第八十五話 領主の証
翌朝。
窓から差し込む陽光が、部屋を柔らかく照らしていた。
薄いカーテンが風に揺れ、その度に床へ落ちた光の形もゆっくりと変わっていく。
ラグナは寝台の端に腰掛けたまま包帯の巻かれた腕を、ゆっくりと動かしていた。
「……いてて」
肘を曲げ、肩を回す。
まだ痛みは残っている。
腕だけではない。
胸も、背中も。
身体を大きく動かすたびに、鈍い痛みが走った。
それでもまったく動けないほどではない。
「本当に行くの?」
少し離れた場所から、リオンが心配そうに声を掛けた。
ラグナは腕を下ろし小さく笑う。
「ああ」
「これくらいなら動ける」
「そういうことじゃなくて……」
リオンは困ったように眉を下げる。
「まだ三日も寝てた後なんだから」
「無理しないでね」
「ああ」
ラグナは素直に頷いた。
これまでなら、きっと「大丈夫だって」と笑って終わらせていただろう。
けれど、目を覚ました時に寝台の横で眠っていたライカを見た。
三日間。
自分が起きるのを待っていた。
そのことを思い出すと少しくらいは、心配される側の気持ちも考えなければいけない気がした。
ラグナはゆっくりと立ち上がる。
傍らに置かれていた剣へ手を伸ばす。腰へ差し、赤いマントを肩へ掛けた。
その時。
ふと、昨日のことを思い出した。
ユーリと二人で話した後、部屋を出る直前。
扉へ手を掛けたユーリが振り返り、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら言った。
『明日、ユリウス様と会合出来るように調整しておくよ』
ラグナはその時。
「ああ、頼む」
と答えた。
それだけだった。
けれど、今になって思えばあの時のユーリの笑顔は、いつもより少しだけ硬かった気がする。
ユリウスを信じたい。
昨日、ユーリはそう言った。
ラグナはその言葉を否定しなかった。
けれど今日、そのユリウス本人と真正面から話すことになる。
ユーリにとっても、きっと簡単な時間ではない。
ラグナは剣の柄へ触れ静かに息を吐いた。
「……行くか」
その声に部屋にいた皆が顔を上げる。
エルは腰に弓を下げる。
矢筒の位置を確かめ、ハープもいつものように肩へ掛ける。
ルミナスは静かに剣を整えた。
そして、ライカは胸元の刻へ、そっと手を触れていた。
深海色の真珠、淡い光は鼓動のように微かに揺れている。
ライカはその光を見つめる。
昨日までの自分なら、きっと目を逸らしていた。
ユリウスの胸元にあるものを見ただけで、息が出来なくなった。
逃げた。
感情を抑えきれず、雷まで溢れさせた。
怖かった。
知りたいのに、知ることが怖かった。
けれど今は違う。
ラグナがいる。
リオンがいる。
エルがいる。
ルミナスがいる。
何かあれば、自分を呼ぶ声がある。
手を伸ばしてくれる人がいる。
もう独りではない。
怖くないわけではなかった。
胸の奥は今も静かにざわついている。
それでも昨日、ラグナに言った。
『ユリウスと……話してみようと思う』
その言葉を今度は自分で守りたかった。
ライカは小さく息を吸う。
「……行こう」
その言葉にラグナが振り返る。
そして笑った。
「ああ」
「皆で行こうぜ」
ライカは小さく頷く。
その返事を見てリオンも、エルも、ルミナスも静かに頷いた。
五人は部屋を出た。
長い廊下。
石造りの床へ五人分の足音が静かに響く。
朝の宮殿は、まだ完全には目覚めていないようだった。
時折働く人間とすれ違う。
皆、深く頭を下げ道を譲る。
その首元には奴隷の証である首輪。
ラグナは何も言わない。
ただその姿を目で追った。
昨日、ユーリから聞いた言葉を思い出す。
『それが、この街の日常なんだ』
本当に、ここでは誰も不思議そうな顔をしていない。
人間も魔族もそれが当たり前だから。
けれど、ラグナにはまだ当たり前には見えなかった。
しばらく歩いて、やがて一行は大きな扉の前へ辿り着く。
扉の両脇には、魔族の兵士が二人。
その奥に領主の執務室。
兵士の一人がラグナたちの姿を確認すると、静かに扉へ手を掛けた。
扉が開く。
中には、窓際に立つユリウス。
そしてその傍らにはユーリの姿があった。
ユーリとラグナの目が合う。
ほんの一瞬、ユーリはいつものように笑った。
けれどやはり、どこか少しだけ表情が硬い。
「来たか」
ユリウスが振り返る。
浅黒い肌に黒髪。
深い皺の刻まれた顔。
その姿は、以前と変わらない威厳があった。
そして、胸元には深海色の真珠を嵌め込んだブローチ。
ライカの視線がそこへ向く。
「……っ」
一瞬、呼吸が詰まる。
胸の奥が締め付けられる。
リリアナ。
名前が頭の中へ浮かぶ。
