第八十八話 変わり始めた世界
夕暮れ。
砂漠の空は橙色に染まっていた。
昼間の熱を残した風が、開け放たれた窓から宮殿の執務室へと入り込む。
机の上には旅に必要な書類。
地図、水筒、いくつかの荷物。
その前で、二人の男が旅支度を整えていた。
ユリウス。
そして。
ユーリ。
魔王ナタージャからの招集。
手紙に細かな理由は記されていなかった。
ただ、魔王城へ来るように。
それだけ。
魔王からの呼び出しである以上、すぐに発たなければならない。
ユリウスが荷物へ手を伸ばす。
その瞬間。
「それは僕が持ちます」
ユーリが横から手を伸ばした。
ユリウスは眉を寄せる。
「この程度の傷で、そこまで気を遣う必要はない」
「駄目です」
二人の手が荷物に触れる。
「傷が開いたら、リオンに怒られますよ」
「私がか?」
「僕もです」
ユーリは少しだけ笑った。
「それに」
一瞬、言葉を止める。
「……昨日刺した本人が言ってるんです。聞いてください」
ユリウスの手が止まった。
ユーリも、笑顔を消す。
気まずそうに目を逸らした。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「え?」
思わず顔を上げる。
ユリウスは真っ直ぐユーリを見ていた。
「必要だったのだろう」
「……」
「お前が私を止めるために選んだことだ」
ユリウスは静かに荷物から手を離した。
「ならば」
「もう謝るな」
ユーリは何も言えなかった。
ただ、置かれた荷物へ視線を落とす。
そして。
「……はい」
小さく答えた。
言葉遣いは以前と何も変わっていない。
『ユリウス様』
『ユーリ』
領主と従者。
けれど、そこにあるものはもう以前とは違っていた。
その時、扉が叩かれた。
「入っていいか?」
ラグナの声。
「構わん」
扉が開く。
ラグナが部屋へ入ってきた。
そして二人を見る。
僅かに首を傾げた。
何か、以前とは違う。
何が違うのかは分からない。
それでもラグナは何も聞かなかった。
ただ少しだけ笑った。
「一つ気になってる事があるんだ」
ユリウスとユーリが振り返る。
ラグナは少しだけ考えるように視線を落とした。
思い出す。
ナタージャ領地の人間の村、一組の夫婦。
泣きそうな顔で娘を探していた母親。
『赤いリボンを付けて、セリナって言うんです……』
あれから、ずっと気になっていた。
ラグナは顔を上げる。
「この街に居るんじゃないかってさ」
ユーリは少し目を細めた。
「セリナ……」
行方不明になった子ども。
奴隷市場、人間。
珍しい話ではない。
かつての自分なら、きっとそう思った。
『珍しくもないのかもね』
そう言って終わっていた。
それがこの街の仕組みだから。
昔から続いてきたことだから。
自分一人が気にしたところで、何も変わらないから。
そうやって、何度も見ないふりをしてきた。
けれど、今は違う。
ユーリは静かに口を開いた。
「ユリウス様」
「少しだけ時間を頂けますか」
ユリウスは迷わなかった。
「ああ」
そして。
傍らに置いていた外套へ手を伸ばす。
「私も共に行くとしよう」
ユーリが目を見開いた。
「ユリウス様も?」
「私が知らねばならぬことだ」
それ以上、ユリウスは何も言わなかった。
夜の街の裏路地。
表通りの喧騒から離れた、人通りの少ない場所。
細い道を、ユーリが先導して歩く。
その後ろを、ラグナ、リオン、エル、ルミナス、ライカ。
そしてユリウスが続く。
相変わらず街は変わっていなかった。
黒い檻。
並ぶ人間たちに付けられた首輪と、鎖。
売り手の声。
交わされる金。
人に付けられた値段。
それがユリウス領の日常。
まだ何も変わっていない。
改革は始まっていない。
だから、この景色もまた昨日までと同じように存在していた。
ライカは歩きながら静かにその光景を見る。
鎖が鳴る。
その音に、胸が痛んだ。
リリアナの記憶。
海底の民。
捕らえられ、売られていった同胞たち。
刻を奪われ、戦争へ連れていかれた者たち。
見たくない。
そう思った。
けれど、ライカは目を逸らさなかった。
もう俯かなかった。
隣にはラグナがいる。
前には仲間たちがいる。
そして、胸元には自分の刻。
取り戻したリリアナの刻もある。
だから、ちゃんと見ようと思った。
過去も、今も。
これから変わっていくものも。
全部。
その時だった。
ラグナが足を止める。
「……待ってくれ」
視線の先。
一つの檻。
その中。
膝を抱えて座るまだ幼い少女。
汚れた服。
細い腕。
そして、髪に結ばれた赤いリボン。
ラグナは檻へ駆け寄る。
その場へしゃがみ込んだ。
「お前」
少女が顔を上げる。
「セリナか?」
少女は目を見開いた。
驚く。
信じられないものを見るように。
そして、次第に瞳が潤んでいく。
小さく。
何度も頷いた。
「……うん」
震える唇。
そして、最初に出てきた言葉は。
「……おかあさん……」
だった。
涙が零れる。
ラグナは唇を噛む。
「そっか」
「良かった」
見つけた。
ようやく。
その様子を見ていた一人の魔族が近づいてくる。
「おや」
ユーリを見て、表情を変えた。
「ユーリ様ではありませんか」
深く頭を下げる。
「何か御用で?」
ユーリは檻を見つめたまま言う。
「この子を出してほしい」
魔族は首を傾げた。
「お気に召しましたか?」
「でしたら値段を――」
「いくらですか」
静かな声だった。
魔族は少し驚く。
「従者としてお使いになるので?」
ユーリは首を横に振った。
