第四十五話 魔王の紋章
7/1 魔王の紋章の挿絵を追加しました。
8/15 改訂しました。
玉座の間には、静かな余韻が残っていた。
世界地図はすでに閉じられている。
けれど、その上に語られた未来は、まだ空気の中に漂っているようだった。
ナタージャはしばらく四人を見つめていた。
紅い瞳は静かだ。
その目は、彼らの奥にある覚悟を測っているようでもあった。
やがて。
「……待っておれ」
ナタージャはそう言うと、広間へ歩いていく。
長い黒髪が揺れる。
広間を挟んだ対角にある暗い部屋。
暗い部屋の中から、彼女は小さな箱を持って戻ってきた。
古い黒木の箱。
表面は磨かれたように光沢があった。
ナタージャはそれを、静かにルミナスの前へ置いた。
「開けよ」
ルミナスは一瞬だけ迷い、それからゆっくり蓋を開ける。
中に入っていたのは――
黒銀色の紋章だった。
鈍い光を放つ、不思議な金属。
円形の中心には、月にも見える紋様が刻まれている。
ただ見ているだけなのに、空気が微かに震えるようだった。
リオンが息を呑む。
「これ……」
エルも目を細めた。
「なんか、すごい魔力感じる……」
ラグナは眉をひそめる。
「熱くねぇ?」
実際、紋章はわずかに温かかった。
まるで鼓動しているみたいに。
ナタージャが静かに口を開く。
「わらわの魔力を込めた紋章じゃ」
その声に、空気が少しだけ張り詰める。
「魔族ならば、一目で分かる」
「それが魔王のものだとな」
ルミナスは紋章を見つめる。
黒銀色の表面に、自分の顔がぼんやり映っていた。
「これは……」
ナタージャは続ける。
「命令するためのものではない」
「だが」
紅い瞳が、まっすぐルミナスを見る。
「わらわが認めた者である証にはなる」
静かな言葉。
けれど、その重みは大きかった。
五百年を生きた魔王。
その存在に認められるということ。
それは、魔族にとって絶対に近い意味を持つ。
ナタージャはゆっくりと紋章を手に取る。
そして。
ルミナスの前へ差し出した。
「今のおぬしなら、託せる」
ルミナスの瞳がわずかに揺れる。
ゆっくりと両手を伸ばし、その紋章を受け取った。
温かい。
まるで、生きているみたいだった。
「……はい」
小さな返事。
ナタージャは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「失くすでないぞ」
ラグナが横から覗き込む。
「それ、売ったら高そうだな」
「馬鹿」
エルが即座に肘を入れる。
「いっで!?」
そのやり取りに、ナタージャが小さく笑った。
本当に小さく。
五百年という時間の中で、久しく忘れていたみたいな笑いだった。
――
巨大な門が、静かに開く。
冷たい夜気の代わりに、朝の風が流れ込んできた。
空は、白み始めている。
ラグナが目を細めた。
「……朝か」
長い夜だった。
魔王と向き合い。
世界のことを知り。
これから歩む道を託された。
そんなことを考えながら、ラグナは隣を見る。
ルミナスが歩いていた。
その背には。
「すぅ……」
気持ちよさそうに眠るエル。
両腕をルミナスの肩へ垂らしたまま、完全に力が抜けている。
ラグナは呆れたようにため息を吐いた。
「急にあんなこと言い出すんだもんなぁ」
隣を歩くリオンが、小さく笑う。
「よっぽど気になってたんだね」
「だからって自分で試すか?」
「エルらしいと言えば、エルらしいけど」
ラグナはもう一度、眠るエルを見る。
あまりにも穏やかな寝顔だった。
ほんの少し前。
魔王城の最奥。
紋章を受け取ったルミナスが、広間を出ようとした時だった。
「ちょっと待って」
突然、エルが声を上げた。
ラグナが振り返る。
「どうした?」
エルは立ち止まったまま。
何かを思い出したような顔をしている。
「どうしても気になってることがあって」
「気になってること?」
「うん」
エルはナタージャへ向き直る。
そして。
瞳を輝かせながら聞いた。
「どうやって皆を眠らせてるの?」
ラグナが眉を上げる。
「皆?」
「ほら、最初にここへ来た時よ」
エルが広間の外を指差す。
「見張りの魔族たち、みんな寝てたじゃない」
「ああ……」
「ずっと気になってたのよ」
エルはハープを抱え直す。
「あたしも歌で魔物を眠らせることはできるけど」
「ナタージャは歌ってないでしょ?」
ナタージャは少し目を細めた。
どこか面白そうに。
「気になるのかのぅ?」
「うん!」
即答だった。
ナタージャの口元が、僅かに緩む。
「ならば」
ゆっくりと片手を上げた。
「やってみせようか」
「え?」
その指先が。
エルへ向けられる。
次の瞬間。
「……あれ?」
エルの身体が、ぐらりと揺れた。
「エル?」
ラグナが声を上げる。
そのまま倒れそうになった身体を、ルミナスが慌てて抱き止めた。
「エル!」
返事はない。
ルミナスの腕の中。
エルは。
「すぅ……」
眠っていた。
「…………」
ラグナは固まる。
リオンも目を丸くしていた。
ほんの一瞬だった。
詠唱も。
歌も。
何もなかった。
ナタージャが指を向けただけ。
それだけで。
エルの意識は、深い眠りへ落ちていた。
「……寝た?」
ラグナが呟く。
「寝てるね……」
