第九十二話 受け継がれた温もり
大橋を渡り終えると、景色は少しずつ変わっていった。
乾いた砂の大地は姿を消し、足元には柔らかな土が広がっている。
風に揺れる草、空へ伸びる木々、鳥たちの声。
砂漠では感じることの出来なかった、湿り気を含んだ空気。
ラグナは胸いっぱいに息を吸い込む。
どこか懐かしい。
身体の奥まで、ようやく帰ってきたのだと感じられる匂いだった。
セリナも同じように辺りを見回していた。
木々。
草花。
遠くで聞こえる水の音。
その瞳が少しずつ明るくなっていく。
そして、ついに堪えきれなくなったように声を上げた。
「帰ってきた!」
その声には心の底からの喜びが滲んでいた。
セリナは繋いでいたライカの手を離すと、森の奥へ向かって走り出す。
「あっ、セリナ!」
エルが慌てて声を掛けた。
「いきなり走ったら危な――」
言い終わるより先に。
セリナの足が、地面を這っていた太い蔦へ引っ掛かる。
「あっ……!」
小さな身体が前へ傾いた。
受け身も取れないまま、柔らかな土の上へ転ぶ。
鈍い音がした。
「いたた……」
セリナは膝へ手を当てる。
身体を起こそうとしたものの。
痛みと驚きで、すぐには立ち上がることが出来なかった。
瞳にはじわりと涙が浮かび始めている。
その時だった。
ライカが迷うことなく駆け寄った。
「大丈夫」
セリナの腕をそっと支える。
急がせないようにゆっくりと身体を起こす。
膝についた土を手で優しく払い、怪我がないか確かめる。
少し赤くなっているだけだった。
大きな傷ではない。
それでもセリナの顔には、今にも泣き出しそうな表情が浮かんでいる。
ライカはその顔を見つめた。
そして、自然と手を伸ばす。
小さな頭へ、そっと触れる。
柔らかな髪。
その温もりに触れた瞬間。
ライカの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
まだ、海底神殿に同胞たちの声が響いていた頃。
幼かったライカは神殿の石段で足を滑らせた。
膝を擦り、痛みを堪えながら俯いていた。
泣くことを我慢していた。
そんなライカのもとへ、リリアナが駆け寄ってきた。
心配そうに傷を確かめ。
今と同じように、優しく頭を撫でてくれた。
『大丈夫』
柔らかな声。
温かな手。
痛みよりも、その温もりの方がずっと長く記憶に残っていた。
何百年経った今でも、まるで昨日のことのように思い出せる。
ライカは小さく目を細めた。
そしてリリアナが自分へしてくれたように。
セリナの頭を撫でながら、もう一度ゆっくりと言った。
「……大丈夫」
セリナは目元の涙を拭う。
少しだけ鼻をすすり。
それから、小さく頷いた。
「うん」
後ろでは、ラグナたちが二人の様子を静かに見守っていた。
エルは安心したように胸を撫で下ろし。
リオンは優しく微笑む。
ルミナスも、何も言わずに二人を見つめていた。
ラグナはセリナの頭を撫でるライカを見ながら、少しだけ口元を緩める。
誰も何も言わなかった。
けれど、ライカが自然に誰かへ手を差し伸べたことが皆には嬉しかった。
再び歩き始める。
今度はセリナも走らなかった。
ライカの隣へ戻り、当然のように手を伸ばす。
小さな手がライカの指を握った。
ライカは少しだけ驚き。
その小さな手を、僅かに握り返した。
日が沈み森の中に夜が訪れた。
ラグナたちは、少し開けた場所を見つけて野営することにした。
中央では焚き火が静かに揺れている。
ぱちり、ぱちりと。
薪の爆ぜる音が、暗い森へ小さく響く。
皆で簡単な食事を終えた後、セリナはライカの隣へ座っていた。
肩が触れるほど近く。
焚き火の炎をじっと見つめている。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
穏やかな夜。
葉が風に揺れる音。
遠くで鳴く虫。
その静けさの中で、セリナがぽつりと口を開いた。
「……ねぇ」
皆がゆっくりと顔を向ける。
セリナは焚き火を見つめたまま、膝の上で手を握っていた。
「わたしね」
「お父さんとお母さんと」
「町の市場に行ったの」
ライカは何も言わず。
静かに頷く。
続きを急かさない。
ただ、話してくれるのを待っていた。
「人がいっぱい居て」
「お母さんが」
「ちょっとだけ目を離した時」
「知らないお姉さんが来たの」
セリナの声が。
少しだけ震える。
「優しそうだった」
