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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第六章 ユリウス領
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第八十三話 信じたいもの

 部屋には、静かな空気が流れていた。


 窓から差し込む朝の光。

 薄いカーテンが風に揺れ、そのたびに床へ落ちた光もゆっくりと形を変えていく。

 聞こえるのは時折、窓の隙間を抜ける風の音だけ。


 寝台に腰掛けるラグナ、その前に立つユーリ。

 二人きりになってからどちらもすぐには口を開かなかった。


 互いに聞きたいことはある。

 話したいこともある。

 けれど何から話せば良いのか。


 少しだけ分からない。

 ラグナは黙ったまま、目の前に立つユーリを見る。


 いつもと変わらない、穏やかな表情。

 人当たりの良い笑み。

 魔族の森の村で、初めて出会った時からほとんど変わらない姿だった。


 けれど、今は何となくその笑顔の奥に、別のものが隠れているような気がした。


 ユーリの視線が、ふとラグナの身体へ向く。

 腕、肩、胸元。

 そこにはまだ、何重にも包帯が巻かれている。

 青白い雷の中へ飛び込んだ証。


 三日間、目を覚まさなかったほどの傷。

 ユーリはほんの僅かに目を細める。


 それから、重くなりかけた空気を払うように。

 ぱん、と。

 軽く手を叩いた。


「で」


 いつもの軽い口調。


「ライカ様とは、どんな関係なのかな?」


「……え?」


 ラグナは思わず聞き返した。

 予想していた質問とは、まるで違った。


 ユーリは笑っている。


「きみはライカ様のことを、どう思っているのかな」


「いや……」


 ラグナは困ったように眉を寄せる。


「なんだよ、急に」


「ちょっと気になってね」


 ユーリはそう言って肩を竦める。

 いつもの笑顔。

 商人として、いくつもの土地を巡り多くの人間や魔族と接してきたからだろう。


 感情を隠すことが上手い。

 冗談にも見える。

 いつもの軽口にも聞こえる。


 けれどラグナには何となく分かった。

 冗談ではない。

 ユーリは、本当にその答えを知りたがっている。


「どうって……」


 ラグナは頭を掻く。


 少し考える。


 ライカ。


 海底神殿で出会った、ずっと独りだった少女。

 外の世界を怖がり、それでも自分の足で海の上へ出てきた。

 一緒に旅をして、食事をして、話をして。


 そして今は自分たちと一緒にいる。

 考えてみれば、出会ってからそれほど長い時間が経ったわけではない。

 それでも答えは簡単だった。


「大事な仲間だ」


「……仲間」


 ユーリは、その言葉を静かに繰り返した。


 一瞬だけ。


 笑みが薄くなる。


「それだけ?」


「それだけって……それ以上なんかいるのか?」


 あまりにも当然のように返されて、今度はユーリが言葉に詰まった。


「いや」


 小さく笑う。


「きみらしいなと思って」


 それから。

 もう一度、包帯へ視線を落とす。


「危険を顧みず、雷の中に入ったと聞いたけど?」


「ああ」


 ラグナは短く答えた。


 脳裏に蘇る。


 砂漠の夜。

 辺り一面を照らしていた青白い雷。

 白く染まった髪、震える身体。


 そして振り返ったライカの顔。


『来ちゃだめ』


 自分が傷付くことよりも、誰かを傷付けてしまうことを怖がっていた。

 泣きそうな顔。


 ラグナは僅かに目を伏せる。


「放っておけなかったからな」


 それだけだった。


 真っ直ぐな声。

 そこに打算はない、見返りもない。

 自分が傷付くかもしれないという恐怖さえ、きっとあの瞬間には無かった。


 ただ、独りにしたくなかった。

 そうしたかった。

 だから、そうした。


 ユーリはラグナを見つめる。

 その答えのどこかに理由を探すように。

 けれど、どれだけ見てもそこには何も隠されていなかった。


 ユーリは微かに目を見開く。

 そして、ゆっくりと視線を逸らした。


「……そっか」


