その言葉はあまりにも簡単だった。
まるで、この村へまた来ることが当たり前に許されていることのように。
ライカは村へ視線を戻す。
海底神殿を出た時、自分には何もなかった。
知らないものばかりだった。
それでも外へ出た。
未来を見るために。
その世界に今、また会いたい人がいる。
そしてまた来てもいいと思える場所が、一つ増えた。
ライカは小さく笑う。
「……うん」
今度こそ前を向いた。
ラグナたちと共に、再び歩き出す。
後ろからもう一度セリナの声が聞こえた。
けれどライカはもう寂しいとは思わなかった。
また会えるのだから。




