第六十四話 海の上
海底神殿の案内が終わった後。
ライカは水晶玉の部屋で静かに外を見ていた。
青く滲んだ景色。
崖の村。
静かな海。
何百年も見続けてきた景色だった。
背後から足音が聞こえる。
振り返ると、ラグナ達がいた。
エルが水晶玉を覗き込む。
「やっぱり変だなぁ」
「?」
ライカが首を傾げる。
エルは少し考えてから言った。
「ライカってさ」
「海の上、見たことないの?」
静寂。
ライカの瞳が僅かに揺れる。
「……ない」
小さな返事。
ラグナが目を丸くした。
「一回もか?」
ライカは頷く。
「神殿から出たこと、ないから」
何百年。
その言葉の重さを、誰も口にはしなかった。
エルは少しだけ笑う。
「じゃあ見に行こうよ」
「え?」
ライカが固まる。
「海の上」
まるで散歩に誘うみたいな軽い声だった。
「風も気持ちいいし」
「空も綺麗だし」
「今日は晴れてるし」
ライカは言葉を失う。
そんな事を言われるとは思っていなかった。
ラグナも頷いた。
「見るだけだ」
「無理なら戻ればいい」
それだけだった。
説得もしない。
理由も求めない。
ライカは視線を落とした。
海の上。
リリアナが何度も話していた場所。
空。
風。
太陽。
鳥。
けれど。
見たことはない。
怖かった。
今も怖い。
それでも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
見てみたいと思った。
神殿の出口。
海へ続く水の道。
ライカは立ち止まっていた。
一歩先に行けば海の上へ出る。
ラグナ達は何も言わない。
先に歩いている。
待っている。
急かさない。
ライカは刻にそっと手を置く。
胸元の刻が淡く光る。
――リリアナ。
名前を心の中で呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
けれど。
どこか背中を押された気がした。
ライカはゆっくり足を前へ出す。
一歩。
そしてまた一歩。
海面へ出た瞬間。
風が吹いた。
黒い髪が大きく揺れる。
ライカは思わず目を見開いた。
「……」
風。
海底では感じたことのない感触。
頬を撫でる。
服を揺らす。
髪をさらう。
太陽の熱。
潮の匂い。
鳥の声。
全部が初めて。
全部が未来。
そして。
足元から伝わる感覚に、ライカは小さく身体を震わせた。
視線を落とす。
そこには白い砂浜が広がっていた。
恐る恐る足を動かす。
さらり。
砂が流れる。
ライカは思わず足を止めた。
海底神殿の床は、どこまでも硬い石だった。
冷たく。
変わらず。
何百年も同じ感触だった。
けれど今。
足の裏では柔らかな砂が形を変えている。
一歩踏み出せば沈み。
足を上げれば崩れる。
温かい。
太陽の熱を受けた砂は、ほんのりと熱を持っていた。
ライカはもう一度足を動かす。
さらさらと砂が指の間を流れた。
その感覚が不思議で。
少しだけ目を見開く。
エルが不思議そうに聞く。
「どうしたの?」
ライカは少し考える。
何を言えばいいのか分からない。
やがて。
「……砂が動く」
エルは一瞬ぽかんとした。
それから思わず吹き出す。
「そこ!?」
ラグナも少し笑った。
けれどライカは真面目だった。
「歩くと、形が変わる」
「温かい」
小さな声。
まるで新しい発見を報告する子どもみたいだった。
顔を上げると目の前には青い海が広がっている。
遠くまで。
どこまでも。
空と繋がっていた。
雲が流れている。
鳥が飛んでいる。
太陽の光が海を照らしている。
全部。
初めてだった。
リオンが歩み寄る。
「どう?」
ライカは答えられない。
ただ空を見上げる。
あまりにも広い。
あまりにも高い。
リリアナが話していた空。
祭壇で聞いた話。
ずっと想像していた場所。
けれど。
想像よりずっと大きかった。
「……わからない」
ようやく出た言葉。
ラグナは少し笑う。
「そっか」
それだけ。
感想を求めない。
ライカはまた空を見上げた。
風が吹く。
鳥が鳴く。
海が光る。
静かな時間だった。
やがて。
ライカはぽつりと呟く。
「……綺麗」
誰に聞かせるでもない声。
けれど。
その言葉は風に乗って消えていった。
リリアナ。
あなたが見せたかった景色は。
これだったのだろうか。
何百年も守り続けた神殿。
何百年も抱え続けた記憶。
それらは決して無駄ではない。
けれど。
もしかしたら。
記憶を守るだけでは足りなかったのかもしれない。
リリアナは。
同族達は。
この景色を見て欲しかったのかもしれない。
未来を。
新しい時代を。
振り返ると。
遠くに崖の村が見えた。
小さな家々。
動き回る魔族達。
ライカは反射的に身を強張らせる。
一歩下がる。
怖い。
知らない。
近付きたくない。
心臓が少し速くなる。
ラグナ達は気付いた。
けれど何も言わない。
戻ろうとも言わない。
進もうとも言わない。
ただ隣にいる。
ライカは村を見つめた。
怖かった。
それでも。
海底神殿へ逃げ帰ろうとは思わなかった。
昔の自分なら。
きっとすぐに戻っていた。
けれど今は。
違う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
もう少しだけ見ていたいと思った。
風が吹く。
空が広がる。
海が輝く。
足元の砂が静かに沈む。
ライカはその感触を確かめるように、もう一歩だけ前へ進んだ。
そしてライカは。
生まれて初めて。
未来というものを見ていた。




