第六十七話 未来へ向かう一歩
海風が吹いていた。
崖の村の入口。
静かな海が陽の光を反射して輝いている。
ラグナの問いかけに、ライカはしばらく答えなかった。
胸元の刻へそっと触れる。
深海色の真珠。
その中には、同族たちの記憶が眠っている。
リリアナも。
祭壇も。
石碑も。
海底神殿も。
ずっと守ってきたもの。
ずっと守らなければならないと思っていたもの。
ライカは静かに目を閉じた。
そして。
ゆっくりと口を開く。
「……行く」
海風が髪を揺らす。
ラグナ達は黙って聞いていた。
ライカは続ける。
「未来を、見るために」
その言葉に。
ルミナスが静かに微笑む。
エルは嬉しそうに顔を上げた。
リオンもほっとしたように息を吐く。
ラグナは少しだけ笑った。
「そっか」
それだけだった。
歓迎の言葉も。
大げさな祝福もない。
けれど。
その一言がライカには心地よかった。
ユーリは少し離れた場所でその様子を見ている。
何も言わない。
ただ静かに頷いた。
そして。
六人の旅が始まった。
断崖沿いの道を南へ進む。
右には広大な海。
左には岩肌の崖。
空には白い鳥が飛んでいた。
ライカは初めて歩く世界を静かに見ている。
海底神殿とは違う。
風がある。
匂いがある。
音がある。
何もかもが新鮮だった。
エルはそんなライカの隣を歩く。
「どう?」
「旅って感じする?」
ライカは少し考える。
「……わからない」
「だと思った!」
エルは楽しそうに笑った。
ラグナも苦笑する。
「まだ始まったばっかだしな」
その時だった。
「あっ!」
突然。
エルが大きな声を上げた。
全員が振り向く。
「どうした?」
ラグナが聞く。
エルは指を差した。
「ライカ!」
「足!」
ライカは首を傾げる。
「……足?」
全員の視線が下へ向く。
そして。
沈黙。
岩の道に赤い点々が続いていた。
血。
ライカが歩いた跡だった。
「うわっ!?」
ラグナが目を見開く。
リオンは即座に動いた。
「ライカ!」
「座って!」
ライカは訳が分からないまま岩へ座らされる。
リオンが足裏を見る。
完全に擦り切れていた。
歩き慣れていない岩場。
ずっと裸足。
当然だった。
「痛くないの!?」
エルが慌てる。
ライカはきょとんとしていた。
「……このくらい平気」
「平気じゃないよ!」
エルが叫ぶ。
ライカは本当に不思議そうだった。
「そう?」
ラグナが頭を抱える。
「そうじゃねぇよ……」
リオンは苦笑しながら治療を始めた。
淡い光が足元を包む。
傷がゆっくり塞がっていく。
ライカはその様子を眺めていた。
痛みに慣れている。
それは本当だった。
長い年月。
もっと酷いものを見てきた。
だから足の傷程度では何も感じない。
けれど。
皆の反応を見る限り。
普通ではないらしい。
「……変なの」
ライカがぽつりと呟いた。
「変なのはお前だよ」
ラグナが即答した。
問題は解決しなかった。
傷は治った。
けれど。
裸足のまま歩けばまた同じことになる。
エルが困った顔をする。
「どうしよう……」
「靴とかないよね」
その時。
ユーリが荷物を漁り始めた。
ごそごそ。
ごそごそ。
しばらくして。
一足の黒いブーツを取り出す。
「ライカ様」
自然な敬語。
「宜しければこちらを」
全員が固まる。
ライカも固まる。
沈黙。
数秒後。
ラグナが言った。
「なんで持ってんだよ!?」
「しかもブーツ!?」
エルも叫ぶ。
「なんでサイズ合いそうなの!?」
リオンまで引いていた。
「怖いよ!?」
ユーリは目を瞬かせる。
「え?」
本気で分かっていない顔だった。
「昨日見た時に裸足でしたし」
「必要になるかもしれないと思って」
あまりにも自然な答え。
ラグナ達は顔を見合わせた。
「いやいやいや」
「普通持ってこないだろ」
「持ってきますよね?」
ユーリは首を傾げる。
全く噛み合っていない。
ライカは二人を交互に見ていた。
そして。
小さく呟く。
「……ありがとう」
ユーリは微笑んだ。
「どういたしまして」
そのやり取りに。
なぜかラグナ達がまた黙る。
エルがぼそっと言った。
「なんか二人だけ会話成立してる……」
しばらくして。
ライカはブーツを履いた。
ぴったりだった。
驚くほど。
エルが目を丸くする。
「ぴったりじゃん!」
ラグナがユーリを見る。
「サイズまで分かったのか?」
「なんとなくです」
「なんとなく怖いんだよなぁ……」
リオンも同意した。
ライカは立ち上がる。
数歩歩く。
止まる。
全員が見ていた。
感想を待っている。
ライカは真顔だった。
「……重い」
エルが吹き出した。
「感想それ!?」
ライカはさらに歩く。
数歩。
また止まる。
「……歩きにくい」
「慣れて!?」
エルが叫ぶ。
ラグナは笑いを堪えていた。
リオンも肩を震わせている。
そして最後。
ライカは自分の足元を見た。
黒いブーツ。
見慣れない感触。
見慣れない重さ。
見慣れない自分。
「……変」
今度は全員が吹き出した。
エルはお腹を抱えて笑っている。
「ライカ最高!」
「なにが」
本人だけ真面目だった。
ラグナは笑いながら言う。
「まぁ」
「そのうち慣れるだろ」
ライカは首を傾げる。
けれど。
少しだけ歩いてみる。
重い。
歩きにくい。
変だ。
それでも。
足は痛くなかった。
海風が吹く。
断崖の道が続いている。
ライカは前を見た。
未来を見るために。
その一歩は。
昨日までの自分には踏み出せなかった一歩だった。




