第八十七話 深海色の記憶
深海色の光が中庭を包む。
眩しいはずなのに、不思議と目を閉じようとは思わなかった。
それは暖かくどこか懐かしい。
潮の香り、水の音、海の匂いがした。
ラグナは息を呑む。
ここは知っている。
見覚えがある。
深海色の光が揺れる。
砂漠の乾いた風が消えていく。
代わりに聞こえてきたのは。
静かな。
あまりにも静かな水の音だった。
海底神殿。
ラグナたちが歩いた場所。
ライカが何百年もの時を過ごした場所。
けれど、少しだけ違っていた。
柱は崩れていない。
壁にはまだ色鮮やかな装飾が残っている。
道の端には誰かが使っていた器。
壁際に置かれた道具、開かれたままの扉。
その向こうには、つい先ほどまで誰かが暮らしていたかのような部屋。
人がいた痕跡がそこかしこに残されていた。
なのに誰もいない。
歌声も、話し声も、笑い声ももう聞こえない。
かつてはここにも歌声があった。
広場を歩く人々がいた。
誰かを呼ぶ声があった。
穏やかに言葉を交わす人々がいた。
笑い声が確かにあった。
けれど、それはもうここにはない。
まるで神殿そのものだけが、そこに暮らしていた者たちを待ち続けているようだった。
石碑の並ぶ広場。
その中央に、二人の人物が向かい合っていた。
一人は。
長い黒髪、深海色の瞳。
胸元に輝く真珠。
リリアナ。
そしてその向かい。
黒い髪、浅黒い肌の魔族。
胸元には黄色の宝石が輝いている。
その姿を見た瞬間、ユリウスが息を呑んだ。
顔立ちは違う。
服装も違う。
けれど、分かる。
自分と同じ。
南方の民。
そして、代々伝えられてきた記録に残る人物。
ユリウスの先祖だった。
二人の間を、静かな水の音だけが流れている。
やがてリリアナが口を開いた。
「海底の民は」
静かな声だった。
「長い間」
「奴隷として扱われました」
ユリウスの先祖は何も言わない。
ただ、その言葉を聞いている。
「刻は売り物として扱われ」
「戦争では兵器として利用されました」
リリアナの声には怒りがなかった。
憎しみもなかった。
あまりにも静かだった。
ただ、起きたことを一つずつ。
並べるように話している。
それがかえって苦しかった。
「逃げる場所はありませんでした」
「どこへ行っても、わたしたちを探す人がいました」
「刻を欲しがる人がいました」
一度言葉が途切れる。
「帰る場所もありませんでした」
リリアナはゆっくりと振り返った。
視線の先、広場を囲むように並ぶ石碑。
そこには無数の名前が刻まれている。
リリアナは、その一つ一つを見るようにゆっくりと視線を動かした。
きっと、全部知っている名前だった。
一緒に暮らした者、言葉を交わした者、笑い合った者。
帰ってきた者、帰ってこなかった者。
そして、最後までここに残った者。
「だから」
リリアナは続ける。
「残された者たちは」
「故郷で終わることを選びました」
静かな声。
「もう誰にも利用されないように」
「誰にも奪われないように、自らの手で」
僅かに、声が震えた。
「刻を砕きました」
ユリウスの先祖が目を伏せる。
何も言えなかった。
何を言ってもあまりにも遅い。
謝罪も、慰めも。
きっと何の意味も持たない。
静かな海。
静かな神殿。
そして、最後に残った者。
リリアナ。
「……わたしは」
初めてその声が大きく揺れた。
「皆を見送りました」
「一人ずつ、最後まで見届けました」
リリアナは、また石碑を見る。
涙は流れない。
もう、泣くことすら出来ないほど泣いた後の人の顔だった。
「だから」
胸元へ、そっと手を添える。
「深海色の真珠は、もう二つと存在しません」
「この世界でたった一つです」
ユリウスの先祖の視線が、リリアナの胸元へ向かう。
深海色の刻。
海底の民が生きた証。
