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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第六章 ユリウス領
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第八十一話 与えられたもの

 どれくらい歩いただろうか。

 景色がぼやけていてよく分からなかった。


 足が重い。

 一歩進むたびに、身体が砂へ沈んでいくような気がする。


 喉が渇いていた。

 空腹だった。

 ずっと、まともなものを食べていない。


 それでも。


 前を歩くユリウスの背中だけは、見失わないようにしていた。

 何故、この魔族について行くと決めたのか。

 自分でも分からない。


 帰る場所は無い。

 待っている人もいない。

 ここに残っても、きっと生きてはいけない。


 だから。


 差し出された道を、ただ歩いているだけだった。

 それなのに、少しずつユリウスの背中が遠くなる。


 足が動かない。

 声を掛けることも出来ない。

 視界が大きく揺れた。


 そして。

 そのまま意識が途切れた。



 目を覚ました時。

 ユーリは見知らぬ天井を見上げていた。


「……」


 何度か瞬きをする。


 身体の下に、柔らかな感触があった。

 沈み込んでいる。

 何が起きているのか分からなかった。


 ゆっくりと身体を起こす。

 そこで初めて気付いた。


 寝台だった。

 まともな寝台で眠ったことなど無い。

 藁の上ですら、自分にとっては贅沢だった。


 それなのに。


 今、自分は柔らかな寝台の上にいる。

 白い布。

 身体を包んでいた毛布。

 窓から差し込む光。


 どれも自分には似合わないものに思えた。


 ユーリは毛布を指先で摘まむ。

 柔らかい。

 何故、自分がこんな場所にいるのだろう。


 その時、部屋の扉が開いた。


 反射的に肩が強張る。

 入ってきたのはユリウスだった。


「起きたか」


 ユーリは黙って頷く。

 ユリウスはそれ以上何も聞かず、机の上に置かれていた器を手に取った。

 白い湯気が立っている。


 ユーリの鼻先へ、食べ物の匂いが届いた。

 途端に忘れていた空腹が、一気に戻ってくる。


「食べるといい」


 差し出された器を、ユーリは見つめる。

 すぐには手を伸ばさなかった。


 何故食べ物まで与えるのだろう。

 毒かもしれない、そんな考えが頭を過ぎる。


 けれど空腹は、もう限界だった。


 ユーリは恐る恐る器を受け取る。

 手のひらへ熱が伝わった。

 それだけでも不思議だった。


 匙ですくい、慎重に口へ運ぶ。


「……」


 温かかった。

 舌だけではない、喉を通り空っぽだった腹の奥へ落ちていく、その温度が分かった。


 今まで食事とは、空腹をなくすために口へ入れるものだった。

 硬くても。冷たくても、味がほとんどしなくても。

 食べられるだけで十分だった。


 だから、温かいというだけで。

 こんなにも違うことを知らなかった。


 もう一口。

 ゆっくりと口へ運ぶ。

 そして、また一口。


 気付けば手が止まらなくなっていた。

 鼻の奥が、僅かに痛くなる。


「……っ」


 ユーリは慌てて俯いた。

 泣くものかと思った。

 何故泣きそうになっているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、スープは最後まで温かかった。


 それから。


 ユーリの日々は、大きく変わった。


 新しい服を与えられた。

 最初は汚すことが怖くて、袖口に砂が付いただけでも慌てて払った。

 自分には似合わない、そう思っていた。


 けれど誰も取り上げなかった。

 次の日になっても、その次の日になっても、それはユーリの服だった。


 文字も教わった。

 計算も、地理も、歴史も。

 最初は何も分からなかった。


 紙に書かれた文字は、意味のない模様にしか見えない。

 言われた通りに書いても形が違う。

 計算をすれば間違える。


 そんなある日。


「違います」


 そう言われた瞬間。

 ユーリの身体が強張った。

 反射的だった。


 肩を竦め。

 来るはずのものを待つ。


 けれど何も起こらない。


「ここですよ」


 教えていた男は、紙の一箇所を指差した。


「ここで計算を間違えています。もう一度やってみてくださいね」


 ユーリはゆっくり顔を上げた。


「……もう一度?」


「そうです」


 怒っていない。

 手も上げない。


 ただ、間違えた場所を教えている。

 それだけだった。


 恐る恐る、もう一度計算する。


 また間違えた。


 けれど、やはり殴られなかった。

 怒鳴られることも無かった。

 何度も、何度も同じことを繰り返した。


 やがて正しい答えを書けるようになると。


「そうです。よく出来ましたね」


 褒められた。

 その時も、ユーリはどういう顔をすればいいのか分からなかった。

ただ少しだけ胸の奥が軽くなった。


 分からなければ、教えてもらえる。

 間違えたなら、やり直せばいい。

 少しずつ、本当に少しずつユーリはそれを覚えていった。


 そしていつしか、間違えるたびに強張っていた肩からも、力が抜けていった。


 ある日。


 勉強を終えて自室へ戻る途中、ユーリは足を止めた。

 僅かに扉が開いている部屋がある。


 中を覗くと古い書庫だった。

 棚には、古びた本や手記が並んでいる。

 少し前まで本など、自分とは何の関係もないものだと思っていた。


 文字が並んでいても、ただの模様にしか見えなかった。

 

