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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第六章 ユリウス領
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第八十四話 信じる理由

「明日、ユリウス様と会合出来るように調整しておくよ」

 部屋を出る直前、ユーリは振り返った。


 いつもの穏やかな笑み。

 けれど、その奥にあるものを今のラグナは少しだけ知っている。


「ああ、頼む」


 ラグナが答える。


 ユーリは小さく頷いた。


 そして、扉の向こうへ消えていった。

 静かに扉が閉まる。

 部屋には再び静けさが戻った。


 ラグナはしばらく閉じた扉を見つめていた。


 親に捨てられたこと。

 名前すら持っていなかったこと。

 ユリウスに拾われたこと。


 食事を与えられ。

 寝床を与えられ。

 学ぶ機会を与えられ。


 名前を与えられた。


 そして、居場所を与えられた。


『僕は』


『ユリウスを信じたいんだ』


 最後に見せた、あの表情。

 商人の顔でも従者の顔でもなかった。

 ただ、大切な人を信じたいと願う一人の青年の顔だった。


 ラグナは小さく息を吐いた。


「……信じたい、か」


 その言葉を、もう一度だけ胸の中で繰り返した。


 それから少しして、扉が開いた。


「終わった?」


 最初に顔を覗かせたのはエルだった。


 その後ろからリオン、ルミナスそしてライカが入ってくる。


「おう」


 ラグナが頷く。


 すると、エルは手にしていた盆を高く持ち上げた。


「じゃあご飯食べよう!」


 その上にはパン、野菜のスープ、果物。

 そして簡単な肉料理が並んでいる。


「ラグナ、三日ぶりなんだからちゃんと食べるんだよ!」


「そんな寝てたんだよな……」


 改めて言われると、少し変な気分だった。

 自分にとっては、目を閉じて次に目を開けただけ。


 それなのに、皆にとっては三日間だった。


 ラグナは苦笑する。


「腹減ってるわけだ」


「当然だよ!」


 エルが椅子を引く。


「はい、座って座って!」


「いや、俺ずっと寝台に座ってるんだけど」


「あ」


 一瞬エルが固まる。


 リオンが小さく吹き出した。


「エルも少し落ち着いたら?」


「だってラグナが起きたんだもん!」


「気持ちは分かるけど」


 リオンも笑っている。


 ルミナスは盆からスープを取り、ラグナの前へ置いた。


「まずはこちらを」


「消化の良いものから食べた方がよろしいかと」


「お、おう」


「それから、あまり急いで食べないようにしてください」


「分かったって」


「あと傷が開く可能性がありますので、大きく身体を動かさないように」


「ルミナスまでリオンみたいになってないか?」


「当然の配慮です」


 真顔だった。


 ラグナは困ったように笑う。


 その隣でエルがパンへ手を伸ばした。


「じゃあ、このパンあたし食べていい?」


「それ俺のじゃないのか?」


「急いで食べちゃ駄目なんでしょ?」


「食うなとは言われてねぇよ」


「ちぇー」


「なんで残念そうなんだよ」


 また笑い声が生まれる。


 ライカは、そんな皆の様子を静かに見つめていた。

 深海色の瞳がほんの少しだけ細くなる。


 いつの間にか、自分もこの輪の中にいた。


 海底神殿では、食事を囲むことも。

 誰かの無事を喜ぶことも。

 くだらないことで笑うこともなかった。


 ただ、静かな時間だけが流れていた。

 何百年もずっと。


 けれど今は、隣に誰かがいる。

 声が聞こえる。

 笑い声が聞こえる。


 それだけで、同じ静けさでもまるで違って感じた。


 しばらく穏やかな時間が流れた。


 ラグナも久しぶりの食事をゆっくりと口へ運ぶ。


 温かい。

 その温度が、身体の中へ少しずつ戻っていくようだった。


 やがて、皆の食事が落ち着いた頃。

 リオンが静かに口を開いた。


「ラグナ」


「ん?」


「ユーリと、何を話したの?」


 ラグナの手が止まる。


 少しだけ考える。

 全部を話して良いものか。

 ユーリが自分に話してくれた過去。


 それはきっと、簡単に他人へ語って良いものではない。

 だから、ラグナは少しだけ言葉を選んだ。


「この街のことを聞いた」


「それと」


 閉じた扉を見る。


「ユーリ自身のことを少しな」


 リオンはそれ以上聞かなかった。

 ただ、静かに頷く。


 エルも、ルミナスも、ライカも何も言わない。