「一緒に遊ぼうって言われて」
「だからついて行っちゃった」
俯く。
自分が悪いことをしてしまったような、そんな顔だった。
エルは何か言いかける。
けれど、言葉を飲み込んだ。
セリナは続ける。
「お姉さんが」
「甘いジュースをくれたの」
「すごく美味しかった」
「でも」
「飲んだら」
「すぐ眠くなって……」
両手が。
小さく震え始める。
「目が覚めたら」
「檻の中だった」
焚き火の音だけが響く。
「荷車に入れられてて」
「真っ暗で」
「何も見えなくて」
「外から」
「ゴトゴトって音だけ聞こえた」
「お姉さんの声は」
「もう聞こえなかった」
セリナは唇を噛む。
「どこに連れて行かれるのかも」
「お父さんとお母さんに会えるのかも」
「何も分からなかった」
「それで」
「気付いたら」
「砂漠の街に居たの」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
知らない人間の女を使い、子どもを人目の届かない場所へ連れ出す。
魔族が直接町へ入ればすぐに騒ぎになる。
だから、人間を使った。
人間に。
人間を連れ去らせた。
それほどまでにユリウス領の奴隷制度は。
長い時間をかけて、街の外へまで根を伸ばしていた。
ラグナは膝の上で拳を握った。
リオンは目を伏せる。
エルも悔しそうに唇を噛んでいた。
ルミナスは、焚き火を見つめながら静かに言う。
「ですが」
「これから変わります」
セリナが顔を上げる。
リオンも頷いた。
「ユリウスさんとユーリなら」
「きっと変えてくれる」
「ナタージャさんも」
「今度は関わってくれるはずだから」
エルはセリナへ向けて笑う。
「もう同じことが起きないように」
「皆で変えていくんだよ」
ラグナも頷いた。
「信じよう」
「ユリウスとユーリを」
皆が静かに頷く。
セリナは、少しだけ安心したように小さく息を吐いた。
その時。
隣に座っていたライカが、静かに口を開く。
「……怖かったね」
ただ、それだけだった。
責めない。
尋ねない。
無理に励まさない。
セリナがずっと胸の中で抱えてきた気持ちを。
そのまま受け止める言葉だった。
セリナの瞳が、みるみる潤んでいく。
「……うん」
小さく震える声。
ライカは。
もう一度。
優しく言った。
「一人で」
「良く頑張ったね」
その言葉を聞いた瞬間。
セリナは立ち上がった。
そして。
ライカの胸へ飛び込む。
「うぁ……っ」
小さな身体が。
大きく震える。
「こわかった……!」
「ずっと」
「こわかったぁ……!」
今まで我慢していた涙が、一気に溢れ出した。
ライカは驚いたように目を見開く。
けれど。
すぐに、セリナの身体を優しく抱き留めた。
細い背中。
震える肩。
その全てを包むように。
ゆっくりと背中を撫でる。
何度も。
何度も。
リリアナが。
自分へしてくれたように。
「……もう」
「大丈夫」
セリナは。
ライカの服をぎゅっと掴む。
泣き声は。
しばらく森の中へ響いていた。
誰も。
止めなかった。
誰も。
急かさなかった。
ただ、泣き終わるまで。
皆で静かに待っていた。
やがて。
泣き疲れたセリナは、ライカへ身体を預けたまま眠っていた。
規則正しい寝息。
涙の跡。
それでも。
眠っている顔は穏やかだった。
エルも。
リオンも。
ルミナスも。
しばらくして眠りについた。
森は深い静けさに包まれていく。
焚き火の炎も、小さく弱まっていた。
ラグナは焚き火の傍に座り、膝の上へ剣を置いていた。
砥石を滑らせる。
静かな音。
少し離れた場所では。
ライカがリリアナの刻を手にしている。
小さな器へ水を注ぎ。
深海色の真珠へ。
一滴ずつ丁寧に水を与える。
それから。
柔らかな布で。
表面をゆっくりと磨いていく。
月明かりを受け。
リリアナの刻は静かに輝いていた。
ラグナは剣を磨く手を止める。
顔を上げる。
木々の隙間。
その向こうには。
無数の星が瞬いていた。
ライカも。
同じ空を見上げる。
二人は何も話さなかった。
話す必要もなかった。
剣を磨く音。
布が真珠を撫でる音。
焚き火の音。
木々を揺らす風の音。
それだけが。
静かな夜の中を流れていく。
リリアナから受け取った温もりは。
今度はライカの手を通して。
一人の少女へと受け継がれていた。
そして。
その優しさを見守るように。
星々は。
夜の森の上で、いつまでも静かに瞬いていた。