 けれど今は違う。

 全てではない。

 難しい文字はまだ読めない。


 それでも頁の向こうに、自分の知らない何かがあることだけは分かる。

 それが少しだけ面白かった。


 ユーリは書庫へ足を踏み入れる。

 並ぶ本の背表紙へ視線を滑らせる。


 その中で、ひと際古い一冊が目に留まった。

 黒い表紙。縁には金色の装飾。

 古びているのに、どこか綺麗だった。


 手に取る。


 ぱらり。

 頁をめくる。


 誰かの手記のようだった。

 難しい文字が多い。

 読めるところだけを拾いながら、ゆっくりと頁を進めていく。


 その時、一つだけ目に留まった言葉があった。


『三日真珠』


「……みっか、しんじゅ?」


 聞いたことのない名前だった。

 何だろう。

 真珠というなら、宝石なのだろうか。


 ユーリは続きを追う。

 けれど、まだ知らない文字ばかりだった。


 読めない、意味が分からない。

 それが、以前なら何とも思わなかったはずなのに、今は少しだけもどかしかった。


 知りたい。

 そう思った。


 手記を抱えたままユーリは書庫を出た。

 向かったのは執務室だった。


 扉を叩く。


「ユリウス様」


「ユーリか。どうした?」


 中へ入る。

 ユリウスは公務の途中だったらしく、机の上にはいくつもの書類が広げられていた。

 ユーリは手記を差し出す。


「この『三日真珠』って、何ですか?」


「三日真珠?」


 ユリウスは手記を受け取った。

 頁へ視線を落とし、その表情が僅かに変わった。


「……古い記録だな」


 どこか懐かしいものを見るように、しばらく頁を眺める。


 やがて、静かに本を閉じた。


「昔、高価な宝石として扱われていたものらしい」


「らしい?」


「ああ。私も聞いたことがある程度で、詳しくは知らん」


 ユリウスは再び手記を開く。


「この記録によれば、それは採取から三日で跡形もなく崩れるため、そう呼ばれるようになったようだ」


「三日で……」


「そうだ」


 ユーリは少し考える。


 そして、ふとユリウスの胸元へ視線を向けた。

 そこにはいつも身につけている、深海色の真珠がある。


「その宝石と同じですか?」


 ユリウスは自分のブローチへ視線を落とした。

 指先で僅かに触れる。


 そして、小さく首を横に振った。


「いや、違う」


「これは代々、領主へ受け継がれてきたものだ」


「三日真珠とは関係ない」


 その言葉にユーリは素直に頷いた。


「そうなんですね」


「ああ」


 それ以上、疑う理由もなかった。


 手記は元の棚へ戻された。


 そして、日々の中で覚えることが増えていくにつれ。


『三日真珠』


 その不思議な名前も、いつしかユーリの記憶の奥底へ、静かに沈んでいった。


 それから五年が経ち、ユーリは十歳になっていた。


 宮殿の廊下を歩いていたユーリは、窓辺に立つユリウスを見つけた。

 声を掛けようとして少しだけ止まる。


 ユリウスは窓の外を見ていた。


 宝石商が行き交う通り、賑わう市場、どこかから聞こえてくる音楽。

 それに合わせて踊る魔族たち。


 荷物を抱えて歩く者、店先で楽しそうに話す者、子どもの手を引いて歩く者。

 活気に満ちた街だった。


「何を見ているのですか」


 気付けば、そう聞いていた。


 ユリウスが振り返る。

 そして少しだけ微笑んだ。


「街だ」


 再び窓の外へ視線を向ける。


「私が守るべき街だ」


「……守るべき」


「ああ」


 迷いのない声だった。


 ユーリも隣へ立ち、同じ景色を見る。

 人々が笑っている。


 五年前には、自分とは何の関係もない光景だった。


 魔族が笑っていようと、人間が笑っていようと。

 どうでもよかった。

 けれど今は、少しだけ綺麗に見えた。


 ユーリは何気なく宮殿の中へ視線を戻す。


 ここには自分の部屋がある。

 机がある、本がある。

 眠るための寝台がある。

 食事をする場所がある。


