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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第六章 ユリウス領
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第八十二話 おはよう

 柔らかな光が、部屋を照らしていた。

 閉じられた窓の隙間から差し込む朝の光。

 薄いカーテンが、風に揺れている。


 遠くから街の人々の声が聞こえていた。

 誰かが行き交う足音、荷車の車輪が石畳を転がる音。


 いつもと変わらない、オアシス都市の朝。


「……」


 ラグナはゆっくりと目を開けた。

 ぼやけた視界に何度か瞬きをする。

 見慣れない天井があった。


 しばらく。

 何も考えず、それを見つめる。


 ここはどこだ。

 そんな疑問が浮かんだのは、少し経ってからだった。


 身体を起こそうとする、その瞬間。


「……っ」


 全身へ鈍い痛みが走った。


「いてて……」


 思わず声が漏れる。


 腕、胸、肩、背中。

 身体中が重かった。


 特に腕は、少し動かしただけでも皮膚が引き攣るような感覚がある。

 ラグナは顔をしかめながら、ゆっくり身体を起こした。


「なんだ、これ……」


 自分の身体を見る。

 包帯が何重にも巻かれている。


 腕だけではない。

 服の下、胸や肩にも。


 そこで途切れていた記憶が、少しずつ戻ってきた。


 青白い光。

 砂漠の夜。

 身体を打ち付ける雷。


 白く染まった長い髪。


 そして泣き続けるライカ。


『来ちゃだめ……』


 そう言われた。

 それでも近付いて、抱きしめた。


 身体中が痛かったことは覚えている。

 けれど、不思議と怖かった記憶は無かった。


「……そりゃこうなるか」


 ラグナは包帯だらけの自分を見下ろし、苦笑する。


 よく生きてたな。


 そんなことを考えて。

 小さく息を吐いた。


 そして、ふと寝台の横へ視線を向ける。


「……ん?」


 そこには、椅子に座ったまま眠っているライカがいた。

 長い黒髪が肩から流れ落ちている。

 いつも閉じられることの少ない深海色の瞳は、今は静かに伏せられていた。


 呼吸に合わせ小さく肩が上下している。

 穏やかな寝息。


 ラグナは思わず見つめた。


 眠っている。

 ライカが。


「……ライカも寝る時は寝るんだな」


 小さく呟く。


 思えば、ライカの寝顔を見るのは初めてだった。

 普段はいつも皆が眠った後まで起きている。


 そして。

 朝になれば、いつの間にか先に起きている。


 海底神殿で何百年も暮らしてきたライカにとって。

 誰かと同じ時間に眠るという感覚自体、まだ馴染みがないのかもしれない。


 そんなライカが、今は椅子に座ったまま眠っている。

 寝台のすぐ横で。


 ラグナは視線を下げる。

 そこでもう一つ気付いた。


 ライカの右手が寝台の縁へ、そっと添えられている。

 まるで、眠っている間もそこにいることを確かめるように。

 離れてしまわないように。


「……」


 ラグナは何も言わず、その小さな手を見つめる。


 いつからここにいたのだろう。

 その手を見ているだけで、なんとなく長かったのだろうと思った。


 ラグナは思わず、小さく笑みを零す。

 起こさないようにゆっくり身体を起こした。


 その時、自分の右手が目に入る。


「……」


 手の甲。

 そこには、雷が走ったような細かな傷跡が残っていた。

 指先でそっと触れると少しだけ痛む。


 傷を見た瞬間、あの夜の声が蘇った。


『……会いたかった』


 ライカの声。


 泣きながら何百年もの間、言えなかった言葉を。

 ようやく吐き出した声。


 静かな部屋。

 街の喧騒が、遠くに聞こえる。


 ラグナは眠るライカを見つめた。

 あの時、ライカの中から溢れたものを全部聞いてしまった。


 寂しかったこと、怖かったこと。

 独りだったこと。


 そして、もう一度大切な人に会いたかったこと。


 何百年もの間、誰にも言えなかった言葉。