その最後の一つ。
中庭で記憶を見ていたライカが、無意識に自分の胸元へ手を添えた。
同じ場所、同じ深海色。
自分の刻が小さく脈打っている。
リリアナ。
ずっと知りたかった。
あの日、自分と別れた後何があったのか。
どうして帰ってこなかったのか。
それを、今見ている。
記憶の中、リリアナはユリウスの先祖を真っ直ぐ見つめた。
「この刻を」
「永遠に保存する方法を教えます」
男の目が僅かに見開かれる。
「本来」
「身体から離れた刻は、長く形を保つことが出来ません」
「けれど」
リリアナは胸元の真珠を撫でる。
「水を与え続ければ、残すことが出来ます」
男は黙って聞いている。
「この方法をあなたに託します」
そして、リリアナは頭を下げた。
「だから」
「お願いです」
声が震える。
「もう」
「わたしたちの故郷を荒らさないでください」
ユリウスの先祖が息を呑む。
それは、命乞いではなかった。
自分のための願いでもなかった。
「ここには」
「もう何もありません」
少しだけ間が空く。
「それでも」
「ここは」
リリアナは顔を上げた。
「……ライカの故郷なんです」
その瞬間、ライカの呼吸が止まった。
「……え」
小さな声が漏れた。
リリアナが自分の名前を呼んだ。
何百年も前、自分の知らない場所で。
自分のいないところで。
確かに自分のことを想っていた。
あの日リリアナは去った。
ライカはずっと待っていた。
いつか帰ってくると信じて。
それでも帰ってこなかった。
けれど、忘れたわけではなかった。
捨てたわけでもなかった。
最後まで、リリアナはライカが帰る場所を守ろうとしていた。
記憶の中。
ユリウスの先祖は、長い間何も言わなかった。
広場を見渡す。
人はいない。
けれど人が暮らしていた痕跡は残っている。
石碑に刻まれた、数え切れないほどの名前。
そして目の前に立つ最後の一人。
やがて男は目を閉じた。
深く頭を下げる。
「約束しよう」
リリアナが顔を上げる。
「海底神殿には」
「二度と誰も近付けない」
「我が一族がこの地を守る」
リリアナの目が、ほんの少しだけ揺れた。
そして微笑んだ。
安堵したように。
少しだけ、寂しそうに。
「……ありがとうございます」
胸元へ手を伸ばす。
深海色の真珠へ指先が触れる。
一度目を閉じた。
その表情はどこか穏やかだった。
怖くないわけではない。
終わりたくないわけでもない。
それでも、もう決めていた。
ゆっくりと刻を外す。
それはただの宝石ではない。
命だった。
記憶だった。
歴史だった。
仲間たちだった。
海底神殿で過ごした時間。
笑い声、歌声、交わした言葉。
見送った人々。
そして、最後まで守りたかった。
たった一人の少女。
リリアナはそれを両手で包んだ。
最後に、ほんの少しだけ深海色の真珠を見つめる。
「お願いします」
そして男へ差し出した。
「皆のことを」
「忘れないで」
男は、すぐには受け取らなかった。
差し出された真珠を見つめる。
その小さなものが、一人の命であることを理解していたから。
やがて、両手で大切に受け取った。
「……忘れない」
リリアナが微笑む。
男は自らの胸元へ手を伸ばす。
そこにあった黄色の宝石。
南方の地を治める者の証。
それを静かに外した。
そして、その場所へ深海色の真珠が嵌め込まれる。
領主の証。
それは支配の証ではなかった。
富の象徴でもなかった。
願いを託された証。
守ると誓った証。
海底の民が、確かにこの世界に生きていたことを忘れないための証。
深海色の光が揺れる。
リリアナの姿が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に見えたのは。
静かに微笑む、その顔だった。
