第五十四話 湖の主
翌朝。
草原の彼方から、ゆっくりと日が昇っていた。
朝露に濡れた草を踏みながら、一行は再び南へ進んでいく。
風は穏やかだった。
遠くで鳥が鳴いている。
その時。
先頭を歩いていたラグナが、ふと足を止めた。
「……なんだ、あれ」
その声に、皆が前を見る。
そして。
「……え」
エルが目を見開いた。
視界の先。
地平線のように広がる青。
果てが見えない。
朝日を反射し、きらきらと輝く巨大な水面。
リオンが呆然と呟く。
「海……?」
「違うよ」
ユーリが答えた。
「あれが湖」
ラグナが思わず声を上げる。
「湖!?」
とてもそうは見えなかった。
岸が見えない。
対岸も遠い。
まるで世界の途中に、海が落ちているみたいだった。
ルミナスは静かに水面を見つめる。
「……綺麗ですね」
風が吹く。
湖面が静かに揺れる。
その時だった。
ざばん。
大きな音。
湖面に、波紋が広がる。
それはすぐに、大きな揺れへ変わった。
波が高くなる。
まるで湖そのものが呼吸しているようだった。
ラグナが即座に剣へ手を掛ける。
「……来るぞ」
水が盛り上がる。
次の瞬間。
巨大な影が湖から現れた。
轟音。
大量の水飛沫。
現れたのは――
巨大な蛇。
黒青色の鱗。
人など一飲みにできそうな顎。
金色の瞳が、一行を見下ろしていた。
エルが息を呑む。
「う、そ……」
リオンの顔も青ざめる。
ルミナスは即座に前へ出た。
剣を抜く。
だが。
「起こしちゃったね」
ユーリだけが、妙に軽い声だった。
ラグナが叫ぶ。
「いやいやいや!! なんだよあれ!?」
「湖蛇」
ユーリは普通に答える。
「この湖の主みたいなもの」
「先に言え!!」
巨大な蛇は、低く唸る。
空気そのものが震えるような圧。
三体の魔物たちですら、警戒して後退していた。
湖蛇の金色の瞳が、ゆっくりと細まる。
その視線が、ユーリの後ろの魔物たちへ向いた。
次の瞬間。
重々しい声が響く。
『……魔物を従える者か』
ラグナたちは目を見開いた。
「しゃ、喋った!?」
エルが半歩下がる。
湖蛇は、そんな反応など気にする様子もなく続けた。
『人間』
『魔族』
その声は、湖の底から響いてくるみたいだった。
『この地へ近付くな』
威圧。
空気が重くなる。
ラグナは剣を握り締めたまま聞く。
「……なんなんだよ、お前」
湖蛇の瞳がラグナを見る。
『我は、太古より代々、この湖を守る者』
風が強く吹いた。
湖面が荒れる。
巨大な身体がゆっくりとうねる。
『お前たちは、すぐに侵す』
『土地を』
『命を』
『静寂を』
その言葉。
そこには、人間だけへの怒りは無かった。
魔族も。
魔物も。
全てを等しく拒絶している。
ユーリが小さく息を吐く。
「相変わらず嫌われてるなぁ」
湖蛇の視線が鋭くなる。
『貴様は、死した者を侍らせている』
『不愉快だ』
ユーリは苦笑した。
「嫌われてる自覚はあるよ」
だが湖蛇は襲ってこない。
ただ、睨んでいる。
近付くなと警告するように。
長い沈黙。
やがて。
湖蛇は低く言った。
『この地は我らの生きる土地』
『何人たりとも、それを犯すことは許されん』
『早々に立ち去れ』
その瞬間。
巨大な身体が湖へ沈んでいく。
轟音。
波。
そして。
再び、静かな水面だけが残った。
しばらく誰も喋れなかった。
最初に口を開いたのはラグナだった。
「……なんだったんだ、あれ」
「湖蛇だね」
「それは聞いた!!」
ユーリは少し笑う。
「この辺じゃ有名だよ」
「滅多に姿は見せないけど」
リオンはまだ湖を見つめていた。
「魔物なのに……」
「人間だけじゃなくて、魔族にも敵意があった」
ルミナスが静かに言う。
「……ナタージャ様の言葉と、似ています」
ラグナが振り返る。
ルミナスは湖を見たまま続けた。
「“人間も魔族も変わらない”」
風が吹く。
湖面が静かに揺れる。
その時だった。
ざばん。
再び湖面が揺れた。
完全に沈んだはずの湖蛇の頭部が、わずかに水面から現れる。
金色の瞳がルミナスを見た。
『……その気配』
一行が身構える。
だが湖蛇は攻撃する様子を見せない。
『魔王の力か』
ルミナスは小さく頷いた。
「はい」
『なるほど』
湖蛇は静かに目を細めた。
『今代の魔王は、まだ生きていたか』
ラグナが眉をひそめる。
「知ってるのか?」
湖蛇はしばらく黙っていた。
やがて。
『我らは代々、この湖を守る』
『百年ほどで次代へ役目を譲る』
その巨体がゆっくりと揺れる。
『故に知っている』
『幾人もの魔王を』
ルミナスは静かに聞いていた。
湖蛇は続ける。
『だが、今代は長い』
『あの者が魔王となってから、人も魔族もこの地へ近付かなくなった』
『無意味な争いも減った』
風が湖を渡る。
『聡明な魔王だ』
その言葉に。
ルミナスは少しだけ目を見開いた。
ナタージャを知る者は多くない。
まして。
敵意も恐れもなく語る存在など。
『だからこそ』
湖蛇は静かに言う。
『その力を持つならば覚えておけ』
『争いは、人間だけが起こすものではない』
『魔族だけが起こすものでもない』
『命あるもの全てが起こす』
『故に我らは、全てを拒む』
長い沈黙。
やがて湖蛇は再び湖へ沈み始めた。
『行け』
『若き魔王の子よ』
『お前が何を選ぶか、我は知らぬ』
『だが、この湖は見ている』
轟音。
大きな波が広がる。
そして今度こそ。
湖蛇の姿は完全に見えなくなった。
ラグナは剣から手を離した。
あの湖蛇は。
きっと長い時間を見てきたのだろう。
人間と。
魔族と。
争い続ける世界を。
ユーリが地図を広げる。
「湖は迂回しよう」
「次の村は、もう少し北だ」
一行は再び歩き始める。
巨大な湖を横目に。
まだ見ぬ地へ向かって。