リオンが答える。
ルミナスは腕の中のエルと、ナタージャを交互に見る。
ナタージャは何事もなかったように微笑んでいた。
「よく眠っておるじゃろう?」
「いや、そういう問題か……?」
ラグナは思わず呟いた。
けれど。
その声とは裏腹に。
背中に、僅かな寒気が走っていた。
もし。
ナタージャが自分たちを敵だと判断していたなら。
もし。
彼女が本気で戦うつもりだったなら。
剣を抜くことすら。
できなかったのかもしれない。
五百年。
魔王として、この世界に存在し続けてきた者。
その意味を。
初めて、ほんの少しだけ理解した気がした。
――
「……やっぱり」
魔王城を出たラグナが、小さく呟く。
リオンが彼を見る。
「どうしたの?」
ラグナは歩きながら、背後を振り返った。
黒い巨城。
朝焼けの中に、その姿が浮かんでいる。
「あの魔王」
「たぶん、俺たちが思ってたよりずっと強ぇんだろうな」
リオンも振り返る。
「……うん」
もし。
あのまま魔王を倒すことだけを目的にしていたなら。
いつか自分たちは、ナタージャと戦っていたのだろうか。
剣を向け。
傷付け。
どちらかが倒れるまで。
そんな未来も、あったのかもしれない。
けれど。
もう、それは違う。
ラグナは前を向く。
朝の光が、少しずつ大地を照らしていた。
魔王を倒す。
ずっと、それが世界を救う方法なのだと思っていた。
けれど今は。
その目標がなくなった。
不思議だった。
何をすればいいのか分からなくなったはずなのに。
何もなくなったような気はしない。
むしろ。
これから探せばいいのだと思えた。
自分たちに何ができるのか。
何をすれば、この世界を少しでも変えられるのか。
ラグナは隣を歩く仲間たちを見る。
リオン。
ルミナス。
そして。
ルミナスの背中で、まだ気持ちよさそうに眠っているエル。
「……こいつ、いつ起きるんだ?」
「さあ……」
二人は顔を見合わせる。
そして。
小さく笑った。
ルミナスは振り返る。
魔王城。
黒い巨城は、朝焼けの中で静かに佇んでいた。
以前見た時よりも、少しだけ違って見える。
恐ろしい場所ではなく。
“託された場所”として。
王都へ戻った頃には、昼間になっていた。
ルミナスの背で眠っていたエルも、目を覚ましていつもと変わらない調子で歩いている。
王都は多くの人々の行き交う足音、笑い声が響いている。
ラグナは周囲を見ながら呟く。
「……なんか久しぶりな感じするな」
エルが笑う。
「魔王城が濃すぎたのよ」
「主に誰かさんのお陰でな」
「それはある」
リオンも苦笑した。
ルミナスは、静かに街を見ていた。
守りたい景色。
それが、ここにはあった。
宿へ戻る。
四人だけの部屋。
机の上には、ナタージャから受け取った世界地図。
その横には、黒銀色の紋章。
ランプの灯りに照らされ、鈍く輝いていた。
誰もしばらく喋らなかった。
静かな時間。
最初に口を開いたのはラグナだった。
「……正直」
椅子に深く座る。
「世界を変えるとか、まだよく分かんねぇ」
ルミナスが視線を向ける。
ラグナは頭を掻いた。
「でもさ」
少しだけ笑う。
「困ってる奴、放っとくのは嫌なんだよ」
単純だった。
けれど、ラグナらしい。
エルがふっと笑う。
「ほんと、そこだけは変わらないわね」
「なんだよそこだけって」
「考えるの苦手そうなとこ」
「さっきまで寝てたやつに言われたくねぇ!」
少しだけ、部屋の空気が軽くなる。
その後。
リオンが静かに口を開いた。
「……僕は、怖いよ」
ロザリオを握る手に力が入る。
「死霊たちに、また拒絶されるかもしれない」
「魔族を憎んでる人たちも、きっとたくさん居る」
声は小さい。
けれど、逃げてはいなかった。
「でも」
ゆっくり顔を上げる。
「助けたいんだ」
ルミナスは、その言葉を静かに聞いていた。
エルはハープを抱えながら苦笑する。
「あたし、人を説得するの苦手なのよね」
ラグナが即答する。
「歌えよ」
「便利に使いすぎじゃない?」
エルは呆れながらも笑った。
その笑顔は柔らかい。
少しずつ。
みんな、自分の役割を見つけ始めていた。
そして。
最後に。
ルミナスは、机の上の紋章を見る。
黒銀色の光。
その中には、ナタージャの願いが込められている気がした。
「……私は」
静かな声。
三人が彼女を見る。
「まだ、分かりません」
正直な言葉だった。
「本当に変えられるのか」
「争いを止められるのか」
「魔王でなくなる方法なんて、見つかるのか」
不安はある。
怖さもある。
ルミナスは、まだ完成された勇者じゃない。
その時。
ラグナが、あっさり言った。
「変えるんだろ?」
ルミナスが顔を上げる。
ラグナは真っ直ぐだった。
「だったら、やるしかねぇじゃん」
単純で。
乱暴で。
でも、その言葉は不思議と力があった。
ルミナスは小さく目を見開き――
それから、少しだけ笑った。
「……はい」
机の上には、世界地図。
そして、魔王の紋章。
その先には、まだ見ぬ世界が広がっている。
敵も。
味方も。
何一つ、決まっていない世界。
四人は、その地図を見つめる。
魔王を倒す旅は終わった。
だが。
世界を繋ぐ旅は、まだ始まったばかりだった。




