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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第四章 新たな旅への序章
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第四十五話 魔王の紋章

7/1 魔王の紋章の挿絵を追加しました。

8/15 改訂しました。

 玉座の間には、静かな余韻が残っていた。


 世界地図はすでに閉じられている。


 けれど、その上に語られた未来は、まだ空気の中に漂っているようだった。


 ナタージャはしばらく四人を見つめていた。


 紅い瞳は静かだ。


 その目は、彼らの奥にある覚悟を測っているようでもあった。


 やがて。


「……待っておれ」


 ナタージャはそう言うと、広間へ歩いていく。


 長い黒髪が揺れる。


 広間を挟んだ対角にある暗い部屋。


 暗い部屋の中から、彼女は小さな箱を持って戻ってきた。


 古い黒木の箱。


 表面は磨かれたように光沢があった。


 ナタージャはそれを、静かにルミナスの前へ置いた。


「開けよ」


 ルミナスは一瞬だけ迷い、それからゆっくり蓋を開ける。


 中に入っていたのは――


 黒銀色の紋章だった。


挿絵(By みてみん)


 鈍い光を放つ、不思議な金属。


 円形の中心には、月にも見える紋様が刻まれている。


 ただ見ているだけなのに、空気が微かに震えるようだった。


 リオンが息を呑む。


「これ……」


 エルも目を細めた。


「なんか、すごい魔力感じる……」


 ラグナは眉をひそめる。


「熱くねぇ?」


 実際、紋章はわずかに温かかった。


 まるで鼓動しているみたいに。


 ナタージャが静かに口を開く。


「わらわの魔力を込めた紋章じゃ」


 その声に、空気が少しだけ張り詰める。


「魔族ならば、一目で分かる」


「それが魔王のものだとな」


 ルミナスは紋章を見つめる。


 黒銀色の表面に、自分の顔がぼんやり映っていた。


「これは……」


 ナタージャは続ける。


「命令するためのものではない」


「だが」


 紅い瞳が、まっすぐルミナスを見る。


「わらわが認めた者である証にはなる」


 静かな言葉。


 けれど、その重みは大きかった。


 五百年を生きた魔王。


 その存在に認められるということ。


 それは、魔族にとって絶対に近い意味を持つ。


 ナタージャはゆっくりと紋章を手に取る。


 そして。


 ルミナスの前へ差し出した。


「今のおぬしなら、託せる」


 ルミナスの瞳がわずかに揺れる。


 ゆっくりと両手を伸ばし、その紋章を受け取った。


 温かい。


 まるで、生きているみたいだった。


「……はい」


 小さな返事。


 ナタージャは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「失くすでないぞ」


 ラグナが横から覗き込む。


「それ、売ったら高そうだな」


「馬鹿」


 エルが即座に肘を入れる。


「いっで!?」


 そのやり取りに、ナタージャが小さく笑った。


 本当に小さく。


 五百年という時間の中で、久しく忘れていたみたいな笑いだった。


 ――


 巨大な門が、静かに開く。


 冷たい夜気の代わりに、朝の風が流れ込んできた。


 空は、白み始めている。


 ラグナが目を細めた。


「……朝か」


 長い夜だった。


 魔王と向き合い。


 世界のことを知り。


 これから歩む道を託された。


 そんなことを考えながら、ラグナは隣を見る。


 ルミナスが歩いていた。


 その背には。


「すぅ……」


 気持ちよさそうに眠るエル。


 両腕をルミナスの肩へ垂らしたまま、完全に力が抜けている。


 ラグナは呆れたようにため息を吐いた。


「急にあんなこと言い出すんだもんなぁ」


 隣を歩くリオンが、小さく笑う。


「よっぽど気になってたんだね」