 それだけでラグナには十分だった。


 しばらくして今度はリオンが口を開く。


「僕は……」


 少しだけ迷う。

 それでも言葉にした。


「ユーリを信じたいって思ってる」


 ラグナは顔を上げる。


 リオンは胸元のロザリオへ触れた。


「ラグナを宮殿へ運ぶことを許してくれたのはユーリだ」


 あの夜。


 放電が収まった後、意識を失ったラグナ。

 動かない身体、焼けた服、雷の痕。


 リオンたちだけではどうすることも出来なかった。


「僕たちを見た魔族は、最初ここへ入れるのを迷ってた」


「でも」


 リオンは覚えている。


 魔族たちの前へ出たユーリ。

 いつもの穏やかな声。

 けれどはっきりと言った。


『僕が責任を取ります』


「ユーリがそう言ってくれたんだ」


「僕たちが人間だからとか、ライカが何者なのかとか、そんなことを言うより先にラグナを助けようとしてくれた」


 リオンはラグナを見る。


「だから僕は」


「少なくとも、あの時のユーリの言葉は信じたい」


 ラグナは静かに頷いた。


 ルミナスも口を開く。


「担架を持った魔族を連れてきてくれたのも、ユーリでした」


「あのままでしたら、ラグナを運ぶことは難しかったと思います」


 ルミナスは一度。


 包帯の巻かれたラグナを見る。


「言葉だけではありません」


「ユーリは実際に行動しました」


「それに」


 少しだけ間を置く。


「ラグナが眠っている間も、何度か様子を見に来ています」


「ユーリが?」


 ラグナが目を丸くする。


「はい」


 ルミナスは頷く。


「傷の状態を確認し、必要なものがないか聞いてくださいました」


 ラグナは少し驚いたように。


 また扉を見る。


 そんなことは、本人から一言も聞いていなかった。


 エルも大きく頷く。


「ご飯だってそうだよ!」


 皆の視線が向く。


「全部ユーリが手配してくれたんだから!」


 エルは空になった皿を指差す。


「宮殿で働いてる人たちも、皆普通に接してくれたし」


「人間の人もいたけど、怖がってるようには見えなかった」


 その言葉に、ラグナは少しだけ目を伏せた。


 そういえば、この宮殿に来てからユリウスへの不満を口にする者を見ていない。

 料理を運んできた人間たちも、掃除をしていた者も、廊下ですれ違った者も。

 どこか穏やかな表情をしていた。


 それが本心なのか。

 あるいはそう振る舞っているだけなのか。


 ラグナにはまだ分からない。


 奴隷市場。


 首輪を着けられた人間たち。

 それも確かにこの街の姿だった。


 けれど、今見ているものも同じ街の姿だった。

 どちらかだけを見て全てを決めることは出来ない。


 だから話す必要がある。


 ユリウスと。


 そして。


 ユーリと。


 その時、ライカがふと視線を落とした。


 足元の黒いブーツ。

 まだ履き慣れない。


 海底神殿では靴など必要なかった。

 石の冷たさも水の感触も、ずっと裸足で感じてきた。


 けれど初めて外へ出た時。

 日に照らされた砂は熱く、小さな石は痛かった。

 そんな自分へ、何も言わずユーリが用意してくれたもの。


 外の世界を歩くためのもの。


 ユーリは、自分が何者なのか知らなかった。

 今も全てを知っているわけではない。


 それでも、海底神殿から現れた自分を怖がらなかった。

 遠ざけなかった。

 問い詰めることもしなかった。


 ただ、必要なものを用意してくれた。


 ライカはゆっくり顔を上げる。

 深海色の瞳が、真っ直ぐ皆を見る。


「……わたしも」


 少しだけ間を置く。


 以前なら、怖かった。

 誰かを信じることが。


 いつかいなくなるかもしれない。

 いつか傷付けられるかもしれない。

 だったら、最初から距離を置いた方がいい。


 そうやって何百年も生きてきた。

 けれど今は。


「ユーリを信じる」


 静かな声。

 けれど迷いはなかった。


 リオンが微笑む。


 エルも頷く。


 ルミナスも静かにライカを見つめている。


 そして皆の視線がラグナへ向いた。


 ラグナは少しだけ目を瞬かせる。

 それから、ふっと笑った。


 見ているだけで大丈夫だと思えるような。

 いつもの、真っ直ぐで温かな笑顔。


「俺もだ」


 それだけだった。

 理由は言わなかった。

 ユーリが話してくれたことを、皆へ語るつもりもなかった。


 ただ、あの時ユーリが見せた顔を知っている。


『僕は』


『ユリウスを信じたいんだ』


 あの言葉を信じてみたいと思った。

 だから、それだけで十分だった。


