第六十八話 人間の漁村
崖沿いの道を南へ進む。
右には青い海。
左には岩肌の崖。
潮風が吹くたび、ライカの長い黒髪が揺れた。
歩き始めて数時間。
ライカは特に何も言わない。
けれど、その歩き方は少しぎこちなかった。
新しく履いたブーツ。
まだ慣れていない。
エルが横から覗き込む。
「ライカー」
「なに」
「足痛い?」
ライカは少し考えた。
「……重い」
エルが吹き出す。
「まだ言ってる!」
ラグナも苦笑した。
「そのうち慣れるって」
ライカは納得していない顔だった。
その様子を見ていたユーリが前方を指差す。
「そろそろだね」
崖の向こう。
小さな集落が見え始めていた。
断崖の村からも見えていた人間の漁村。
海沿いに家々が並んでいる。
港には小さな船。
魚を干す網。
白い煙。
人々の声まで聞こえてきそうだった。
ユーリはそこで足を止めた。
「僕はこの辺りで野宿するよ」
ラグナが振り返る。
「村に入らねぇのか?」
「うん」
ユーリは肩を竦めた。
その近くでは三体の魔物がのんびりしている。
「この子達もいるしね」
黒狼が尻尾を振る。
植物をまとった魔物が蔦を伸ばす。
双頭の鳥は岩の上で羽を休めていた。
ユーリは苦笑する。
「放っておくわけにもいかないから」
ラグナは少し考える。
確かに。
人間の村へ魔物を連れて入るのは難しい。
「平気なのか?」
「慣れてるよ」
ユーリはあっさり答えた。
「昔からよくやってるし」
ライカはその様子を見ていた。
そして視線を人間の村へ向ける。
表情が少し固い。
ルミナスが気付く。
「不安ですか」
ライカは小さく頷いた。
「……人間」
それだけだった。
エルがライカの腕を引っ張る。
「大丈夫大丈夫!」
「根拠は?」
「ない!」
ライカが無言になる。
エルは満面の笑みだった。
「でも大丈夫な気がする!」
「それ根拠になってないぞ」
ラグナが呆れる。
「なってるもん!」
そんなやり取りをしながら。
五人は人間の漁村へ向かった。
村へ入ると。
まず魚の匂いがした。
港では漁師達が網を運んでいる。
子ども達が走り回っている。
市場には魚や貝が並び、賑やかな声が飛び交っていた。
ライカは静かに周囲を見回す。
断崖の村と似ている。
違うのは住んでいる人が人間だということだけだった。
誰も剣を向けてこない。
誰も睨まない。
それが少し不思議だった。
「あれ?」
不意に声がした。
魚を運んでいた少年が立ち止まる。
ライカを見る。
ライカの身体が少し強張った。
けれど。
返ってきた言葉は予想外だった。
「旅人?」
ライカは目を瞬く。
「……そう」
少年は笑った。
「へぇ」
「綺麗な髪だな」
それだけ言うと走って行ってしまった。
ライカはしばらく動かなかった。
エルが横で笑う。
「褒められたね」
ライカはまだ理解できていないようだった。
宿屋を探していると。
一人の老婆が声を掛けてきた。
「旅人さんかい?」
ラグナが頷く。
「一晩泊まれる宿あるか?」
「あるよ」
老婆は笑った。
そして。
ライカを見る。
ライカは思わず身構えた。
だが老婆は何事もないように言った。
「お嬢ちゃん、疲れてるねぇ」
「顔色悪いよ」
ライカは固まった。
心配された。
それが理解できない。
エルが吹き出しそうになる。
ルミナスも少しだけ微笑んだ。
老婆は続ける。
「宿ならあっちだよ」
「ちゃんと休みな」
「……ありがとう」
ライカは小さく答えた。
老婆は優しく笑った。
「どういたしまして」
それだけだった。
夕方。
宿屋の食堂。
魚料理が並んでいた。
エルは嬉しそうに頬張っている。
ラグナも食べている。
リオンは穏やかに微笑んでいた。
ルミナスも少しずつ食べている。
そしてライカ。
目の前の魚を見ている。
「……」
「どうした?」
ラグナが聞く。
ライカは魚を見る。
そして窓の外の海を見る。
「海にいた」
「そりゃそうだろ」
ラグナが即答した。
エルが笑い転げる。
「ライカ!」
「魚は海にいるの!」
「知ってる」
「じゃあなんで今言ったの!?」
ライカ自身も少し困っていた。
どう説明していいか分からない。
海底神殿から見ていた魚達。
今は皿の上。
なんだか不思議だったのだ。
リオンが小さく笑う。
「食べてみたら?」
ライカは少し考える。
そして一口。
しばらく咀嚼する。
沈黙。
全員が見ている。
ライカは真顔だった。
「……魚だ」
エルが机に突っ伏した。
「だから魚だってば!」
食堂中の人が何事かと振り返る。
ラグナは肩を震わせていた。
ルミナスまで少し笑っている。
ライカだけが真面目だった。
夜。
宿の部屋。
窓の外には静かな海が広がっている。
ライカは一人、窓際に座っていた。
昼間の出来事を思い出している。
少年。
老婆。
宿屋の人。
誰も怖がらなかった。
誰も利用しようとしなかった。
ただ普通に話しかけてきた。
胸の奥が少しだけざわつく。
その感覚の名前をライカは知らない。
窓の外。
遠くの崖の上。
小さな焚き火の光が見えた。
きっとユーリだ。
三体の魔物と一緒に夜を過ごしている。
ライカは静かに海を見る。
そして小さく呟いた。
「……変なの」
人間も。
魔族も。
旅も。
食事も。
靴も。
全部。
知らないことばかりだった。
けれど。
少しだけ。
昨日よりも世界が広く見えていた