けれどライカは目を逸らさなかった。
胸元の刻へ触れた指先へ、少しだけ力を込める。
逃げない。
今度は、ちゃんと見る。
「座るといい」
ユリウスは静かに言う。
ラグナたちは用意されていた席へ着いた。
ライカは、ユリウスと向き合う位置。
正面。
以前なら到底座れなかった場所。
しばらく誰も口を開かなかった。
窓の外から街のざわめきが聞こえる。
その静寂の中、先に口を開いたのはラグナだった。
「聞きたいことがある」
ユリウスはラグナを見る。
「聞こう」
「この街では」
ラグナは一度視線を落とす。
そして真っ直ぐユリウスを見る。
「人間が奴隷として扱われてる」
「どうしてだ」
部屋の空気が僅かに重くなる。
ユーリは何も言わない。
ただユリウスを見る。
ユリウスは少しだけ目を閉じた。
すぐには答えない。
それから静かに口を開く。
「昔からの慣習だ」
「我らの領地では、人間は従者として働く」
「その代わり食事を与え、住む場所を与え、守る」
落ち着いた声。
迷いは無かった。
「それが、この土地の秩序だ」
ユーリの指先が僅かに動いた。
それが、この土地の秩序。
何度も聞いた言葉。
何度も自分自身でも説明してきた考え。
昨日までなら聞き流すことが出来たかもしれない。
けれど、今日はその言葉が妙に重く聞こえた。
谷底の村。
採掘場。
そして昨日、何も否定せず自分の話を聞いてくれたラグナ。
いくつもの光景がユーリの中で静かに重なる。
ラグナは眉を寄せた。
「首輪を着けられてるやつもいた」
「酷い扱いを受けてる人間もいる」
ユリウスの表情が、ほんの僅かに曇る。
けれど目を逸らさない。
「全てを肯定するつもりはない」
「だが」
一度、言葉を切る。
「急激な変化は民を混乱させる」
「この街は長い年月をかけて築かれてきた」
「暮らしも商いも、人々の価値観も」
「全てが、この形の上に成り立っている」
ユリウスは静かに言う。
「私には」
「それを守る責任がある」
ラグナは黙る。
簡単に否定出来なかった。
人間が苦しんでいる、それは間違いない。
けれど、ユリウスが街を守ろうとしていることもきっと嘘ではない。
昨日ユーリから聞いた話と同じだった。
だからこそ余計に、簡単な答えが見つからなかった。
ユーリはユリウスの横顔を見つめる。
十歳の頃。
窓辺に立ち、街を見下ろしながらユリウスは言った。
『私が守るべき街だ』
あの言葉もきっと、今も変わっていない。
だから余計に胸がざわついた。
そして、今度はライカが口を開いた。
「……聞きたいことがある」
声は小さい。
けれどしっかりと届いた。
ユリウスがライカを見る。
深海色の瞳が、真っ直ぐ逃げずにユリウスを見ている。
「なんだ」
ライカは、一度だけ呼吸を止めた。
胸が苦しくなる。
目を逸らしたくなる。
あの夜の感情が、また蘇りそうになる。
けれど昨日、ラグナへ言った。
話してみようと思う。
だから今度は逃げない。
ライカは震える手を握り締める。
「そのブローチ」
ユリウスの胸元へ視線を向ける。
深海色の真珠。
リリアナ。
「……返してほしい」
部屋の空気が変わった。
ユーリがゆっくりと目を伏せる。
ユリウスはすぐには答えなかった。
ただ静かにライカを見つめる。
責めるような目ではない。
怒ってもいない。
ただ、理解出来ないものを前にした人の目だった。
「理由を聞こう」
ライカは胸元の刻へ触れる。
「……リリアナ」
声が、少しだけ震える。
「わたしの……大切な人」
「その刻だから」
言葉にした瞬間、胸が痛む。
けれどもう雷は漏れない。
逃げもしない。
ただ、その痛みごと言葉にしている。
長い沈黙。
やがて、ユリウスは自分の胸元へ手を触れた。
深海色の真珠。
代々、領主へ受け継がれてきたもの。
「このブローチは」
ユリウスが静かに言う。
「領主の証だ」
「代々、我が一族へ受け継がれてきた」
「深海色の真珠は唯一無二で、歴史上二つ存在したことはない」
その言葉に、ライカの瞳が僅かに揺れる。
ユリウスの眉間へ少しだけ皺が寄った。
「お前の存在は異質だ」
ライカの肩が、僅かに強張る。
だが、ユリウスの声には侮蔑も敵意も無かった。
「私には理解出来ない」
本当に分からないのだ。
何百年も領主の証として受け継がれてきたものを、目の前の少女が大切な者の命の証だと言っている。
その事実をどう受け止めればいいのか。
ユリウス自身にも答えが無い。
ライカは唇を噛む。
そしてゆっくり問い掛ける。
「……わたしの同胞たちは」
一度、息を吸う。
「どこへ行ったの」
「あなたたちが……」
声が少しだけ掠れる。
「連れていったの」
ユーリの表情が僅かに変わった。