「明日」


 ラグナは皆を見る。


「もう一度、ユリウスと話そう」


 リオンが頷く。


「うん」


 エルも。


「今度はちゃんと聞いてもらおうよ」


 ルミナスも。


「私も同行します」


 最後にライカ。

 胸元の刻へ、そっと手を添える。


「……わたしも」


 逃げない、今度こそ聞く。


 リリアナのこと。

 同胞たちのこと。

 そして、取り戻す。


 そのために。


「行く」


 ラグナは頷いた。


 明日、もう一度ユリウスと向き合う。

 今度は皆で。




 その日の夜、街から少し離れた採掘場が月明かりに照らされる。

 昼間の熱気は消え、冷たい風が岩肌を撫でていた。

 人気のなくなった採掘場。


 そこを、一人の青年が歩いていた。


「最近よく来るね」


 声がする。


 ユーリは足を止めた。


 レン。


 仕事を終えたのだろう。

 少し汚れた服、疲れの残る顔を浮かべる茶髪の少年は。

 それでもいつものように笑っていた。


 ユーリも小さく笑う。


「ちょっと考え事したい時に丁度いいんだよ」


 レンは苦笑する。


「ここが?」


「静かだからね」


「俺には仕事場だけどなぁ」


「それはそうだね」


 二人が笑う。

 ほんの少しだけいつもと同じ会話。


 ユーリは岩へ腰を下ろした。


 レンはその少し離れたところに立っている。


 ユーリは何気なく、隣の空いた場所を見る。

 そして口にした。


「レンも座れば?」


「え?」


 レンが目を瞬かせる。

 その反応に、今度はユーリが少し驚く。


「いや、立ってると疲れるでしょ?」


「今日はもう仕事も終わったんだし」


「ああ……」


 レンは曖昧に笑った。

 けれど、座らなかった。


「俺はここでいいよ」


「……どうして?」


 何気ない問いだった。

 けれど、レンは少し困ったような顔をする。


「どうしてって……」


 言葉を探す。

 それから、当たり前のことを説明するように笑った。


「ユーリの隣には座れないよ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……なんで?」


「なんでって」


 レンはまた笑う。


「だってユーリは、ユリウス様のところの人間だろ?」


 ユーリの表情が止まる。


「俺とは違うよ」


 月明かり。


 二人の間。


 ほんの数歩、手を伸ばせば届くような距離。

 なのに、その瞬間ひどく遠く感じた。


 主人と従者。

 支配する側と支配される側。


 ユーリは魔族ではない。

 レンと同じ人間だった。


 親に捨てられ、名前もなく行く場所もなかった。

 もしあの日、ユリウスに拾われていなかったら。


 もしかすると、自分もここにいたのかもしれない。

 首輪を着けられ、誰かの命令で働き、誰かの許可がなければ。

 隣へ座ることすら出来ない場所に。


 それなのに。

 いつの間にか、自分は反対側に立っていた。


 ユーリは自分の隣にある空間を見る。

 誰もいない。


「……そっか」


 小さく呟く。


 今まで、何度もレンと話した。

 笑った。

 仕事の話をした。

 街の話をした。


 友人のように思っていた。

 けれど、レンにとって自分は本当に同じだったのだろうか。


 いや、違う。

 最初から同じ場所には立っていなかった。


 自分が気付かなかっただけ。

 いや、気付かないふりをしていただけ。


 ユーリは膝の上でゆっくり手を握る。

 脳裏に昼間の言葉が蘇った。


『どう思ってる』


 ラグナの問い。

 そして自分は答えた。


『僕は』


『ユリウスを信じたいんだ』


 あの時、ラグナは否定しなかった。

 責めなかった。

 自分がユリウスの従者だからと、距離を取ることもしなかった。


 ただ。


『……そうか』


 そう言って、自分の言葉を受け止めてくれた。


 ユーリは隣の空いた場所を見る。


 ラグナは、自分をどこに置いていたのだろう。


 人間。


 従者。


 商人。


 ユリウスに拾われた子。


 きっとどれでもない。


 ただ、ユーリとして見ていた。


「……レン」


「ん?」


 ユーリは顔を上げる。


「僕たちって」


 言いかける。


 友達なのかな。


 そう聞こうとして止めた。

 今、それを聞くことがひどく卑怯なことに思えた。


 レンに、そうだと言わせたいだけかもしれない。

 自分が安心するために。


 だから。


「……いや」


 ユーリは笑う。

 いつもの、商人の笑顔。


「なんでもないよ」


 レンも笑う。


