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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第五章 断崖の村
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第六十二話 初めての感覚

 焚き火の火が、静かに揺れていた。


 赤い光。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音。


 海底神殿の青白い光とは、まるで違う色だった。


 ライカは少し離れた場所へ座り、その火をじっと見つめている。


 深海色の瞳に、赤い炎が映っていた。


 エルが不思議そうに聞く。


「そんな珍しい?」


 ライカはゆっくり瞬きをする。


「……火を、こんな近くで見たことない」


 ラグナが笑う。


「海の中だもんな」


「燃えねぇか」


 ライカは小さく頷いた。


 揺れる赤い光を見つめる横顔は、どこか幼かった。


 エルはそんなライカを見ながら、焼いていたパンを差し出す。


「はい」


 ライカは動きを止める。


「……なに」


「パン」


「食べる?」


 ライカはしばらくパンを見る。


 恐る恐るというより。


 どう扱えばいいのか分からないような目だった。


「わたし、食べなくても平気」


「知ってる」


 エルは笑った。


「でも美味しいの」


 横からラグナも口を挟む。


「うまいもん食うと、ちょっと元気出るぞ」


「……元気」


 ライカはその言葉を小さく繰り返す。


 それから。


 ゆっくりパンを受け取った。


 焚き火の熱で、まだ温かい。


 ライカは少し驚いたように目を細める。


「……あたたかい」


 そのまま小さく齧る。


 静かな沈黙。


 皆が少しだけライカを見る。


 ライカはゆっくり咀嚼していた。


 まるで。


 味を確かめる方法を探すみたいに。


 やがて。


 深海色の瞳が、僅かに揺れる。


「……甘い」


 エルがぱっと笑った。


「でしょ!?」


「ジャム入り!」


 ライカはもう一口食べる。


 その動作はぎこちない。


 でも。


 止まらなかった。


 ラグナは笑いながら焚き火へ薪を放り込む。


「気に入ったならよかったじゃん」


 ライカは小さくパンを見る。


 “美味しい”。


 その感覚を。


 彼女は今、初めて知ったのかもしれなかった。




 夜。


 皆が眠った後。


 海底神殿には、静かな泡の音だけが響いていた。


 ラグナは一人、剣を磨いている。


 赤いマントを肩へ掛けたまま、黙々と布を動かしていた。


 刃に付いた汚れを落とす。


 傷を確かめる。


 いつもの作業だった。


 昔は面倒だった。


 旅へ出る前。


 ガルドは剣を使うたびに手入れをさせた。


「戦うなら手入れしろ」


「使ったら磨け」


「錆びさせるな」


 何度も。


 何度も。


 耳に胼胝ができるくらい聞かされた。


 当時は少し鬱陶しいと思っていた。


 けれど。


 旅へ出た今は分かる。


 剣は勝手に残ってくれない。


 手を掛けなければ駄目になる。


 だからラグナは今日も磨く。


 ガルドに教わった通りに。


 その時。


 背後で、小さな足音が止まる。


 ライカだった。


 ラグナは振り返らない。


「眠れねぇのか?」


 ライカは静かに首を傾げる。


「……ねむる?」


「あ」


 ラグナが苦笑した。


「そっか」


 海底の民にとって、眠りもまた曖昧なのかもしれない。


 ライカはラグナの隣へ座る。


 以前より近い距離。


 気付けば。


 エルやリオンと話す時よりも近かった。


 けれどライカ自身は気付いていない。


 あるいは。


 気付いていても違和感を覚えなかったのかもしれない。


 少し前までなら考えられないことだった。


 誰かの近くへ座ることも。


 同じ時間を過ごすことも。


 ライカには必要なかったから。


 ライカの視線が剣へ向く。


「……それ、ずっと直してる」


「あぁ」


 ラグナは剣を軽く持ち上げる。


「放っとくと駄目になるからな」


 ライカは静かに聞いている。


「ガルドって人に教わった」


「大事なもんほど手を掛けろって」


「ガルド?」


 ラグナは少し考える。


 それから、いつもの調子で答えた。


「俺を拾って育ててくれた人かな」


 ライカの瞳が、静かに揺れる。


「……リリアナみたい」


 ラグナが手を止める。


 ライカは海を見つめたまま、小さく続けた。


「いつも、わたしに色んなこと教えてくれた」


「海の歌とか」


「昔の話とか」


 静かな声。


「いつも…そばに居てくれた」


 ラグナは黙って聞いていた。


 ライカは海を見つめる。


 静かな深海。


 記憶の中のリリアナも、よくそこに居た。


 歌を歌っていた。


 昔話をしていた。


 海の外の話をしていた。


 その声は思い出せる。


 笑顔も思い出せる。


 けれど。


 もう触れることはできない。


 ライカは胸元の刻を握る。


 無意識だった。


 まるで。


 そこに居ない誰かを探すみたいに。


 そして、ぽつりと言った。


「……よく笑う人だった」


 その言葉だけで。


 どれだけ大切な存在だったのか分かる気がした。


 ラグナは静かに剣を見つめる。


「……そいつ」


 ライカが視線を向ける。


「お前に、生きて欲しかったんだろうな」


 海の泡の音が揺れる。


 ライカの瞳が、大きく揺れた。


 言葉が出ない。


 胸元の刻が、淡く光る。


 だが今度は、雷は漏れなかった。


 ライカはゆっくり俯く。


「……わからない」


 小さな声。


「わたしは、ここに居ることしか出来なかったから」


 ラグナはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ剣を磨く。


 その隣で。


 ライカは、初めて誰かのそばで夜を過ごしていた。


 海底神殿は変わらない。


 青白い光も。


 泡の音も。


 眠る同胞たちも。


 何も変わらない。


 けれど。


 ライカの隣には、今ラグナが居る。


 その事実だけが。


 少しだけ。


 海底神殿を違う場所に見せていた。


挿絵(By みてみん)


 朝。


 ラグナたちが目を覚ます。


 ライカは少し離れた場所で、静かに海を見ていた。


 けれど。


 同じ空間に居た。


 逃げてはいなかった。


 エルが背伸びをしながら笑う。


「ねぇライカ!」


 ライカが振り返る。


「……なに」


「この神殿、もっと見てみたい!」


 ライカは少し迷うように視線を落とした。


 やがて。


 小さく頷く。


「……案内する」


 その言葉に。


 エルがぱっと笑顔になる。


 海底神殿の止まっていた時間が。


 少しずつ、動き始めていた。

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