 誰にも見せられなかった感情。


 それをライカはずっと独りで抱えていた。


 ラグナは傷の残る右手を握る。


「……リリアナの刻だけでも」


 小さく呟く。


「取り返してやりてぇな」


 何が出来るかは分からない。

 ユリウスがどんな魔族なのかも。

 どうしてリリアナの刻を持っているのかも。


 まだ何も知らない。


 だから、勝手に決めることは出来ない。

 それでも少なくとも、ライカがもう一度あんなふうに独りで泣かなくてもいいようにしたかった。

 自然と拳へ力が入る。


 その時だった。


「……」


 微かな衣擦れの音。


 ラグナが顔を上げる。


 ライカがゆっくりと瞼を開いた。

 深海色の瞳が現れる。

 まだ少しぼんやりとしている。


 何度か瞬きをして。

 そして、寝台の上にいるラグナを見る。


 目が合った。


「……」


 ライカの瞳が少しだけ大きくなる。


「ラグナ……」


 まだ眠気の残る、小さな声。


 次の瞬間、その表情が僅かに変わった。


「……起きた」


 驚いている。


 けれど、それ以上にほっとしているように見えた。

 ラグナはそんなライカを見て、いつものように笑った。


「おはよう」


「……」


 ライカは少しだけ瞬きをした。


 おはよう。


 たった一言。


 いつもなら何でもない言葉だった。

 けれど今日は違った。


 眠り続けていたラグナの、そのすぐそばにライカはいた。

 何度朝が来てもラグナは目を覚まさなかった。

 声を掛けても返事は無かった。


 そして、ようやく声が返ってきた。

 ライカの表情がほんの少しだけ緩む。


「……おはよう」


 小さな声。


 それだけで部屋の空気が柔らかくなった。


 ライカは寝台の縁に添えていた手を動かす。

 そして、そっとラグナの手へ触れた。


「……」


 手の甲、傷の残る手。

 そこへ確かめるように触れる。

 温かい、ちゃんと生きている。


 ライカは少しだけ力を込めた。


「……良かった」


 その一言にラグナが眠っていた間の想いが、全部詰まっているような気がした。

 ラグナは少し照れくさそうに頭を掻く。


「俺……どのくらい寝てた?」


 ライカは窓へ視線を向ける。

 朝日が差し込んでいる。


「今日で……三回目の朝」


「三回……」


 ラグナは目を丸くする。


「そんなにか……」


 自分では一晩眠っていた程度にしか感じなかった。

 けれど、ライカにとっては三回も朝を迎えたのだ。


 ラグナは、もう一度繋がれた手を見る。


「心配掛けたな」


 ライカは静かに首を横へ振る。

 それから、少し迷うように自分の胸元の刻へ手を当てた。


「……ラグナ」


「ん?」


「わたし」


 一度、言葉が止まる。


 けれど今度は逃げなかった。

 深海色の瞳が、真っ直ぐラグナを見る。


「ユリウスと……話してみようと思う」


 ラグナは目を見開いた。

 あの夜、リリアナの刻を見ただけで宮殿から逃げ出したライカ。


 知らなければいけないと思いながら。

 怖くて、苦しくて、感情を抑えられなくなった少女。


 そのライカが。

 今、自分から「話してみよう」と言った。


 怖くなくなったわけではないのだろう。

 きっと今だって怖い。

 それでもその瞳には、もう諦めの色は無かった。


 過去から逃げ続けるのではなく。

 自分の意思で、過去へ向き合おうとしている。


 その先にある未来へ進むために。


 ラグナは優しく頷いた。


「うん」


 そして、少しだけ笑う。


「俺たちもついてる」


「……」


 ライカは目を瞬かせる。

 自分一人で向き合わなくていい。

 その言葉を、ゆっくり受け取るように。


 やがて、安心したように微笑んだ。


「……うん」


 それは、ほんの小さな笑顔だった。

 けれどラグナは初めて見た気がした。


 ライカが何かを怖がってでもなく。

 誰かを懐かしんででもなく。


 ただ、今ここにいることに安心して浮かべた、心からの笑顔を。



 その時、部屋の扉がゆっくりと開いた。


「ライカ、ご飯だよー」


