第八十話 名前
「立てるか」
差し出された手。
少年はそれを見つめる。
大きな手だった。
その手からゆっくりと視線を上げる。
黒髪、浅黒い肌。
人間とは違う、長く尖った耳。
そして胸元には、深海色の宝石が嵌め込まれたブローチ。
魔族だった。
少年はぼんやりと思う。
親に捨てられた挙句、魔族に殺されるのだろうと。
けれど不思議と恐怖は無かった。
怖がるだけの力が、もう残っていなかった。
泣く力も、逃げる力も、助けを求める力も。
全部。
砂漠を歩くうちに使い果たしてしまった。
ただ、ここで終わるのだと思った。
それならそれでいい。
そんなことすら考えながら。
少年はもう一度、差し出された手を見る。
手は動かない。
無理に掴もうともしない。
ただ、少年がどうするのかを待っている。
そのことが少しだけ不思議だった。
少年は両手を地面へつく。
乾いた砂が掌にまとわりつく。
腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。
差し出された手は取らない。
自分の力だけで立ち上がる。
足元がふらつき視界が揺れる。
それでも倒れなかった。
魔族の男は何も言わなかった。
差し出していた手を静かに下ろす。
そして、ほんの僅かに目を細めた。
「そうか」
それだけだった。
手を取らなかったことを責めることも。
無理に支えることもなかった。
その声は穏やかだった。
少年には、それが余計に分からなかった。
しばらくして男は口を開く。
「私はユリウスという」
少年は返事をしない。
ユリウス。
それが目の前にいる魔族の名前らしい。
覚えておこうとも思わなかった。
今の少年にとっては、名前などどうでもよかった。
それでもユリウスは気にした様子もない。
少年の返事を待つように少し間を置いてから、再び尋ねる。
「お前の名前は?」
少年は首を横に振った。
ユリウスの眉が僅かに動く。
「……名前が無いのか」
少年は何も答えない。
本当に無いのかそれとも知らないだけなのか。
それすら分からなかった。
名前を呼ばれた記憶が無い。
両親はいつも。
「おい」
とか。
「あんた」
とか。
そんな呼び方しかしなかった。
だから、自分の名前を知らない。
知らなくても困らなかった。
呼んでくれる者など、いなかったから。
ユリウスは少年を見つめていた。
先程までの穏やかな表情が、ほんの僅かに曇る。
けれど何も聞かなかった。
何故名前が無いのか。
両親はどうしたのか。
何があったのか。
少年が話そうとしないことを、無理に聞こうとはしなかった。
ユリウスは顎に手を当てる。
少し考えてから、再び口を開いた。
「帰る場所はどうだ?」
少年は首を横に振る。
今度は迷わなかった。
帰る場所など無い。
もう、どこにも。
ユリウスの視線が僅かに下がる。
「……帰る場所も無いのか」
砂漠の風が吹いた。
二人の間を乾いた砂が流れていく。
少年には分からなかった。
目の前の魔族が何を考えているのか。
何をしたいのか。
何故自分に話しかけるのか。
全く分からない。
名前も無い、帰る場所も無い。
そんな自分に何の用があるのだろう。
しばらくの沈黙。
ユリウスは少年を見ていた。
少年も何も言わない。
やがて、ユリウスの表情が僅かに緩んだ。
何かを決めたように。
「ならば」
一度、言葉を切る。
「共に来ないか」
少年は瞬きをする。
意味が分からなかった。
共に来る。
どこへ。
何のために。
自分を。
何故。
いくつもの疑問が浮かぶ。
けれど、聞く気力も無かった。
このままここに残れば、いずれ飢えて死ぬ。
付いて行けば、魔族に殺されるかもしれない。
どちらでも良かった。
どうせ終わるなら、少し先に延びるだけだ。
少年は小さく頷いた。
それだけだった。
けれど、それを見たユリウスの目が僅かに見開かれる。
そして何故か嬉しそうに笑った。
「そうか」
「来てくれるか」
その表情が不思議だった。
少年には理解出来ない。
自分のような存在に、何故そんな顔をするのか。
何故嬉しそうにするのか。
少年が頷いたことなど、誰かが喜ぶようなことではないと思っていた。
ユリウスは歩き出す。
数歩進んでから振り返り。
自分の後ろではなく、隣へ来るように手で促した。
少年は少し迷う。
それから、ゆっくりとユリウスの隣まで歩いた。
歩幅が違う。
少年の足取りも遅い。
けれどユリウスは急がなかった。
少年が遅れれば、僅かに歩調を緩める。
それについても、何も言わなかった。
「魔王ナタージャ様は人間との共存を望んでおられる」
少年は黙って聞いていた。
「人間も魔族も共に生きる未来だ」
「争いではなく、互いを理解し合う未来だ」
砂漠の風が二人の間を通り過ぎる。
ユリウスは前を向いたまま続けた。
その声には、先程少年へ話しかけていた時とは違う、強い意志があった。
「私はそれを、この地で実現したいと思っている」
少年は何も言わない。
「そして」
ユリウスが少年を見る。
「お前がその架け橋となる」
少年には何一つ分からなかった。
共存、未来、架け橋。
聞いたこともない言葉ばかりだった。
人間と魔族がどうなろうと、世界がどうなろうと。
今の少年には関係なかった。
そんなものより。
水が欲しい、食べ物が欲しい、柔らかい場所で眠りたい。
もう歩きたくない。
ただ、それだけだった。
ユリウスの語る未来は今の少年には、あまりにも遠かった。
しばらく歩いて、ユリウスはふと足を止める。
少年も少し遅れて立ち止まった。
「……そうだな」
ユリウスが呟く。
少年は顔を上げる。
ユリウスはじっと少年を見ていた。
先程まで未来を語っていた時とは違う。
何かを考えている。
少年は何も言わず、その視線を受ける。
やがて、ユリウスは少年へ向き直った。
そしてその頭へ手を伸ばす。
少年の身体が僅かに強張った。
殴られる。
反射的にそう思った。
けれど、逃げるより先に。
大きな手が、静かに頭へ置かれた。
「……?」
温かい手だった。
力は込められていない、押さえ付けるでもない。
ただそこに触れているだけ。
少年は驚いて顔を上げる。
ユリウスは真っ直ぐ少年を見ていた。
その表情は、先程まで未来を語っていた領主のものではなかった。
どこか穏やかで、少しだけ嬉しそうだった。
「名前が無いままでは、不便だろう」
少年は何も答えない。
ユリウスは僅かに目を細める。
「今日から」
静かな声。
けれど、一つ一つの言葉を手渡すように。
ゆっくりと告げる。
「お前の名前は、ユーリだ」
少年は瞬きをした。
ユーリ。
初めて聞く言葉。
けれど、それが今自分を指していた。
「……ユーリ」
初めて、少年自身の口からその名前が零れる。
自分の声で聞くと、不思議な響きだった。
ユリウスが微笑む。
「ああ」
「ユーリだ」
もう一度。
今度は、誰かが自分へ向けて呼んだ。
少年は何も言えなくなった。
胸の奥に、今まで感じたことのない何かが生まれる。
嬉しいのか、安心したのか。
少年自身にも分からない。
ただ、嫌ではなかった。
もう一度胸の中で繰り返す。
ユーリ。
自分には名前がある。
呼ばれるための言葉がある。
今日初めて出会った魔族が、それをくれた。
少年は小さく俯いた。
何も言わない。
けれど、先程まで何も映していなかった瞳が。
ほんの少しだけ揺れていた。
そして。
名前の無かった少年は。
その日、ユーリとなった。




