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第六話 外していた矢

2026.09.28 改訂しました。

 皿に残ったパンくずを集めながら、ラグナは壁際へ目を向けた。


 ハープの隣に、弓と矢筒が立てかけられている。

 森を走っていたとき、エルが背負っていたものだ。


「エル、弓も使えるのか?」


 空いた皿を重ねていた手が止まった。


「弓?」


「ああ。歌だけじゃないんだなと思って」


 エルは壁際を見た。

 少し考えてから、曖昧に笑う。


「弓は練習中なんだよね……見に来る?」


「いいのか?」


「うん。どうせ、このあと行くつもりだったし」


 エルは皿を置き、弓を手に取った。


「リオンも来る?」


「うん。見てみたい」


「じゃ、行こ!」


 矢筒を背負うと、エルは二人を振り返った。


 村の裏手には、細長く開けた練習場があった。


 奥には土手があり、その手前に木の的が据えられている。

 表面には無数の矢傷が残り、中心に描かれた丸もところどころ削れていた。


 夕方の光が、乾いた地面を染めている。

 遠くから、薪を割る音が聞こえた。


 エルは決められた位置に立ち、矢をつがえた。


 ラグナとリオンは、その少し後ろへ下がる。


 弦が引かれた。


 エルの表情から笑みが消える。

 的を見る目が、静かに細くなった。


 放たれた矢は、的のすぐ右を抜けた。

 後ろの土手へ突き立ち、短く震える。


「……また外れた」


 エルは軽く舌を出した。


「惜しかったね」


 リオンが声をかけると、エルは肩をすくめる。


「でしょ? あとちょっとなんだけどなー」


 次の矢を取り出す。


 ラグナは黙って、その手元を見ていた。


 矢をつがえる動きに迷いはない。

 足を置く位置も、弦を引いたときの姿勢も、ほとんど変わらなかった。


 二本目が放たれる。


 今度は、的の左をかすめた。


 エルが息を吐く。

 ラグナは的ではなく、弓を下ろす彼女の手を見ていた。


「……エル」


「ん?」


「もう一本、射ってくれ」


「いいけど。次も外れるかもよ?」


 ラグナは答えず、少し横へ移動した。

 エルより後ろの位置から、弓と的を見比べる。


 三本目の矢がつがえられた。


 弓を引く。

 狙いが定まる。


 そこで一度、動きが止まった。


 放つ、その直前。


 弓を支える手が、わずかに向きを変えた。


 矢は的の縁を抜け、土手へ刺さった。


「ほら、やっぱり——」


「今、外しただろ」


 エルが振り返った。


「……外れたね?」


「違う。放す直前に、狙いをずらした」


 エルの笑顔が止まった。


 ラグナは彼女の手元を指した。


「構えてる間は動いてない。最後だけ、弓の向きが変わってる」


「……たまたまじゃない?」


「三本ともだ」


 返事はすぐだった。


 エルが口を閉じる。


「当たらないんじゃない。お前が、当たらない方へ動かしてる」


 リオンはエルを見た。

 何か言いかけたが、その表情に気付いて言葉を止めた。


 エルはしばらくラグナを見返していた。


 けれど、ラグナは目を逸らさなかった。

 見間違いだったと引き下がるつもりはないらしい。


 やがて、エルの方が視線を落とした。


「……そこまで見てるんだ」


 弓が、ゆっくりと下ろされる。


「なんでだ?」


 責めるような声ではなかった。

 ただ、分からないことを尋ねる声だった。


 エルは足元の土を靴先で擦った。


「……当たったら、壊れるじゃん」


 ラグナは的へ目を向けた。


「的だぞ?」


「的でも、やなの」


 思ったよりも強い声が出た。


 エルは唇を結んでから、少し声を落とした。


「分かってるよ。そういうものだって。練習するための的なんだし、矢が刺さるのは当たり前でしょ」


 的の表面には、古い傷が幾重にも重なっていた。

 縁の一部は欠け、裂けた木肌が夕日に照らされている。


「でも、ここに刺さるんだって思うと……そのあと、どうなるかまで浮かぶの」


 木が裂ける。

 欠片が落ちる。

 新しい傷が、ひとつ増える。


「木でも、石でも。壊れたら、元には戻らないじゃん」


 エルは弓を握り直した。


「だから、当たるって思ったら……最後に、避けちゃう」


 明るく笑おうとして、うまくいかなかった。


「変でしょ。弓を持ってるのに」


 ラグナは答えなかった。


 しばらく的を見てから、土手へ歩いていく。

 刺さっていた矢を抜き、先端へ目を落とした。


 指先で軸を回す。


 それから、足元に転がっていた丸い木の実を拾った。


「エル。布、余ってないか?」


「……布?」


「少しでいい」


 エルは戸惑いながら、荷物から端切れを出した。


 ラグナは受け取ると、その場にしゃがみ込んだ。

 矢の先に木の実を被せ、さらに布で包んで留める。


 先ほどまで尖っていた矢先が、不格好な丸い塊に変わった。


「……何、それ」


「とりあえず、先が尖ってなければいいんだろ」


 ラグナは布の上から指で押し、エルへ差し出した。


「これでやってみないか」


 エルは弓を脇に抱え、矢を受け取った。

 丸くなった先を、そっと撫でる。


「……これ、ちゃんと飛ぶかな」


「それも試してみよう」


 ラグナは的の方へ歩いていった。