光が消える。
記憶はそこで終わった。
砂漠の風。
乾いた空気。
中庭。
深海色の輝きが、少しずつ薄れていく。
誰も動かなかった。
誰も言葉を発せなかった。
ライカはその場に座り込んだ。
両手で深海色の真珠を抱き締める。
胸元には自分の刻。
その手の中には、リリアナの刻。
二つの深海色。
何百年。
会いたかった。
探していた。
触れたかった。
取り戻したかった。
「……リリアナ」
ようやく名前を呼ぶ。
涙が、一粒真珠の上へ落ちた。
それからもう一粒。
次々と零れていく。
けれど雷は漏れなかった。
髪も、服も白くならない。
ただ、泣いていた。
悲しいから。
嬉しいから。
会いたかったから。
そして、ようやく知ることが出来たから。
リリアナは、最後まで自分のことを想ってくれていた。
「……わたしのこと」
掠れた声。
「忘れてなかった……」
その言葉に、ラグナは何も答えなかった。
静かに歩み寄る。
そしてライカの隣へ腰を下ろした。
何も言わない。
慰めることもしない。
ただ、隣にいる。
ライカもラグナを見なかった。
ただそこにいることだけを感じていた。
それで、十分だった。
少し離れた場所。
ユリウスは俯いていた。
胸元にはもう何もない。
何百年もの間、代々受け継がれてきた領主の証。
幼い頃から何度も聞かされてきた。
この真珠は、この地を治める者の証なのだと。
唯一無二の宝なのだと。
誇りなのだと。
だから守ってきた。
疑ったことなど、一度もなかった。
「……そうだったのか」
小さく声が漏れる。
「私はずっと」
「この領地を守ってきたつもりだった」
ユリウスは、ライカの手の中にある真珠を見る。
「だが」
「先祖は、この記憶を守るために受け取ったのだな」
領主の証。
そう呼び続けてきたもの。
その始まりは、一人の女性から託された最後の願いだった。
忘れないで。
故郷を守って。
たったそれだけだった。
ユリウスは拳を握る。
「私は先祖の願いを」
一度、言葉を止める。
「履き違えていたのかもしれんな」
領地を守る。
歴史を守る。
秩序を守る。
そう言いながら、変えることを恐れていた。
守ることと、変わらないことを。
いつの間にか同じものだと思っていた。
ユーリは、そんなユリウスを見つめていた。
何も言わない、けれどその目には先ほどまでとは違うものがあった。
短剣を向けた。
傷付けた。
自分が最も大切に思う人を。
それでも、間違っていたとは思わなかった。
止めたかった。
変わってほしかった。
そして今、ユリウスは自分の過ちを見ようとしている。
その時、リオンが前へ出た。
「傷を見せて下さい」
ユリウスが顔を上げる。
脇腹。
ユーリの短剣が刺さった場所は血が滲んでいる。
「いや」
ユリウスは首を横に振った。
「手を借りる訳にはいかない」
リオンは眉を寄せる。
「でも」
「この程度なら問題ない」
そう言って、立ち上がろうとする。
けれど、その前に声がした。
「お願いしてもいいかな」
ユリウスが止まる。
声の主を見る。
「ユーリ」
ユーリはリオンを見る。
そして、少しだけ笑った。
「僕は」
「リオンを信じています」
リオンが目を見開く。
「だから、信じられる人に治療を任せて」
ユーリはユリウスを見る。
「何がいけないんです?」
その笑顔に、ユリウスは言葉を失った。
長い間傍にいた。
幼い頃から、ずっと見てきた。
何も持っていなかった少年。
名前を与えた。
食事を与えた。
寝床を与えた。
学ぶ機会を与えた。
そして、いつしか自分の傍にいることが当たり前になった。
けれど今、目の前にいるユーリの笑顔をユリウスは知らなかった。
従者の笑顔ではない。
領民の笑顔でもない。
言われたことに従う、子どもの笑顔でもない。
自分で選んだ。
