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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第五章 断崖の村
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第六十九話 眠れない夜

 夜。


 漁村は静かだった。


 昼間の賑わいが嘘のように、人々はそれぞれの家へ戻っている。


 窓の外では波の音だけが聞こえていた。


 宿屋の一室。


 エルはすでに眠っている。


 リオンも寝息を立てていた。


 ルミナスも目を閉じている。


 けれど。


 ラグナはまだ起きていた。


 窓辺に座り、夜の海を眺めている。


 潮風が少しだけ入り込む。


 静かな夜だった。


 なのに。


 胸の奥が妙に落ち着かなかった。


 昼間の出来事。


 いや。


 正確にはもっと前。


 断崖の村。


 あの時。


『おにいちゃーん!』


 魔族の少女がそう呼んだ瞬間。


 何かが引っ掛かった。


 ほんの一瞬だけ。


 胸の奥で何かが動いた。


 けれど。


 思い出そうとすると霧がかかる。


 何も見えない。


 何も分からない。


 ラグナは眉を寄せた。


「……なんなんだよ」


 小さく呟く。


 答える者はいない。


 その時だった。


 背後で僅かに衣擦れの音がした。


 振り返る。


 ライカだった。


 黒い髪を揺らしながら静かに近付いてくる。


 ラグナは少し驚いた。


「起きてたのか」


 ライカは頷く。


「眠らないの?」


「お前こそ」


 ライカは少し考える。


「わたしは眠らなくても平気」


「便利だな」


「そう?」


 本気で不思議そうだった。


 ラグナは苦笑する。


 ライカは窓の近くまで来る。


 そして隣へ座った。


 しばらく沈黙。


 波の音だけが聞こえる。


 ライカがぽつりと聞いた。


「なにか考えてる?」


 ラグナは少しだけ言葉に詰まった。


 本当は何かある。


 確かにある。


 でも。


 何なのか分からない。


 だから。


「いや」


「なんでもねぇ」


 そう答えた。


 ライカは頷く。


「そう」


 それだけだった。


 追及しない。


 無理に聞こうともしない。


 その距離感が妙に心地良かった。


 再び静寂が訪れる。


 しばらくして。


 今度はラグナが口を開いた。


「なぁ」


「なに」


「お前、小さい頃ってどんなだったんだ?」


 ライカは目を瞬かせた。


「小さい頃」


 聞き慣れない質問だった。


 しばらく考える。


 本当に考える。


 それから答えた。


「リリアナと居た」


「うん」


「海を見てた」


「うん」


「よく眠れなかった」


 ラグナは待つ。


 続きがあると思った。


 だが。


 終わりだった。


「それだけか?」


「それだけ」


 ラグナは頭を抱えた。


「子どもらしいことしなかったのか?」


 ライカはまた考える。


 長い沈黙。


 そして。


「……転んだ」


「そういうことじゃねぇ」


 思わずツッコむ。


 ライカは首を傾げる。


 何が違うのか分からない。


 ラグナは少し笑った。


「友達とか」


「遊びとか」


「そういうのだよ」


 ライカは窓の外を見る。


 月明かりが海を照らしていた。


「……なかった」


 静かな声だった。


「同じくらいの子も居なかったし」


「そうか」


 ラグナもそれ以上は言わない。


 ライカは続ける。


「でも」


「リリアナが居た」


 その声だけは少し柔らかかった。


「色んなこと教えてくれた」


「海のこと」


「空のこと」


「魚のこと」


「知らないこと」


 ラグナは黙って聞いていた。


 ライカは普段あまり話さない。


 だからこそ。


 一つ一つの言葉が重かった。


 ライカがぽつりと言う。


「ずっと隣に居てくれた」


「寂しくないように」


 ラグナは少し目を細めた。


「優しい人だったんだな」


 ライカは頷く。


「うん」


 迷いのない返事だった。


 その様子を見ながら。


 ラグナはふと思い出す。


 鍛冶屋の家。


 夜更かしして怒られたこと。


 風邪をひいて無理やり寝かされたこと。


 剣を振って怪我をしたこと。


 全部。


 ガルドだった。


「ガルドも似たようなもんだったな」


 ライカが振り向く。


「ガルド」


「俺を拾った鍛冶屋」


 ラグナは窓の外を見る。


「飯作って」


「怪我治して」


「怒って」


「面倒見て」


「そんな感じ」


 ライカは静かに聞いていた。


「優しい人?」


 ラグナは少し考える。


 そして笑う。


「まぁな」


 短い返事。


 でも。


 それだけで十分だった。


 ライカも小さく頷く。


「リリアナも優しかった」


 波の音が響く。


 海が揺れる。


 二人とも少しだけ黙った。


 どちらも実の親ではない。


 けれど。


 大切な人だった。


 そこだけは似ていた。




 その時。


 別の場所から小さな声が聞こえた。


「……起きていたのですね」


 二人が振り向く。


 ルミナスだった。


 いつの間にか起きている。


 ライカが首を傾げる。


「眠ってた」


「はい」


「でも起きました」


「そう」


 妙な会話だった。


 ルミナスは二人の近くへ座る。


 そして窓の外を見る。


 しばらく沈黙。


 ライカが聞く。


「眠れないの?」


「眠れます」


「でも起きてる」


「はい」


 ラグナが吹き出した。


「会話になってんのかそれ」


 ルミナスは真面目だった。


「なっています」


 ライカも真面目だった。


「そう」


 ラグナは肩を震わせる。


 二人とも天然すぎる。


挿絵(By みてみん)


 しばらくして。


 ルミナスが静かに言った。


「ライカ」


「なに」


「今日はどうでしたか」


 ライカは少し考える。


 昼間のこと。


 少年。


 老婆。


 魚。


 宿屋。


 ブーツ。


 旅。


 色んなものを思い出す。


 そして。


「……変だった」


 ルミナスは少し笑った。


「そうですか」


「うん」


 ライカは頷く。


「人間も」


「旅も」


「魚も」


 ラグナが笑う。


「魚は魚だろ」


 ライカは真面目な顔だった。


「そうだけど」


 ルミナスは静かに聞く。


「嫌でしたか」


 ライカは首を横に振った。


「……嫌じゃない」


 その答えを聞いて。


 ルミナスは少しだけ微笑んだ。


「それは良かったです」


 海の音が聞こえる。


 夜風が吹く。


 遠くではユーリが野宿しているはずだ。


 そして。


 明日もまた旅が続く。


 ライカは窓の外を見る。


 昔の自分なら。


 こんな夜は来なかった。


 知らない人と話すことも。


 人間の村へ行くことも。


 誰かと並んで海を見ることも。


 なかった。


 胸元の刻へそっと触れる。


 深海色の真珠が月明かりを受けて淡く光った。


 リリアナ。


 わたしは今。


 未来を見ている。


 その答えはまだ分からない。


 けれど。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 この旅を続けてみたいと思っていた。


 静かな夜だった。


 波の音だけが、どこまでも優しく響いていた。

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