 自分を。


「ユーリ」


 と呼ぶ人たちがいる。


 五年前。

帰る場所を聞かれて首を横に振った。


 今は、街へ出ても、勉強を終えても、仕事を手伝っても。

何も考えず、この宮殿へ戻ってくる。


 いつからそうなったのだろう。

 ユーリには分からなかった。

 ただ、もうここへ戻ることを、不思議だとは思わなくなっていた。


 隣に立つユリウスを見る。

 街の魔族たちはこの男を慕っていた。


 相談を持ち掛ける者がいる。

 感謝を伝える者がいる。

 困ったことがあれば頼る者がいる。


 ユリウスは誰に対しても堂々としていて、迷いが無かった。


「私が守るべき街だ」


 先ほどの言葉がユーリの中へ残っていた。


 自分を拾った時も、きっとこの男は迷わなかった。

 ユーリにはその姿が眩しく見えた。


 いつか、自分もこの人のようになりたい。

 そんな感情が生まれたことに、その時のユーリは、まだ気付いていなかった。


 さらに年月が過ぎ去った。

 ユーリが十五歳になった、ある日のことだった。


 ユリウスに呼ばれ、執務室を訪れる。

 扉の前で背筋を伸ばす。


「失礼します」


「ああ。入れ」


 扉を開く。

 何度も訪れた部屋。

 もう見慣れた場所だった。


 けれど、今日は少しだけ空気が違うような気がした。


 ユリウスは公務机の向こうに座っている。

 その机の上に、小さなものが置かれていた。


 黒い笛。


 ユーリはすぐに分かった。

 本で見たことがある。

 領主に選ばれた者だけが持つ魔笛。


 魔物を従えて領地の外へ赴き、交易を行う者へ与えられる証。

 簡単に手渡されるものではない。


 ユーリの視線に気付いたのだろう。


 ユリウスが魔笛を手に取った。

 そして、ユーリへ差し出す。


「これを預けよう」


 ユーリは目を見開いた。


「……僕に?」


「ああ」


 ユリウスは迷うことなく頷く。


「お前なら任せられる」


 その言葉を聞いた瞬間、ユーリの胸の奥が熱くなった。

 魔笛を与えられることが嬉しい。


 それだけではなかった。

 任せられる、そう言われた。


 ユリウスが自分を信じて、役目を任せようとしている。


 十年前。


 何も持っていなかった。

 名前すら知らなかった。

 帰る場所も、生きていく理由もなかった。


 差し出された手さえ、取ることが出来なかった。

 何故自分なんかに手を差し出すのか、分からなかったから。


 けれど今、目の前にはもう一度、ユリウスの手から差し出されているものがある。


 ユーリはゆっくりと自分の手を伸ばした。

 僅かに指先が震えている。

 それでも今度は迷わなかった。


 魔笛を受け取る。


 両手のひらに収まったそれは、小さい。

 けれど、不思議なくらい重く感じた。


「ありがとうございます」


 気付けば、自然にそう言っていた。

 昔ならきっと言えなかった言葉だった。


 ユリウスは少しだけ笑う。


「礼はいらん」


 そして少しだけ間を置いて、静かに言った。


「お前は私の息子のようなものだ」


「……」


 ユーリは目を見開いた。


 息子。


 その言葉を、頭の中でもう一度繰り返す。


 何と答えればいいのか。

 分からなかった。


 嬉しい。

 そう言えばいいのだろうか。

 それともありがとうございますと、もう一度言えばいいのだろうか。


 どれも違うような気がした。


 だから、ユーリは何も言えなかった。

 ただ手の中の魔笛を握る指へ、少しだけ力が入った。


 名前を与えられた時と少しだけ似ていた。


 その言葉が、どれほど大切なものなのか。

 その瞬間のユーリには、まだ上手く分からなかった。

 ただ、忘れてはいけない言葉なのだと思った。


 だから、ユーリは。


 その言葉をずっと忘れなかった。


挿絵(By みてみん)

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