「だからって自分で試すか?」


「エルらしいと言えば、エルらしいけど」


 ラグナはもう一度、眠るエルを見る。


 あまりにも穏やかな寝顔だった。


 ほんの少し前。


 魔王城の最奥。


 紋章を受け取ったルミナスが、広間を出ようとした時だった。


「ちょっと待って」


 突然、エルが声を上げた。


 ラグナが振り返る。


「どうした?」


 エルは立ち止まったまま。


 何かを思い出したような顔をしている。


「どうしても気になってることがあって」


「気になってること?」


「うん」


 エルはナタージャへ向き直る。


 そして。


 瞳を輝かせながら聞いた。


「どうやって皆を眠らせてるの?」


 ラグナが眉を上げる。


「皆?」


「ほら、最初にここへ来た時よ」


 エルが広間の外を指差す。


「見張りの魔族たち、みんな寝てたじゃない」


「ああ……」


「ずっと気になってたのよ」


 エルはハープを抱え直す。


「あたしも歌で魔物を眠らせることはできるけど」


「ナタージャは歌ってないでしょ?」


 ナタージャは少し目を細めた。


 どこか面白そうに。


「気になるのかのぅ?」


「うん!」


 即答だった。


 ナタージャの口元が、僅かに緩む。


「ならば」


 ゆっくりと片手を上げた。


「やってみせようか」


「え?」


 その指先が。


 エルへ向けられる。


 次の瞬間。


「……あれ?」


 エルの身体が、ぐらりと揺れた。


「エル?」


 ラグナが声を上げる。


 そのまま倒れそうになった身体を、ルミナスが慌てて抱き止めた。


「エル!」


 返事はない。


 ルミナスの腕の中。


 エルは。


「すぅ……」


 眠っていた。


「…………」


 ラグナは固まる。


 リオンも目を丸くしていた。


 ほんの一瞬だった。


 詠唱も。


 歌も。


 何もなかった。


 ナタージャが指を向けただけ。


 それだけで。


 エルの意識は、深い眠りへ落ちていた。


「……寝た?」


 ラグナが呟く。


「寝てるね……」


 リオンが答える。


 ルミナスは腕の中のエルと、ナタージャを交互に見る。


 ナタージャは何事もなかったように微笑んでいた。


「よく眠っておるじゃろう?」


「いや、そういう問題か……?」


 ラグナは思わず呟いた。


 けれど。


 その声とは裏腹に。


 背中に、僅かな寒気が走っていた。


 もし。


 ナタージャが自分たちを敵だと判断していたなら。


 もし。


 彼女が本気で戦うつもりだったなら。


 剣を抜くことすら。


 できなかったのかもしれない。


 五百年。


 魔王として、この世界に存在し続けてきた者。


 その意味を。


 初めて、ほんの少しだけ理解した気がした。


 ――


「……やっぱり」


 魔王城を出たラグナが、小さく呟く。


 リオンが彼を見る。


「どうしたの?」


 ラグナは歩きながら、背後を振り返った。


 黒い巨城。


 朝焼けの中に、その姿が浮かんでいる。


「あの魔王」


「たぶん、俺たちが思ってたよりずっと強ぇんだろうな」


 リオンも振り返る。


「……うん」


 もし。


 あのまま魔王を倒すことだけを目的にしていたなら。


 いつか自分たちは、ナタージャと戦っていたのだろうか。


 剣を向け。


 傷付け。


 どちらかが倒れるまで。


 そんな未来も、あったのかもしれない。


 けれど。


 もう、それは違う。


 ラグナは前を向く。


 朝の光が、少しずつ大地を照らしていた。


 魔王を倒す。


 ずっと、それが世界を救う方法なのだと思っていた。


 けれど今は。


 その目標がなくなった。


 不思議だった。


 何をすればいいのか分からなくなったはずなのに。


 何もなくなったような気はしない。


 むしろ。


 これから探せばいいのだと思えた。


 自分たちに何ができるのか。


 何をすれば、この世界を少しでも変えられるのか。