「変なユーリ」


「よく言われるよ」


 いつもと同じ。

 そんな会話。

 けれど、ユーリにはもう同じには聞こえなかった。


 ほんの数歩。

 二人の間にある距離。

 今まで見えなかったものが、はっきりと見えてしまった。




 時を同じくして、遥か遠くの魔王城。

 静まり返った城内、石造りの廊下を一人の女が歩いていた。


 靴音だけが響く。


 その姿を見れば、誰もが道を空ける。


 魔王ナタージャ。


 やがて地下へ続く階段へ辿り着く。

 灯りは少ない。


 一段。

 また一段とゆっくりと下りていく。

 空気が冷たくなる。


 湿った石の匂い。

 その先に、重い鉄格子。


 そして暗闇。


 ナタージャは足を止めた。


 鉄格子の向こう。

 姿は見えない。

 ただ、そこに誰かがいる。


「あやつらは本当に三つの村で成果を残した」


 暗闇へ向けて語り掛ける。

 返事はない。

 けれど、ナタージャは気にする様子もない。


「人間と魔族が共に暮らす者たちを見つけ、森の村では再び人間と魔族を繋いだ」


 少しだけ楽しそうに。


「断崖の村では、わらわも知り得なかった魔族の少女を見つけ出した」


「谷底では」


 一度、言葉を切る。


「魔族たちの前で魔物を生かし逃がした」


 静寂。


 ナタージャは鉄格子へ指を添える。


「そして今は、遥か南のユリウス領だ」


 口元が僅かに笑う。


「遠いところへ行ってしまったな?」


 暗闇。


 やがて、低い声が返った。


「……無意味だ」


 ナタージャの笑みは消えない。


「ほう?」


「何をしようと」


 低い冷たい声。

 感情が、遥か昔に凍り付いてしまったような声。


「魔王がいる限り」


「何も変わらない」


 ナタージャは、しばらく何も言わなかった。

 自分こそがその魔王だというのに、怒る様子はない。


 やがて小さく息を吐く。


「そうかもしれんな」


 暗闇の向こう。

 僅かに気配が動いた。


 まるで、その返答を予想していなかったように。


 ナタージャは続ける。


「だが」


 鉄格子から手を離す。


「それを決めるのは」


 一歩、後ろへ下がる。


「わらわでも」


 暗闇を見る。


「お主でもない」


 返事はない。


 ナタージャはそれ以上何も言わなかった。

 静かに踵を返す。


「また来るぞ」


「……好きにしろ」


「そうさせてもらおう」


 どこか楽しげに答える。


 そして、階段を上っていった。


 地上。

 魔王城の高い塔から夜空を見渡す。


 冷たい風がナタージャの長い髪を揺らす。


 遠く山々の向こう。

 さらにその先。


 南。


 ラグナたちがいる場所。

 もちろんここから見えるはずもない。

 それでもナタージャは、そちらへ視線を向けた。


 最初はただの可能性だった。


 勇者になれなかった少年。


 ネクロマンサーになれなかったヒーラー。


 狩人になれなかった吟遊詩人。


 そして、自らが生み出した勇者。


 誰も世界を変えるほどの力など持っていなかった。

 少なくとも、そう見えた。

 けれど、彼らが歩いた場所には少しずつ何かが残っている。


 人と魔族が、互いを見るようになった。

 昨日まで敵だった者が言葉を交わした。

 誰かが、誰かを信じようとした。


 ほんの小さな変化。

 世界から見れば、取るに足らないもの。

 それでもナタージャは知っている。


 大きな変化というものは、いつだって最初は小さい。


「さて」


 ナタージャは腕を差し出した。

 夜空からの羽音。

 一羽の黒い鳥型の魔物が舞い降りる。


 その爪がナタージャの腕へ止まった。


「頼めるか?」


 鳥は、小さく首を傾げる。

 ナタージャは懐から一通の手紙を取り出した。


 封は閉じられている。

 宛先は、誰にも見えない。

 その手紙を鳥の脚へ括り付ける。


「そろそろ頃合いか」


 鳥は羽を広げる。

 一度大きく羽ばたいた。


 そして、夜空へ。

 黒い影が月明かりを横切る。

 遥か、南へ飛んでいく。


 ナタージャは、その姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。


「見せてもらおうか」


 誰に聞かせるでもなく小さく呟く。


「お主らが」


 風が吹く。

 その言葉を夜の彼方へ運んでいく。


「どこまで行けるのかを」


 ナタージャの表情は、どこか楽しげだった。


挿絵(By みてみん)

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