第五十八話 孤独な少女
海の泡の音だけが響いている。
静かな空間だった。
まるで世界から切り離された場所。
青白い光が、ゆっくり揺れている。
その中心で。
一人の少女が、海を見つめていた。
黒く長い髪。
白い肌。
深海色の瞳。
胸元では、深海色の真珠が淡く光っている。
誰も、すぐには声を掛けられなかった。
あまりにも静かで。
あまりにも孤独そうだったから。
最初に口を開いたのは、ラグナだった。
「……お前」
少女は振り返らない。
ラグナは少しだけ困ったように頭を掻く。
「誰なんだ?」
沈黙。
しばらくして。
少女は静かに答えた。
「……ひとり」
エルが目を瞬かせる。
「え?」
少女は海を見たまま続ける。
「ずっと」
会話が、少し噛み合わない。
ラグナは苦笑した。
「いや、そうじゃなくてさ」
「名前とか」
その言葉に、少女は少しだけ目を伏せる。
まるで、“名前”というものを久しぶりに思い出したみたいだった。
「……ライカ」
小さな声。
海へ溶けてしまいそうなほど静かだった。
ルミナスが一歩前へ出る。
「私はルミナスです」
「こちらはラグナ、リオン、エル」
ライカの瞳が、ゆっくりと一行を見る。
その視線は不思議だった。
警戒しているのに。
どこか遠い。
まるで昔の記憶を見ているみたいな目。
リオンが静かに聞く。
「ここに……住んでるの?」
ライカは小さく頷いた。
「ここから出たら、わたしは消えるから」
エルが顔を上げる。
「……消える?」
だがライカは、それ以上説明しなかった。
まるで、それが当たり前であるかのように。
ラグナは少し眉をひそめる。
やっぱり、普通じゃない。
けれど。
不思議と怖くはなかった。
その時だった。
ライカの視線が、エルのハープへ止まる。
「……あの音」
エルがハープを抱き直す。
「え?」
ライカは静かに目を閉じた。
「久しぶりに聞いた」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「海が、静かだった」
エルは少し照れくさそうに笑う。
「あはは……なんか勝手に弾いちゃった」
ライカはその言葉へ、小さく首を傾げる。
「勝手に?」
「うん」
エルは笑った。
「なんとなく」
その時。
ライカの視線が、ふと止まる。
ルミナスの胸元。
黒銀色の紋章。
空気が変わった。
ライカの瞳が、僅かに揺れる。
「……魔王」
その声には、はっきりとした警戒があった。
ルミナスは静かに紋章へ触れる。
「はい」
「魔王ナタージャ様より預かっています」
沈黙。
ライカの表情が、ゆっくり変わる。
困惑。
そして。
微かな恐怖。
「……違う」
小さな声。
ラグナが眉をひそめる。
「違う?」
ライカは、初めてはっきりとこちらを見た。
深海色の瞳。
その奥には、長い長い時間が沈んでいた。
「魔王は……オルディス」
空気が止まる。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ライカは静かに続ける。
「黒い空」
「燃える海」
「雷」
「死んでいく声」
その言葉は、まるで夢の続きを見ているみたいだった。
「みんな、オルディスに従ってた」
胸元の真珠が、淡く揺れる。
「逆らえなかった」
ルミナスが静かに言う。
「……オルディスという魔王は、もういません」
ライカの瞳が揺れる。
「……いない?」
「はい」
ルミナスは頷く。
「今の魔王は、ナタージャ様です」
ライカは、しばらく動かなかった。
まるで言葉の意味を理解できないように。
長い沈黙。
やがて。
ライカは小さく呟く。
「……終わったの」
その声は。
安心にも。
悲しみにも聞こえた。
海の泡が、静かに揺れる。
この場所だけ、まるで時間が止まっていた。
けれど。
ラグナ達の言葉が。
少しずつ。
その止まった時間を、動かし始めていた。




