第七話 共闘と残る震え
2026.10.06 改訂しました
湿った土に、三人分の足跡が続いていた。
エルの村を発ってから、しばらく経つ。
木々の隙間から差す光が細くなり、道の両側では深い茂みが風もないのに揺れていた。
ラグナが足を止める。
「……何かいる」
リオンも立ち止まった。
エルは背負っていた弓を手に取り、ラグナの視線を追う。
右奥で、枝の折れる音がした。
少し離れた場所でも、重い足音が続く。
「大きいのが二体。……その後ろにも、もう一体いるな」
「よく分かるね……」
リオンはロザリオを握った。
「怪我をしたら、すぐ呼んで。僕が治すから」
「ああ。頼む」
ラグナが剣を抜く。
エルも矢を取り出した。
先端には、布が丸く巻かれている。
村の練習場で作ってもらった一本。
指でその形を確かめてから、弦につがえた。
「エル、無理に前へ出なくていいからな」
「うん。任せて!」
声は明るかった。
けれど、弓を握る指には力が入りすぎていた。
藪が裂けた。
太い牙を持つ猪が二体、土を蹴って飛び出してくる。
その背後には、黒い毛並みの狼がいた。
「来るぞ!」
ラグナは二人から離れるように、斜め前へ踏み出した。
先頭の牙猪が向きを変える。
迫る牙をかわし、その脇へ剣を振り下ろした。
刃が届き、血が散る。
だが、牙猪は倒れなかった。
土を掻き、再びこちらへ身体を向けようとする。
もう一体が、その横を抜けてきた。
ラグナは剣を引き戻しながら後退する。
二体を同時に正面へ捉えようとして、木の根を踏み越えた。
その背後で、黒い影が跳ねた。
リオンには見えた。
低く身を伏せて回り込んでいた影狼が、ラグナの背へ飛びかかろうとしている。
「ラグナ、後ろ!」
ラグナが振り向く。
けれど、その前には牙猪がいた。
間に合わない。
傷付いてからでは遅い。
リオンはロザリオを握りしめ、もう片方の手を伸ばした。
「来ないで……!」
掌から、光が弾けた。
傷を癒すときの柔らかな光とは違う。
一瞬、木々の影が消えるほどの白い輝きだった。
影狼が短く鳴いた。
空中で顔を背け、ラグナの横へ転がるように着地する。
ラグナはその隙に身を翻した。
牙猪の突進が、すぐ脇を通り過ぎる。
「助かった、リオン!」
「……え……」
リオンは伸ばした手を見つめていた。
光は、もう消えている。
自分が何をしたのか、すぐには分からなかった。
ただ、影狼が頭を振り、目を細めている。
ラグナは二体の牙猪から距離を取り、声を上げた。
「エル! 右の奴を止められるか!」
「うん!」
エルが弦を引く。
牙猪は向きを変えたばかりだった。
こちらへ走り出すまでに、一瞬の間がある。
狙いは定まった。
丸い矢先。
木の的には、傷を付けずに当てられた。
けれど今、その先にいるものは動いている。
息をして、こちらを見ている。
弓を支える手が、わずかに動いた。
放たれた矢は牙猪の肩口をかすめ、奥の茂みへ消えた。
「……っ」
ラグナは矢の行方を一瞬だけ見た。
すぐに牙猪へ向き直る。
突進を横へかわし、先ほど傷を負わせた一体へ踏み込んだ。
今度こそ、剣が深く届いた。
巨体が地面へ崩れる。
その向こうで、影狼が起き上がっていた。
エルは次の矢をつがえた。
今度は、尖った鏃の付いた矢だった。
影狼が身を低くする。
狙える。
そう思った瞬間、指が強張った。
矢は影狼の足元へ突き立った。
土を蹴った獣が、ラグナへ飛びかかる。
ラグナは剣を振り、迫る身体を斬り払った。
影狼が地面へ落ちる。
息をつく間もなく、最後の牙猪が迫った。
ラグナは踏みとどまらず、その進路から身体を外した。
すれ違いざまに刃を打ち込み、振り返る。
牙猪は数歩よろめいてから、倒れた。
しばらく、誰も動かなかった。
ラグナは剣を構えたまま、周囲を確かめた。
茂みの奥に、続く気配はない。
ようやく息を吐く。
「……二人とも、大丈夫か?」
「うん。ラグナは?」
「怪我はない」
リオンの肩から力が抜けた。
ラグナは彼の手元へ目を向ける。
「さっきの光、あんな使い方もできるんだな」
「僕も……知らなかった」
リオンは掌を開いた。
「ラグナが危ないって思って。止めなきゃって、手を伸ばしたら……」
「そうだったのか」
ラグナは自分の背後を振り返った。
影狼が飛び出してきた場所へ目をやり、それからリオンを見る。
「あれがなかったら、危なかった。ありがとう」
リオンは戸惑いながらも頷いた。
少し離れたところで、エルが弓を下ろした。
「……ごめん。あたし、当てられなくて」
ラグナはエルを見た。
笑おうとしている口元。
弓を握ったまま、まだ強張っている指。
「最初の矢、昨日のだよな」
「うん。でも、動く相手だと難しいね」
エルは軽く肩をすくめた。
ラグナは何か言いかけたが、そこで止めた。
「……矢、探そう。あっちへ飛んでった」
エルが頷く。
三人で茂みを探すと、丸い矢は木の根に引っかかっていた。
布には土が付き、先端の形も崩れている。
エルはそれを拾い、黙って土を払った。
その後も、森を進む間に魔物と出くわした。