「いいや」
そして、セリナを見る。
「この子は帰るんだ」
「……帰る?」
「はい」
魔族は困惑する。
「ですが人間ですよ?」
ユーリは真っ直ぐ男を見た。
「人間にも帰る場所があります」
迷いはなかった。
そう言って、懐へ手を入れる。
指先に革袋が触れた。
ずしりと重い。
宝石の交易へ出るたび少しずつ、少しずつ貯めてきた金だった。
魔笛を手にしてから三年間。
各地を巡った。
宝石を運び、品物を売り、ユリウスの従者として働き自分で得た金。
欲しいものがあったわけではない。
何かを買うために貯めていたわけでもない。
ただ、いつか使う時が来るのだろう。
そう思って持ち続けてきた。
何に使いたいのか、自分でも分からなかった。
ユーリは袋を握る。
今。
初めて分かった。
懐から取り出す。
そして、差し出した。
「僕が払います」
ラグナは目を見開く。
袋の重さを見れば、決して少ない額ではないと分かる。
「いいのか?」
ユーリは袋を見た。
ほんの少しだけ目を細める。
それから、笑った。
「うん」
迷いはなかった。
「僕はずっと」
「見ないふりをしてきた」
周囲へ視線を向ける。
檻に入れられ、鎖を付けられた人間たち。
「行方不明の子どもがいると聞いても、珍しくないって思ってた」
「仕方ないって」
「この街では当たり前だからって」
少しだけ声が震える。
脳裏に浮かぶ。
レン。
採掘場。
自分の隣に座らなかった青年。
座れなかった青年。
そして、幼い頃の自分。
帰る場所などなかった。
どこへ行けばいいのかも分からず。
ただ、歩き続けた。
あの日、ユリウスに出会わなければ、自分もどうなっていたのか分からない。
ユーリは檻の中の少女を見る。
「でも」
「今は違う」
セリナには帰る場所がある。
待っている人がいる。
名前を呼んで、探し続けている母親がいる。
「この子には、帰る場所があるだろう?」
「だったら」
「帰してあげたいんだよ」
魔族は答えられない。
困ったようにユリウスを見る。
ユリウスは、ユーリを見ていた。
差し出された金貨。
その横顔。
自分が育てた青年。
領主である自分が払えば、それで済む。
だが、ユリウスはそうしなかった。
一歩前へ出る。
「記録はこちらで処理する」
「問題は無い」
「……ユリウス様」
魔族は慌てて頭を下げた。
「承知しました」
金貨が渡る。
鍵が取り外される。
かちゃりと、小さな音。
檻が開く。
セリナは、すぐには動かなかった。
開いた扉を見つめている。
出ていいのか分からないように。
ラグナは手を伸ばした。
「大丈夫だ」
セリナが見る。
「もう出ていい」
ゆっくり、少女は立ち上がる。
一歩。
檻の外へ。
もう一歩。
そしてラグナの前まで来る。
小さな手で。
ラグナの手を、ぎゅっと掴んだ。
「……おかあさん」
ラグナは、優しく笑った。
「帰ろう」
「ちゃんと待ってるぞ」
セリナは泣きながら。
何度も、何度も頷いた。
その光景をライカは静かに見つめていた。
帰る。
その言葉が胸の奥へ残った。
海底の民は、帰れなかった。
奪われた。
失われた。
リリアナも、帰ってこなかった。
それでも、今。
目の前には帰れる子がいる。
誰かが手を伸ばしたことで一人、檻から出られた。
世界はまだ変わっていない。
周りを見れば、檻はまだいくつもある。
鎖に繋がれた人たちがいる。
昨日とほとんど変わらない。
だけど、確かに何かが変わり始めていた。
ライカは小さく微笑む。
胸元へ手を添える。
「……リリアナ」
小さな声。
「わたし」
「ちゃんと見てるよ」
隣。
ラグナが少し首を傾げた。
「ん?」
ライカは、優しく笑った。
「……ううん」
「なんでもない」
ラグナもそれ以上は聞かなかった。
セリナを連れて歩き出す。
その後ろで、ユリウスは立ち止まっていた。
檻に入れられた人間たち。
何度も、見てきた景色だった。
領主としてここを歩いたこともある。
それなのに、今日はまるで違うものに見えた。
「……ユーリ」
「はい」
ユーリが振り返る。
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「随分と貯めていたのだな」
ユーリは軽くなった革袋を見る。
「ええ」
「惜しくはないのか」
ユーリは少し考えた。
それから、小さく笑った。
「初めて」
「使いたいと思ったんです」
ユリウスは何も言わなかった。
ただその横顔を見つめる。
いつからだろう。
小さかった子どもが、こんな顔をするようになったのは。
自分の後ろを歩いていた少年が。
自分で考え、自分で選び。
誰かのために、自分のものを差し出せる青年になっていた。
昨日。
その手は、自分へ刃を向けた。
そして今日、同じ手が一人の子どもを檻から出した。
ユリウスは、もう一度奴隷市場を見る。
長い歴史。
守ってきたもの。
変えてはいけないと思っていたもの。
だが、歴史とは過ちまで守り続けることではない。
「ユーリ」
「はい」
「魔王城から戻ったら」
ユリウスは。
黒い檻を真っ直ぐ見つめる。
「ここから始めよう」
ユーリの目が、僅かに見開かれた。
やがて、その表情が穏やかなものへ変わる。
「はい」
それだけ。
二人は歩き出した。
領主と従者。
親と子。
そして、これから同じ未来を作っていく二人として。
夜の砂漠を風が吹き抜ける。
世界は、まだ変わっていない。
けれど、世界を変えようとする人たちは。
確かに変わり始めていた。