 それだけ言って、口を閉ざした。

 仲間だから、大切だから、信じているから。

 だから、命を危険に晒してでも手を伸ばせる。


 そんなものなのだろうか。


 ユーリにはまだよく分からなかった。


 短い静寂の後、今度はラグナが口を開く。


「俺からも聞かせてくれ」


 ユーリが顔を上げる。


 ラグナの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。


「宿屋でも聞いた」


「この街には人がいない」


「奴隷市場があった」


 一つずつ、見たものを思い返す。

 鉄格子、首輪、狭い檻の中にいた人間たち。


「それに、俺たちの宿屋が襲われた」


 ラグナは真っ直ぐユーリを見る。


「どういうことだ?」


 ユーリは何も答えない。

 しばらくして、ゆっくりと息を吐いた。


「……それが、この街の日常なんだ」


「日常?」


「ああ」


 遠い昔から、ずっとそうだった。

 人間は働く、魔族は統治する。


 それが常識。


 誰かが決めたわけでもない。

 けれど、いつの間にかそういうものなのだと皆が受け入れていた。


「人間を連れて歩く魔族はいない」


 ユーリは静かに話す。


「家族のように暮らしている者もいる」


「大切にしている者もいるよ」


 一度、言葉を切る。


「でも」


「それを外に見せることはしない」


 ラグナは眉を寄せた。


「なんでだよ」


「魔族と人間は、主人と従者」


 ユーリの声は淡々としている。


「それが、この街の常識だから」


 昼間、街に人間がほとんどいなかった理由。

 皆、家の中で店の奥で施設の中で働いている。


 それを疑問に思う者は少ない。

 ここで生まれた者にとって、それが普通だから。


 ラグナは黙って聞いていた。


 それから静かに問い掛ける。


「酷い扱いを受けてるやつもいるんだろ」


 ユーリの表情がほんの少しだけ固まった。


 採掘場、暗い坑道、首輪。

 汗だくで働いていた人間たち。

 その中にいた、一人の少年。


 レン。


『僕たちは、ここで働くしかないから』


 その声が脳裏に蘇る。


「……そうだね」


 短い返事。


 表情はほとんど変わらない。

 けれど、その声だけが少し重かった。

 ラグナはそれを見逃さなかった。


「どう思ってる」


 ユーリはすぐには答えなかった。


 以前なら、何と答えていただろう。


 仕方がない。

 この街には、この街のやり方がある。

 そういうものだから。


 きっと迷わず答えられた。


 けれど、今は谷底の村を知っている。

 人間と魔族を分けることなく、自分を迎え入れた者たちを知っている。


 ラグナたちと旅をした。

 魔族だから、人間だから。

 そんなことを気にせず手を差し伸べる者たちを見た。


 そして、レンと話した。


 だから言葉が出なかった。


 ユーリは視線を落とす。


 しばらくして、寝台の横に置かれていた椅子へ歩いていく。

 静かに腰掛けた。


「……僕はね」


 いつもの軽さが、少しだけ消えていた。


 ラグナは何も言わない。


 ただ待った。


「親に捨てられたんだ」


 ラグナの目が僅かに開く。


 ユーリは自分の手を見る。


「名前も無かった」


「帰る場所も無かった」


 淡々とした声。

 昔の誰かの話でもするみたいに。


「砂漠を歩いて」


「何日だったかな」


 小さく笑う。


「もう覚えてないや」


 その笑みは、いつもの笑顔とは少し違った。


「何も食べてなくて」


「水も無くて」


「もう、このまま終わるんだろうなって思ってた」


 ラグナは黙って聞く。


 ユーリは続ける。


「そこでユリウス様に拾われた」


 温かい食事を与えられた。

 柔らかな寝床を与えられた。

 新しい服を与えられた。


 文字を教えてもらった。

 計算を、地理を、歴史を。

 知らなかった世界を教えてもらった。


「初めて食べた温かいスープの味」


 ユーリは少しだけ目を細める。


「今でも覚えてるよ」


 そして。


 名前をもらった。


 ユーリ。


 何者でもなかった少年が、初めて自分を呼ぶための言葉を与えられた。


「僕は、本当に何も持ってなかった」