今度は距離のあるうちに気付き、エルがハープを取り出した。
歌が届くと、茂みの奥の唸り声が静まっていく。
三人は眠った魔物から離れ、道を先へ進んだ。
エルの声は、歌っている間は揺れなかった。
けれど、弓を持ち直した手には、まだわずかな震えが残っていた。
日が落ちる前に、三人は木々の途切れた場所で足を止めた。
薪を集め、火を起こす。
枝に火が移ると、湿った森の匂いに煙が混じった。
ラグナは焚き火のそばに腰を下ろし、剣の手入れを始めた。
リオンは荷物から食べ物を出し、三人分に分けている。
エルは膝の上に弓を置いていた。
指を開き、閉じる。
もう震えていないことを確かめてから、パンへ手を伸ばした。
「……エル」
「ん?」
「昼間の矢、当てる直前に迷っただろ」
エルの手が止まった。
「……動き、速かったからね」
「最初の奴は、まだ走り出してなかった」
ラグナは剣を拭く手を止めた。
「昨日と同じだった。放す直前に、狙いが動いてた」
火の中で、小枝が弾ける。
エルはしばらくパンを見つめ、それから息を吐いた。
「……やっぱり、見えてたんだ」
「ああ」
「せっかく作ってくれたのにね」
傍らに置いた矢へ、目を落とす。
「的には当てられたから、大丈夫だと思ったんだけど」
エルは膝の上の弓を撫でた。
「いざ目の前にいたら……駄目だった」
ラグナは急かさなかった。
リオンも食べ物を分け終えると、静かに腰を下ろした。
「丸くしても、当たったら痛いんだよね」
エルが呟く。
「昨日、ラグナに当たったときも、ちょっと痛そうだったし」
「……まあ、少しな」
「その少しが、どのくらいなのか分かんなくなって。あそこに当たったら、どうなるんだろうって考えたら……」
指先が、弓の上で止まった。
「当てたく、なくなっちゃった」
ラグナは土の付いた矢先を見た。
「そっか。先を丸くするだけじゃ、まだ足りないんだな」
エルが顔を上げた。
ラグナは考えるように矢へ視線を向けていた。
「……怒らないの?」
「怒っても、手が止まる理由はなくならないだろ」
ラグナはエルを見た。
「でも、困ってるなら知っておきたい。一緒に戦うんだから」
エルは口を開きかけて、閉じた。
焚き火へ視線を落とす。
揺れる炎をしばらく見つめてから、ぽつりと言った。
「……うまく話せるか、分かんない」
「ああ」
「長くなるし……また今度でもいい?」
「いいぞ。話せるときに聞く」
返事を聞いて、エルの肩が少し下がった。
「でも、ちゃんと戦うよ。二人となら」
「今日も助けてくれたよ」
リオンが言った。
「歌で眠らせてくれたから、戦わずに通れたところもあったし」
「……うん」
「弓を使うのが難しいときは、言ってくれればいい」
ラグナも続けた。
「そのときは、別のやり方を考えよう」
エルは二人を見た。
それから、手に持ったままだったパンをひと口かじった。
食事を終えると、ラグナはエルの矢を借りた。
布の上から先端に触れ、歪んだ形を確かめる。
「これ、急いで作ったからな」
「うん。でも、的にはちゃんと当たったよ」
「ああ。だから、もう少し考えてみようと思って」
ラグナは手近にあった枝を拾った。
小刀で先を削り、尖らせずに丸みを残す。
エルとリオンが、その手元を覗き込んだ。
「今のは、尖った矢に被せただけだろ。最初から違う形にできないか?」
「丸い先を、ちゃんと作るってこと?」
「ああ。中を空けるとか、当たったときに潰れるようにするとか……」
ラグナは削った枝を傾けた。
「どうすればいいか、まだ分かんないけど」
エルが少し笑った。
「ラグナも、分かんないんだ」
「そりゃそうだ。こんな矢、作ったことないし」
リオンも笑い、枝の先へ目を向けた。
「当てるだけじゃなくて、何かを届けるのにも使えるかな」
「届ける?」
「うん。例えば、煙みたいに目を遮るものとか……」
言いながら、リオンは自分の掌を見た。
「今日の光も、倒したわけじゃないけど、ラグナが避ける時間は作れたから」
ラグナが頷く。
「ああ。相手を止めたり、逃げる隙を作ったり。それなら、ほかにもできそうだな」
エルは弓へ目を落とした。
狙った場所へ、矢を届ける。
その先に何を付けるかで、できることが変わるのかもしれない。
「……当てたあと、どうなるかも考えるんだね」
「ああ」
ラグナは削った枝を差し出した。
「一緒に考えよう。使えそうなのができたら、まず的で試せばいい」
「今度は、自分の前に的を置いてね」
リオンが言う。
ラグナは少し黙った。
「……分かった」
「ほんとだからね?」
エルも念を押す。
ラグナが頷くと、二人は顔を見合わせて笑った。
エルは受け取った枝を指でなぞった。
まだ、ただの木の枝だった。
どうやって矢にするのかも、何ができるのかも決まっていない。
昼間の震えを、忘れたわけではなかった。
それでもエルは、枝を丸い矢の隣へ置いた。
「ねえ。もう少し大きくしたら、飛びにくくなるかな?」
ラグナが枝を覗き込む。
リオンも身を寄せた。
三人の間で、焚き火が静かに音を立てていた。