誰かを信じると決めた、一人の青年の笑顔。
そして、自分へ向けられた息子の笑顔だった。
ユリウスはしばらくユーリを見つめる。
やがて小さく笑った。
「……敵わんな」
リオンがユリウスの傍へ膝をつく。
「少し染みるかもしれません」
「構わん」
ロザリオを握る。
淡い光が傷口を包み込む。
温かな光。
血が止まり、傷が少しずつ塞がっていく。
ユリウスはそれを黙って見つめていた。
人間の少年が、魔族である自分を治療している。
少し前までなら考えもしなかった光景。
けれど、不思議と悪いものには見えなかった。
やがてユリウスは空を見上げた。
青い空。
乾いた風。
いつもと何も変わらない空。
けれど、自分の胸元にはもう領主の証はない。
民は受け入れるだろうか。
何百年と続いてきたものを、変えることが出来るだろうか。
人間を従者として扱うことが、当たり前だった街。
急激な変化は、きっと混乱を招く。
反発する者もいるだろう。
今までの方が良かったと、言う者もいるだろう。
それでも変わらなければならない。
守るために変わらないのではない。
守りたいものがあるからこそ、変わらなければならない時もある。
先祖がそうしたように。
その時だった。
羽ばたく音。
ラグナが顔を上げる。
エルも空を見る。
「……鳥?」
空。
黒い影。
一羽の鳥型の魔物。
翼を大きく広げ、中庭へ向かって一直線に降りてくる。
ルミナスが僅かに剣へ手を伸ばす。
けれどユリウスが目を見開いた。
「待て」
鳥は中庭へ降り立つ。
その脚に、何かが括り付けられている。
一通の手紙。
ユリウスはその鳥を知っていた。
いや、正確にはその鳥を使う人物を知っていた。
「……まさか」
鳥は何も言わない。
ただ、ユリウスを見つめている。
ユリウスはゆっくりと近付く。
脚へ括り付けられた手紙を外す。
封に刻まれた印を見て、確信する。
「魔王様……」
ラグナたちが顔を見合わせる。
「ナタージャから?」
「ああ」
ユリウスは答える。
丁寧に折られた紙を開く。
視線を落とす。
一行。
また一行と読み進める。
やがて、その表情が変わった。
驚き。
呆れ。
そして、最後には小さな笑み。
「……まったく」
ユーリが首を傾げる。
「なんて書いてあったんですか?」
ユリウスは手紙から顔を上げる。
そして、ふっと笑った。
「魔王様には」
「どこまで見えているのだろうな」
ユーリが瞬きをする。
ユリウスは手紙を静かに折り畳んだ。
「呼び出しだ」
「私に、魔王城へ来いとな」
そして、隣に立つユーリへ視線を向けた。
「ユーリ」
「はい」
「お前も来い」
ユーリが僅かに目を見開く。
「……僕も?」
「ああ」
ユリウスは迷わなかった。
「これからこの街をどうするのか、私一人で決めるつもりはない」
その言葉にユーリは何も返せなかった。
少し前までなら、ユリウスが決めたことに従っていた。
それで良いと思っていた。
けれど今は違う。
ユリウスもまた、それを分かっている。
「……分かりました」
やがてユーリは小さく頷いた。
ユリウスも頷く。
それだけのやり取りだった。
けれど、二人の間にあるものは昨日までとは少しだけ違っていた。
ユリウスは立ち上がる。
まだ傷は完全には塞がっていない。
けれど、先ほどまでとはその立ち姿が違っていた。
胸元に領主の証はない。
それでも、ユリウスは南方を治める領主だった。
「すぐに発たねばならん」
砂漠の風が吹いた。
ライカの長い黒髪が揺れる。
その手には、深海色の真珠。
何百年もの時を越えて。
ようやく帰ってきたもの。
そして。
空へ、再び黒い鳥が羽ばたいていく。
まるで全てを見届けていたかのように。
遠い魔王城で。
五百年を生きる魔王は、きっと笑っている。