 静かな声。


「何も」


「でも」


 ユーリは胸元へ手を置く。


「全部、ユリウス様からもらったんだ」


 食事、寝床、学ぶ機会。

 役割、居場所。


 名前。


 そして、生きる理由。


 年月が過ぎ、魔笛を預けられた。

 自分なら任せられると言われた。


 息子のようなものだと、そう言ってもらえた。


 ユーリはその言葉を口にはしなかった。

 けれどあの日のユリウスの顔は、今でも鮮明に覚えている。


 ラグナはしばらく何も言えなかった。


 ようやく分かった。


 どうしてユーリが、この街の現実を知りながらユリウスの傍にいるのか。

 どうして簡単に否定出来ないのか。


 ユーリはゆっくり顔を上げる。


 そこにはもう、商人の笑顔は無かった。

 いつもの何を考えているのか分からない表情でもない。

 初めて、ラグナの前で隠すことなく感情が表へ出ていた。


「僕は」


 一度、言葉が止まる。

 ほんの僅かにユーリの指が握られる。


「ユリウスを信じたいんだ」


 その声に偽りはなかった。


 商人の仮面でもない、従者の顔でもない。

 自分を拾い、名前を与え、生きる場所をくれた。

 父を慕う息子の声だった。


 ラグナは何も言わない。


 ユーリはその沈黙を受けながら、どこか身構えていた。

 何を言われるのだろう。


 そんなことをしている奴を信じるのか。

 間違っている。

 目を覚ませ。


 そう言われても、仕方がないと思った。


 ラグナは見たのだから。


 奴隷市場を、この街で生きる人間たちを。

 けれどラグナは少しだけ目を伏せた。

 そして、ふと思う。


 最初にユーリが聞いたこと。


『ライカ様とはどんな関係なのかな』


『きみはライカ様のことをどう思っているのかな』


 あの問い。


 もしかしたら、ユーリが知りたかったのはライカとの関係じゃなかったのかもしれない。

 どうして自分はライカを信じられるのか。

 どうして危険だと分かっていても、手を伸ばせるのか。


 その理由を知りたかったのかもしれない。


 そして、ラグナはもう一つ気付いた。


 ユーリは言った。


 信じている、ではなく信じたい。

 その違いに。


 けれど、ラグナは何も言わなかった。

 それを指摘することもしなかった。

 ユーリ自身がまだ答えを出せていないものを、無理に言葉にする必要はない。


 だから、否定しなかった。

 責めなかった。


 ユリウスを許したわけでもない。

 この街のやり方を受け入れたわけでもない。

 ただ、目の前にいるユーリが、それでも大切な人を信じたいと願っている。


 その気持ちだけは、否定したくなかった。


 ラグナは静かに頷いた。


「……そうか」


 それだけだった。


 ユーリは目を瞬かせる。


「……それだけ?」


「ああ」


 ラグナはユーリを見る。


「お前がそう思ってるなら」


「俺が勝手に決めることじゃねぇだろ」


 ユーリは何も言えなかった。


 怒られると思っていた。

 否定されると思っていた。

 それなのに、何も奪われなかった。


 信じたいという気持ちさえ、そのまま受け止められた。


 ユーリは視線を落とす。


 そして、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。


「……きみって」


 小さく笑う。


「変な人だね」


「なんだよ、それ」


 ラグナも少しだけ笑った。


 窓から、柔らかな風が入ってくる。

 カーテンが静かに揺れる。

 二人の間にあった重い空気が、ほんの少しだけほどけていった。


 そしてユーリは、自分でもまだ気付いていなかった。

 この時初めて誰かに話した過去と一緒に、ずっと胸の中へ閉じ込めていた迷いまで。

 ラグナへ預けていたことを。


 ラグナの。


「……そうか」


 その言葉は、何かを肯定する言葉ではなかった。

 何かを許す言葉でもなかった。

 ただ、ユーリ自身をそのまま受け止める言葉だった。


 だからこそ、その言葉はユーリが今まで聞いたどんな言葉よりも優しかった。

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