 だが、脇へは退かなかった。

 的の前で振り返り、エルを見る。


「俺を狙え」


「……は?」


 エルが顔を上げた。


 リオンも、ラグナと的を見比べる。


「ラグナ?」


「ここなら、当たったか分かるだろ」


 ラグナは自分の胸を軽く叩いた。


「いや、的でも分かるでしょ!?」


 エルの声が裏返った。


「当たったらどうすんの!」


「当てるんだよ」


「そういうことじゃなくて!」


 リオンが一歩前へ出た。


「ラグナ、まだ試してもいないんだよ?」


「ああ。だから、俺が試す」


 あっさりと言ったラグナに、リオンは困った顔をした。


 エルは手の中の矢を見る。

 尖った先は、布の中に隠れていた。


 それでも、弓を持ち上げられなかった。


「……痛いかもしれないじゃん」


「かもな」


「かもな、じゃないよ」


「でも、これ一発で壊れたりはしない」


 ラグナはもう一度、自分の胸を叩いた。


「頑丈だからな」


 エルは黙った。


 ラグナは笑っていた。

 彼女が狙いをずらすのを待つ顔ではなかった。


「当ててみろ、エル」


 矢の先へ目を落とす。


 自分が口にした、的さえ壊したくないという言葉。

 それを聞いて、ラグナはこんなものを作った。


 そして今、その前に立っている。


「……ほんとに、知らないからね」


 エルは矢をつがえた。


 リオンが心配そうに見守る中、弦を引く。


 的を狙うときと同じように、呼吸が静まった。


 ラグナの胸元。

 矢が届く場所が、はっきりと分かる。


 指先が強張った。


 また、逸らしそうになる。


 けれど、ラグナは動かなかった。


 エルは息を止めた。


 今度は、弓の向きを変えなかった。


 弦を放す。


 短い音とともに飛んだ矢が、ラグナの胸に当たった。


 布に包まれた先が潰れ、矢は足元へ落ちる。

 ラグナはわずかに眉を寄せたが、その場に立ったままだった。


「……当たった」


 エルが呟いた。


 ラグナは胸元へ手をやり、それから矢を拾い上げた。


「ほらな」


「痛くなかった?」


「……ちょっと」


「ほらあ!」


 ラグナは笑った。


「でも、ちゃんと当たっただろ」


 エルの視線が、彼の顔から矢へ移る。


 当たった。


 狙ったところに。

 自分で、逸らさずに。


「……うん」


 弓を握る手から、ゆっくりと力が抜けた。


 ラグナは戻ってくると、矢を差し出した。


「狙いは最初から合ってたんだ。外してただけで」


 エルはそれを受け取った。


 隣へ来たリオンが、丸い矢先を覗き込む。


「エルの狙ったところへ、まっすぐ飛んだね」


「……そうだね」


 エルは矢を見つめたまま、小さく笑った。


「ありがと」


 ラグナは軽く頷き、的の前から離れた。


「次、的にやってみろよ」


 エルは顔を上げる。


 傷だらけの木の的。

 その手前には、誰も立っていない。


 矢をつがえた。


 今度も、当たる場所は分かった。

 けれど、浮かんだのは木が裂ける光景だけではなかった。


 胸に矢を受けたあとも、平然と立っていたラグナ。

 その足元へ落ちた、丸い先端。


 エルは狙いを保ったまま、指を離した。


 矢が飛ぶ。


 こつん、と音がした。


 的の中心に当たった矢が、地面へ落ちる。


 エルは弓を下ろし、駆け寄った。


 当たった場所へ指を伸ばす。

 古い傷はそのままあったが、新たに木が裂けた様子はなかった。


「……当たった」


 今度は、顔を上げて言った。


「ちゃんと当たった!」


「ああ。見てた」


 ラグナが答える。


 リオンも嬉しそうに頷いた。


 エルは矢を拾った。

 布で包まれた先は少し歪んでいて、最初よりも不格好になっていた。


 それでも、その矢を手放したくなかった。


 日が傾き、広場の影が長く伸びていた。


 矢を片付けながら、エルは二人へ目を向けた。


「……ねえ」


「ん?」


「二人、これからも旅するんだよね」


「ああ」


 ラグナが頷く。

 その隣で、リオンも顔を上げた。


 エルは弓の表面を指でなぞった。


 明日もここで練習するつもりだった。

 また的を狙って、外して、笑ってごまかすのだと思っていた。


 けれど今、手元には丸い先の矢がある。


「あたしも、行っていい?」


 言ってから、二人の顔を見た。


「ちゃんと当てられるようになりたいし……壊さないで戦う方法も、もっと考えてみたい」


 丸い矢だけで、何もかも解決するわけではない。

 さっきだって、ラグナは少し痛そうにしていた。


 それでも、試してみたいと思った。


 二人となら、ほかにも何か見つかる気がした。


 ラグナはリオンへ目を向けた。


「俺はいいぞ。リオンは?」


「僕も。一緒に来てくれたら嬉しい」


 リオンは笑った。


「エルの歌にも、助けてもらったしね」


 エルの肩から、ふっと力が抜けた。


「……そっか」


 手元へ落としていた視線を上げる。


「じゃあ、決まりね!」


 いつもの明るい声が、広場に響いた。


 ラグナが笑い、リオンも頷く。


 エルは丸い矢を、ほかの矢と一緒に矢筒へ収めた。


 布に包まれた不格好な一本が、その中で少しだけ目立っていた。

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