ユリウスは答えない。
しばらく、ただ静かに目を閉じる。
やがて。
「記録には残っていない」
低い声。
「私も知らぬ」
ライカは何も言えない。
「残されたのは」
ユリウスの指がブローチへ触れる。
「このブローチのみだ」
ライカは俯く。
ほんの少しだけ。
けれど、以前のように完全に閉じることはなかった。
その姿を、ユーリは見つめていた。
胸の奥がざわついている。
先祖。
深海色の真珠。
唯一無二。
歴史から消えた種族。
そして昔、まだ幼かった頃に古い書庫で読んだ手記。
『三日真珠』
採取から三日で跡形もなく崩れる宝石。
高価なものとして扱われていたという記録。
その記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
そして今、この街で行われていること。
人間を従わせる。
それを当然のものとして受け入れる。
もしかすると。
遠い昔彼女たちも、海底の民も同じように自分たちの都合で扱われていたのではないか。
「……」
ユーリの唇が僅かに動く。
けれど声にはならない。
まだ口に出来なかった。
証拠はない。
何より、それを認めてしまうことが怖かった。
しばらくしてユリウスが立ち上がった。
椅子が静かに床を擦る。
「返すことは出来ん」
ライカが顔を上げる。
「これは領主の証だ」
ユリウスは真っ直ぐ言う。
「この街そのものを背負っている」
「私一人の判断で手放すことは出来ない」
ライカは静かに目を閉じた。
胸が痛い。
望んでいた答えではない。
けれど、今度はそこで終わらなかった。
ゆっくり目を開く。
深海色の瞳。
もう俯いてはいなかった。
「……そう」
小さな声。
そして。
「なら」
ユリウスを見る。
「わたしは諦めない」
その声は大きくない。
けれど、揺れなかった。
ユリウスが僅かに目を見開く。
目の前の少女。
初めて見た時は、自分の姿さえまともに見ることが出来なかった。
それが、今は真正面から自分へ願いを告げている。
ユリウスの表情がほんの少しだけ緩む。
「変わったな」
ライカは瞬きをする。
「以前のお前なら」
「何も言えなかっただろう」
ライカは少しだけ視線を横へ向ける。
そこにラグナたちがいる。
そして再び、ユリウスを見る。
「……独りじゃないから」
静かな言葉。
けれど、そこには確かな強さがあった。
ユリウスの視線がラグナへ向く。
ラグナはゆっくり立ち上がった。
身体が痛む。
けれど表情には出さない。
「俺たちはライカの味方だ」
「リリアナを返してやりたい」
「それだけだ」
ユリウスはラグナを見つめる。
しばらくして、小さく頷いた。
そして壁際へ歩く。
そこには一本の槍。
黄色い宝石の装飾が施された長槍。
ユリウス領の色。
領主が扱う武器。
ユリウスは、その槍へ手を伸ばした。
手に取る。
重い音。
槍の石突が床へ触れる。
「言葉だけでは」
ユリウスは静かに言う。
「証明出来ないものもある」
ラグナの眉が僅かに動く。
ユリウスは槍を肩へ担いだ。
「力を示せ」
「お前たちの覚悟を」
部屋の空気が一瞬で変わる。
エルの表情から笑みが消える。
リオンは無意識にロザリオへ手を伸ばす。
ルミナスは静かに剣の柄へ触れた。
そして、ユーリは小さく息を呑んだ。
「……」
ユリウスを見る。
槍を持つ背中。
幼い頃から何度も見てきた背中。
迷いのない背中。
ずっと憧れていたその背中が。
今、ラグナたちと向き合おうとしている。
ユーリの指先が、無意識のように腰元へ伸びる。
そこには常に身に着けている短剣。
指が柄へ触れる。
何故、そうしたのか自分でも分からない。
止めたいのか、守りたいのか。
ユリウスを。
ラグナたちを。
それともこの場そのものを。
何一つ分からない。
ただ、短剣へ触れた指先だけが僅かに震えていた。
抜こうとはしない。
握り締めることも出来ない。
ただそこに触れている。
ユリウスは、そのことに気付かないまま扉へ向かう。
「中庭へ来い」
振り返らずに言った。
「話の続きをしよう」
扉が開く。
ユリウスがその向こうへ消えていく。
ラグナたちも静かに立ち上がる。
その時、ラグナはふとユーリへ視線を向けた。
ユーリの手はまだ短剣の柄へ触れている。
けれど、握ることも離すことも出来ずにいる。
昨日ユーリは言った。
『僕は、ユリウスを信じたいんだ』
ラグナは何も言わない。
ただその手を一瞬だけ見つめた。
そして自分の剣の柄へ手を掛ける。
海底神殿。
失われた海底の民。
リリアナの刻。
ユリウス領。
人間と魔族。
それぞれが守りたいものを抱えている。
その答えを問うための戦いが。
今、始まろうとしていた。




