第六十三話 海底の記憶
海の泡が、静かに揺れていた。
朝。
青白い光に包まれた海底神殿を、ライカはゆっくり歩いている。
その少し後ろを、ラグナ達が続いていた。
足音だけが静かに響く。
昨日までなら。
ライカは誰かをここへ入れようとは思わなかっただろう。
けれど今は。
誰かの足音が後ろにあることを、どこか安心している自分が居た。
長い廊下。
壁には所々、大きな窓が存在している。
窓の向こうには、静かな海。
色とりどりの魚たち。
揺れる海藻。
天井の一部も透けていて、海の光がゆらゆらと差し込んでいた。
エルが目を輝かせる。
「わぁ……」
窓へ駆け寄る。
「すごい……空みたい」
ライカは小さく首を傾げた。
「……空?」
「あ」
エルは少し笑う。
「海の上にも、青くて広い場所があるの」
ライカは静かに天井を見上げる。
まるで。
知らない世界を想像するみたいに。
やがて一行は、神殿の最奥へ辿り着く。
そこには、大きな祭壇があった。
深海色の石で作られた円形の台座。
静かに水が流れている。
ルミナスが小さく呟く。
「ここは……?」
ライカは祭壇を見つめる。
「海底の民が、生まれる場所」
ラグナが目を瞬かせる。
「生まれる?」
ライカは胸元の刻へ触れた。
「刻をここへおさめると、身体が宿る」
静かな声。
「新しい海底の民になる」
リオンが静かに祭壇を見る。
そこは神聖というより。
とても静かな場所だった。
ライカは祭壇の傍へ腰を下ろす。
長い階段を歩いたからか、少し疲れたようだった。
その姿を見ながら、ライカはぽつりと呟く。
「……ここへ来ると」
「よく、リリアナが話しかけてきた」
エルが静かに聞く。
「どんなこと?」
ライカは少し考える。
「海の上の話」
「空の話」
「いつか、見せたいって」
小さな声。
けれど。
そこには確かに、穏やかな記憶があった。
祭壇の部屋を後にし、一行は隠し扉のある部屋へ戻る。
ライカは少し迷うように立ち止まった。
それから静かに言う。
「……ここは」
「リリアナと、わたしの部屋」
部屋の中は静かだった。
古い布。
深海色の小さな装飾。
壊れた椅子。
時間が止まったまま残っている。
エルが小さな貝殻の飾りを見つける。
「かわいい……!」
ライカが驚いたようにエルを見る。
エルは嬉しそうに笑った。
「リリアナ、こういうの好きだったのかな」
ライカは少しだけ目を伏せる。
「……うん」
そして。
ラグナが壁を見て立ち止まる。
そこには、何本もの線が刻まれていた。
高さを測った跡。
小さな字で、日付のような印も残っている。
ラグナが呟く。
「……普通の子どもみたいだな」
ライカの瞳が揺れる。
「リリアナが、刻んでた」
小さな声。
「大きくなったねって」
エルは胸元を押さえる。
リオンも静かに目を伏せた。
そこに居たのは。
“海底の民”なんて特別な存在じゃない。
ちゃんと笑って。
ちゃんと暮らしていた人たちだった。
石碑の広場。
色とりどりの珊瑚に囲まれた場所。
中央には、大きな石碑。
『海底の民、ここに眠る』
その文字を見た瞬間。
ライカの足が止まる。
深海色の瞳が、静かに揺れた。
「……ここで」
小さな声。
「みんな、眠った」
空気が重くなる。
ライカは石碑を見つめたまま続ける。
「静かだった」
「誰も、泣かなかった」
「わたしだけが、残った」
胸元の刻が淡く光る。
ラグナ達は何も言わない。
ただ、その隣へ立っていた。
独りにしないように。
次に通ったのは、ラグナ達が食堂だと思っていた大広間だった。
広い空間。
長い机のような石台。
水路が静かに流れている。
ライカはその水へ触れた。
「ここで、刻へ水を与えてた」
エルが辺りを見回す。
「みんなで集まってたの?」
ライカは頷く。
「話したり」
「歌を聞いたり」
「海を見たり」
静かな声。
リオンが少し笑う。
「……やっぱり、普通に暮らしてたんだね」
ライカはその言葉を静かに聞いていた。
調理場のように見えた場所。
そこには、水を循環させる装置や、深海色の石が並んでいた。
「刻を磨いたり、水を管理する場所」
ライカが説明する。
ラグナは辺りを見回す。
「てっきり飯作る場所かと思った」
「……ごはん」
ライカがその言葉を小さく繰り返す。
エルが笑った。
「今度もっと色々食べさせてあげる!」
ライカは少し困ったように瞬きをした。
でも。
その言葉を、拒まなかった。
神殿の奥には、小さな個室が並んでいた。
エルが首を傾げる。
「これ、みんなの部屋?」
ライカは静かに首を振る。
「海底の民に、親はいない」
「刻が生まれて」
「誰かが見つける」
「その人が育てる」
リオンが静かに聞く。
「じゃあ、ライカを育てたのは?」
「リリアナ」
即答だった。
迷いが無い。
エルは少しだけ微笑む。
「じゃあ、リリアナはライカのお母さんみたいな人なんだ」
ライカはしばらく考えた。
その言葉を初めて聞いたように。
やがて小さく呟く。
「……そうなのかな」
ルミナスが静かに聞く。
「……その人と過ごす場所なのですね」
ライカは頷いた。
「ゆっくり、話すための部屋」
その言葉は。
どこか優しかった。
最後にライカが案内したのは、小さな水晶玉のある部屋だった。
水晶の中には、ぼんやりと外の景色が映っている。
青く滲んだ世界。
崖の村。
静かな海。
ライカは水晶へ触れる。
「ここから、外を見てた」
「魚を誘導したり」
「浜へ流したり」
エルが目を丸くする。
「えっ、それライカがやってたの!?」
ライカは小さく頷く。
「困ってそうだったから」
あまりにも自然な声だった。
ラグナは思わず笑う。
「お前、めちゃくちゃ優しいじゃん」
ライカは少しだけ目を瞬かせる。
その言葉を向けられることに、まだ慣れていないみたいに。
水晶の向こう。
青い海が静かに揺れていた。
その隣で。
ライカは初めて、自分の過去を誰かと歩いていた。




