第五十七話 海底の民
海の泡の音だけが響いていた。
静かだった。
あまりにも静かすぎる。
海の底だというのに、水の流れる音すら遠い。
青白い光だけが、長い通路を淡く照らしている。
不思議だった。
ここへ来るまで。
確かに何かに呼ばれているような感覚があった。
優しい気配。
懐かしい感覚。
敵意は感じない。
けれど。
その正体が分からない。
それが逆に、不安を掻き立てていた。
もし、この先にいるのが人間なら。
もし、魔族なら。
あるいは、それ以外の何かなら。
誰も答えを持っていなかった。
ラグナを先頭に、一行は慎重に進んでいた。
赤いマントが、ゆっくり揺れる。
その後ろ。
リオンは周囲を警戒しながら歩いていた。
ロザリオを握る手に、自然と力が入る。
「……なんか、嫌な感じする」
小さく呟く。
死霊の気配とは違う。
けれど。
ここには、長い時間の“残滓”みたいなものが満ちていた。
エルはハープを抱えたまま、少しラグナへ近付く。
「ねぇ……」
「ん?」
「ここ、静かすぎない?」
いつもの明るい声が、少しだけ小さい。
ルミナスはそんなエルを見る。
「怖いですか?」
「……ちょっと」
エルは苦笑した。
「なんか、誰もいないはずなのに、“いる”感じするのよね」
ルミナスは静かに頷く。
「分かります」
その青い瞳も、周囲を警戒していた。
だが。
ラグナだけは迷わず進んでいく。
まるで、何かに導かれているみたいに。
やがて。
一行は大きな扉の前へ辿り着いた。
半ば崩れた石扉。
ラグナが押すと、重い音を立てて開く。
その先に広がっていた光景に、エルが息を呑んだ。
「……ここ」
広い空間。
長い机。
奥には巨大な調理台。
リオンが静かに呟く。
「厨房……?」
ルミナスは周囲を見渡した。
「人が……住んでいた」
その言葉に、空気が少し重くなる。
ここは遺跡じゃない。
“誰かが生きていた場所”だ。
ラグナは静かに周囲を見る。
壊れた椅子。
崩れた棚。
長い時間、誰も使っていない空間。
けれど。
どこか温かさの痕跡が残っていた。
さらに奥へ進む。
食事をするための大広間。
天井には、深海色の石が埋め込まれている。
まるで星空みたいだった。
その先。
一行は、大きな広場へ辿り着く。
色とりどりの珊瑚。
青。
白。
紫。
幻想的な光景。
その中央に、大きな石碑が立っていた。
ラグナが近付く。
刻まれていた文字を、ルミナスが静かに読む。
「……海底の民、ここに眠る」
沈黙。
エルが小さく息を呑む。
リオンは石碑へ触れようとして、やめた。
その瞬間だった。
胸の奥が、僅かに痛んだ。
理由は分からない。
悲しいわけではない。
苦しいわけでもない。
ただ。
大切な何かを失った場所に立っている。
そんな感覚だけが残った。
「リオン?」
エルが不思議そうに声を掛ける。
リオンは我に返ったように首を振る。
「ううん」
「なんでもない」
そう答えたものの。
海底神殿へ入ってから感じている違和感は、少しずつ強くなっていた。
ここが。
この場所に生きていた者たちの墓標。
ラグナは石碑を見つめながら、ゆっくり拳を握る。
海底の民。
誰にも知られず。
ここで眠っている。
さらに奥へ進む。
やがて辿り着いたのは、小さな部屋だった。
本棚も無い。
家具も無い。
何も無い。
ただ静かなだけの空間。
エルが首を傾げる。
「……行き止まり?」
リオンも周囲を見渡す。
「でも、ここだけ妙に綺麗だね」
ルミナスは壁へ触れる。
埃が少ない。
誰かが触れているような感覚。
その時だった。
「……いや」
ラグナが壁の一角を見る。
「ここ、変だ」
皆が振り返る。
ラグナは壁へ近付く。
石の継ぎ目。
僅かな違和感。
指を掛け、力を込める。
ごごご……。
低い音。
壁の一部が、横へ開いた。
エルが目を丸くする。
「隠し扉!?」
その先には、細い通路が続いていた。
青白い光が、さらに濃くなる。
空気も違う。
静かで。
冷たくて。
どこか懐かしいような感覚。
その時。
誰かの視線を感じた。
ラグナは足を止める。
後ろの三人も気付いたのか、言葉を失う。
見られている。
敵意はない。
けれど確かに。
誰かが、こちらを見ている。
ラグナは再び歩き出す。
リオンが後ろへ声を掛けた。
「気を付けて」
誰も言葉を発さないまま、奥へ進む。
そして。
通路を抜けた先。
そこには、広い空間があった。
海へ繋がる、大きな窓。
その向こうでは、静かな深海が揺れている。
青い光。
漂う泡。
幻想的な世界。
そして。
その窓辺に。
一人の少女が立っていた。
黒く長い髪。
白い肌。
深海色の瞳。
黒を基調とした長い衣。
胸元には、深海色の真珠が静かに光っている。
少女は、ぼんやりと海面を見つめていた。
まるで。
ずっと昔から、そこに一人でいたみたいに。