 ラグナは隣を歩く仲間たちを見る。


 リオン。


 ルミナス。


 そして。


 ルミナスの背中で、まだ気持ちよさそうに眠っているエル。


「……こいつ、いつ起きるんだ?」


「さあ……」


 二人は顔を見合わせる。


 そして。


 小さく笑った。


 ルミナスは振り返る。


 魔王城。


 黒い巨城は、朝焼けの中で静かに佇んでいた。


 以前見た時よりも、少しだけ違って見える。


 恐ろしい場所ではなく。


 “託された場所”として。



 王都へ戻った頃には、昼間になっていた。


 ルミナスの背で眠っていたエルも、目を覚ましていつもと変わらない調子で歩いている。


 王都は多くの人々の行き交う足音、笑い声が響いている。


 ラグナは周囲を見ながら呟く。


「……なんか久しぶりな感じするな」


 エルが笑う。


「魔王城が濃すぎたのよ」


「主に誰かさんのお陰でな」


「それはある」


 リオンも苦笑した。


 ルミナスは、静かに街を見ていた。


 守りたい景色。


 それが、ここにはあった。


 宿へ戻る。


 四人だけの部屋。


 机の上には、ナタージャから受け取った世界地図。


 その横には、黒銀色の紋章。


 ランプの灯りに照らされ、鈍く輝いていた。


 誰もしばらく喋らなかった。


 静かな時間。


 最初に口を開いたのはラグナだった。


「……正直」


 椅子に深く座る。


「世界を変えるとか、まだよく分かんねぇ」


 ルミナスが視線を向ける。


 ラグナは頭を掻いた。


「でもさ」


 少しだけ笑う。


「困ってる奴、放っとくのは嫌なんだよ」


 単純だった。


 けれど、ラグナらしい。


 エルがふっと笑う。


「ほんと、そこだけは変わらないわね」


「なんだよそこだけって」


「考えるの苦手そうなとこ」


「さっきまで寝てたやつに言われたくねぇ!」


 少しだけ、部屋の空気が軽くなる。


 その後。


 リオンが静かに口を開いた。


「……僕は、怖いよ」


 ロザリオを握る手に力が入る。


「死霊たちに、また拒絶されるかもしれない」


「魔族を憎んでる人たちも、きっとたくさん居る」


 声は小さい。


 けれど、逃げてはいなかった。


「でも」


 ゆっくり顔を上げる。


「助けたいんだ」


 ルミナスは、その言葉を静かに聞いていた。


 エルはハープを抱えながら苦笑する。


「あたし、人を説得するの苦手なのよね」


 ラグナが即答する。


「歌えよ」


「便利に使いすぎじゃない?」


 エルは呆れながらも笑った。


 その笑顔は柔らかい。


 少しずつ。


 みんな、自分の役割を見つけ始めていた。


 そして。


 最後に。


 ルミナスは、机の上の紋章を見る。


 黒銀色の光。


 その中には、ナタージャの願いが込められている気がした。


「……私は」


 静かな声。


 三人が彼女を見る。


「まだ、分かりません」


 正直な言葉だった。


「本当に変えられるのか」


「争いを止められるのか」


「魔王でなくなる方法なんて、見つかるのか」


 不安はある。


 怖さもある。


 ルミナスは、まだ完成された勇者じゃない。


 その時。


 ラグナが、あっさり言った。


「変えるんだろ?」


 ルミナスが顔を上げる。


 ラグナは真っ直ぐだった。


「だったら、やるしかねぇじゃん」


 単純で。


 乱暴で。


 でも、その言葉は不思議と力があった。


 ルミナスは小さく目を見開き――


 それから、少しだけ笑った。


「……はい」


 机の上には、世界地図。


 そして、魔王の紋章。


 その先には、まだ見ぬ世界が広がっている。


 敵も。


 味方も。


 何一つ、決まっていない世界。


 四人は、その地図を見つめる。


 魔王を倒す旅は終わった。


 だが。


 世界を繋ぐ旅は、まだ始まったばかりだった。

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