 エルが盆を抱えて入ってくる。

 パン、果物、水。

 ライカが少しずつ食事をするようになってから。


 エルは何かと食べ物を持ってくるようになっていた。


「今日はね、果物も――」


 そこまで言って、止まる。


 エルの視線が寝台へ向いた。


「……え?」


 ラグナと目が合う。


「よ」


「……」


 エルが目を丸くする。


「えっ!?」


 持っていた盆が僅かに揺れる。


「ラグナ起きてる!?」


「今起きた」


「ちょっと待って!」


「え?」


 エルは近くの机へ慌てて盆を置く。

 そして、勢いよく扉へ振り返った。


「皆ーー!!」


 廊下へ飛び出す。


「ラグナが起きたーー!!」


「いや、そんな叫ばなくても聞こえるだろ」


 ラグナの声など届いていない。


 ばたばたと廊下を駆けていく音。


 ラグナは苦笑した。


「元気だな」


 ライカは、そんなエルの背中を見送りながら小さく頷く。


「……うん」


 けれど、その口元にはまだ微かな笑みが残っていた。


 しばらくして廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。


 扉が開いた。


「ラグナ!」


 真っ先に入ってきたのはリオンだった。


 その後ろからルミナス。


 そして。


 少し遅れてユーリも姿を見せる。


「身体は大丈夫?」


 リオンはすぐ寝台の横へ来る。

 ラグナの腕、包帯、顔色。

 次々と確認していく。


「痛むところは?」


「全部」


「大丈夫じゃないじゃん!」


「いや、動けるから大丈夫だろ」


「そういう問題じゃないよ!」


 珍しく強い口調のリオンに。


 ラグナは少しだけ驚く。


 ルミナスも真剣な表情でラグナを見る。


「無理はしないでください」


「分かってるって」


「ラグナはそう言って無理をします」


「……」


「今回は私もリオンに賛成です」


「二対一かよ」


「三対一よ!」


 廊下から戻ってきたエルが加わる。


「なんでお前まで増えてんだよ!」


 エルが笑う。


 リオンも。


 ルミナスも。


 つられるように表情を緩めた。


 ライカも、そのやり取りを静かに見ている。


 三日間。


 どこか張り詰めていた部屋の空気が。

 ようやく、いつものものへ戻っていく。


 ラグナがいる。


 声が聞こえる。


 皆が笑っている。


 それだけのことが今はとても温かかった。


挿絵(By みてみん)


 やがて、笑い声が落ち着いた頃。


 ユーリが一歩前へ出た。


「ラグナ」


「ん?」


 先ほどまでの柔らかな表情とは違う。

 真っ直ぐな瞳。

 何かを決めているような顔だった。


「きみに聞きたいことがある」


 空気が僅かに変わる。


 ラグナもユーリを見る。

 何について聞きたいのか、なんとなく分かった気がした。


 そして、ラグナにも聞きたいことがある。


 ユーリについて。

 ユリウスについて。

 この領地について。


 ラグナは少しだけ笑って答えた。


「俺もだ」


 二人の視線が交わる。

 それを感じ取ったリオンが、静かに口を開いた。


「なら」


 ラグナとユーリを見る。


「僕たちは席を外そうか」


 エルも小さく頷く。


 ルミナスも何も聞かず、扉へ向かった。


 ライカはすぐには動かなかった。

 一瞬だけラグナを見る。


 その視線に気付いて、ラグナは小さく頷いた。

 大丈夫。

 言葉にはしなかった。


 けれど、それだけで伝わった。


 ライカも静かに頷く。

 そして、皆と一緒に部屋を後にした。


 扉が閉まる。


 それまでの賑やかさが嘘だったように、部屋が静かになる。

 残されたのは、ラグナとユーリの二人だけ。


 窓から差し込む朝の光の中。

 しばらくどちらも口を開かなかった。


 やがて、ユーリが静かに息を吐く。


 そして、ラグナを真っ直ぐ見た。

 これまで誰にも語らなかった過去を、初めて誰かへ話すために。

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