第九十一話 橋が繋ぐもの
巨大な橋が深い谷を跨ぐように、真っ直ぐ彼方まで伸びていた。
石造りの橋脚は谷底へ深く根を張り、何百年もの風雨に耐えてきた重みを感じさせる。
橋の先は陽炎の向こうに霞み、どこまでも続いているように見えた。
ラグナたちは橋の手前で自然と足を止める。
改めて見ると、その大きさに思わず息を呑んだ。
「すげぇ……」
ラグナが静かに呟く。
リオンも感心したように橋を見上げた。
「これだけ大きな橋を維持するだけでも大変そうだね」
橋の上では、何台もの荷馬車が絶え間なく行き交っている。
荷を引くのは人間たち。
荷台には木箱が積み上げられ、橋を渡ってナタージャ領へ向かっていた。
反対側からは、別の荷馬車が砂漠へ戻っていく。
まるで橋そのものが、人々の暮らしを繋ぎ続けているようだった。
「思ったより人が多いね」
エルが感心したように辺りを見回す。
ちょうどその時、荷馬車を引く一人の商人が近くを通り掛かった。
木箱の隙間から。
紫色や、青色の宝石が僅かに顔を覗かせている。
ラグナは声を掛けた。
「その荷物」
「全部宝石か?」
商人は足を止め、気さくに笑った。
「ああ」
「ユリウス領はこれしか売るもんがねぇからな」
荷台を軽く叩く。
「これをナタージャ領まで運ぶんだ」
「帰りは野菜や果物、それに小麦なんかを積んで帰る」
「砂漠じゃ作物は育たねぇからな」
エルは思わず目を丸くした。
「そんなに沢山運ぶの?」
「毎日さ」
商人は笑う。
「俺が生まれるずっと前から、この橋は砂漠とナタージャ領を繋いでる」
橋へ視線を向けながら続けた。
「親父も、そのまた親父も、この橋を渡って商売してたって聞いてる」
「俺たち商人にとっちゃ、もう生活の一部さ」
その言葉には誇らしさでも、自慢でもない。
ただ当たり前の日常を話すような穏やかさがあった。
ラグナはゆっくりと橋を見上げる。
何百年もの間。
数え切れない人々がこの橋を渡り、荷物を運び、暮らしを支えてきた。
橋は特別なものではない。
人々にとっては、今日も明日も変わらず渡る「いつもの道」なのだ。
リオンは荷台の宝石を見つめながら尋ねる。
「宝石って」
「そんなに必要なんですか?」
商人は肩をすくめた。
「必要だから買うんだろうな」
「俺たち商人は運ぶだけさ」
「何に使うかまでは知らねぇよ」
少し考えてから笑う。
「けど」
「ナタージャ領じゃ宝石はいくらあっても足りねぇって話は聞くな」
リオンは静かに頷いた。
商人は手綱を握り直す。
「それじゃあな」
荷馬車は再びゆっくりと橋を進み始める。
その後ろ姿を見送りながら、エルがぽつりと呟いた。
「じゃあ……」
「宝石が採れなくなったら?」
商人は振り返らない。
けれど、小さく笑いながら答えた。
「困るだろうな」
「俺たちも」
「砂漠の街も」
荷馬車はそのまま橋の向こうへ消えていった。
静かな風が吹き抜ける。
ラグナは橋を見上げたまま、小さく呟く。
「……だからユリウスは」
「急には変えられなかったのか」
リオンも静かに頷いた。
「生活って……」
「一つだけ変えれば済むものじゃないんだね」
宝石。
食料。
商人。
砂漠の街。
ナタージャ領。
すべてが一本の橋で繋がっている。
誰も答えなかった。
けれど。
皆、それぞれにユリウスの言葉を思い返していた。
一行はゆっくりと橋へ足を踏み入れる。
石造りの橋はしっかりと足を支え、どこまでも真っ直ぐ続いていた。
谷を渡る風が頬を撫でる。
眼下から吹き上がる風は少し冷たく、砂漠の熱を静かにさらっていった。
歩きながら、エルが身を乗り出す。
「谷底見えるかな?」
ラグナも橋の縁から身を乗り出す。
そこに広がっていたのは、深い闇。
底はどこまでも暗く、まるで世界が途切れているようだった。
「やっぱ見えねぇな」
リオンも苦笑する。
「あの村は結界があるからね」
見えない。
けれど。
だからこそ、あの谷底には今も変わらず。
緑色の宝石を身に着けた魔族たちが暮らしている。
ライカも静かに谷底を見つめた。
あの村。
緑色の宝石。
温かな食卓。
笑顔で迎えてくれた魔族たち。
焚き火を囲んで交わした何気ない会話。
海底神殿では知ることのなかった。
誰かと一緒に過ごす穏やかな時間。
短い滞在だった。
けれど、確かに心へ残っていた。
その時だった。
小さな温もりが手へ伝わる。
ライカは視線を落とした。
セリナが、昨日と変わらず自分の手を握って歩いている。
「どうしたの?」
セリナが不思議そうに尋ねた。
ライカは谷底から目を離す。
それからセリナの小さな手を見る。
少しだけ微笑んだ。
「……ううん」
「なんでもない」
そう答えて前を向く。
歩きながらほんの少しだけ。
ライカの指先が動いた。
ぎこちなく。
けれど確かに、セリナの手を握り返す。
セリナは嬉しそうに笑った。
何も言わない。
ただそのまま。
二人は並んで歩き続けた。
橋の向こう。
少しずつ景色が変わっていく。
乾いた砂は。
やがて土へ。
土は柔らかな草原へ。
草原には風が揺れ。
木々が影を落としている。
砂色だった世界へ。
少しずつ鮮やかな緑が戻ってくる。
エルは思わず深呼吸した。
「……草の匂い」
懐かしい森の香り。
風に乗って運ばれてくる木々の匂い。
思わず笑みがこぼれる。
「帰ってきたね」
ラグナも大きく息を吸った。
「ああ」
「帰ってきた」
風が優しく吹き抜ける。
木々の香り。
草の匂い。
ナタージャ領の空気だった。
ラグナはセリナへ視線を向ける。
「まずは」
「セリナを家まで送り届けよう」
セリナは満面の笑みで頷く。
「うん!」
その返事に皆も自然と笑みを浮かべた。
ユリウス領で出会った人々。
託された願い。
交わした約束。
そのすべてを胸に抱きながら。
一行は橋を渡り終え。
緑豊かなナタージャ領の人間の村へ向かって歩き始めた。




