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第三話 初めて認められた力

2026.09.25 改訂しました。

挿絵(By みてみん)


 夕暮れの市場には、まだ人の声が溢れていた。


 店先から客を呼ぶ声。荷車の軋む音。焼きたてのパンを抱えて走る子どもたち。


 その人混みの端を、灰色の布をすっぽりと被った少年が歩いていた。


 胸に抱えているのは、パンと小さな包み。

 俯いたまま、行き交う人を避けるように進んでいる。


 向かいから来た女が、少年に気付いて足を止めた。

 連れていた子どもを、自分の側へ引き寄せる。


 少年は顔を上げなかった。

 抱えたパンを胸元へ寄せ、少しだけ歩く速度を上げる。


 ラグナは、その姿を目で追った。


 ぶつかりそうになったわけでもない。

 少年はただ、歩いていただけだった。


「……おい」


 声をかけると、少年の肩がびくりと跳ねた。


 布の奥から、緑の瞳がこちらを窺う。

 けれど目が合った途端、少年は一歩後ずさった。


「待て、別に——」


 言い終わる前に、駆け出していた。


 人の間をすり抜け、店と店の隙間へ入っていく。

 ラグナが路地を覗いたときには、もう姿はなかった。


「……そんなに怖がらなくてもいいだろ」


 誰もいない路地に、呟きだけが落ちた。


 声をかけた瞬間の、あの顔。

 何を言われるのか、初めから分かっているような怯え方だった。


 ラグナはしばらく路地の奥を見つめてから、市場へ戻った。


 その夜、食事に入った酒場で少年のことを尋ねると、店の男はすぐに顔をしかめた。


「ああ、灰色の布を被ったガキか」


「どこに住んでるか、知ってるか?」


「北の外れに、崩れた城があるだろ。あそこへ帰っていくのを見た奴がいる」


「城……?」


「死霊が出るっていう廃墟だよ。まともな奴は近付かねえ」


 男は声を落とした。


「あんなところに住んでるんだ。気味が悪いだろうが」


 ラグナは答えなかった。


 思い浮かんだのは、パンを胸に抱え直した少年の姿だった。


 翌朝。


 街を出て荒れた道を辿ると、木々の向こうに城が見えた。


 崩れた壁を蔦が覆い、折れた塔の先が空へ突き出している。

 道の石畳はところどころ土に埋まり、人が通った跡もまばらだった。


「……本当に、こんなところにいるのか」


 門へ近付いたラグナは、足を止めた。


 鎧を着た男がひとり、門の脇に寄りかかっていた。


 頭を垂れ、腕を力なく下げている。

 休んでいるようにも見えたが、胸は少しも上下していなかった。


 剣の柄へ手をかける。


 近付いても、男は顔を上げない。

 その輪郭だけが、朝の光の中で薄く揺らいでいた。


「……死霊の門衛か」


 ラグナは相手を見据えたまま、門へ足を進めた。


 一歩。

 もう一歩。


 すぐ横を通り過ぎても、男は動かなかった。


 柄に添えた手を緩め、門の内側へ入る。


 そのとき、奥で金属を引きずる音がした。


 崩れた柱の陰から、兵士が現れた。

 ひしゃげた鎧。錆びた剣。

 兜の奥に、生きた目の光はない。


 右の回廊からも、左の瓦礫の向こうからも。

 同じような姿が、次々とこちらを向く。


「……こっちは通してくれないか」


 最初の一体が、剣を振り上げた。


 ラグナは抜いた剣でそれを弾き、脇をすり抜ける。

 続けて突き出された槍をかわし、兵士の胴へ刃を打ち込んだ。


 相手の身体が崩れる。


 だが、足を止める間もなかった。

 背後で鎧が鳴る。振り返ると、倒したはずの兵士が、揺らぐ身体を起こしていた。


「おい、今ので倒れないのかよ……!」


 別の剣が迫る。

 身を屈めた頭のすぐ上を、錆びた刃が通り過ぎた。


 まともに相手をしていたら囲まれる。


 ラグナは兵士の肩を押し返し、空いた隙間へ駆け込んだ。


「おーい! 誰かいないか!」


 返事はない。

 追ってくる足音だけが、石の壁に響く。


 角を曲がり、倒れた柱を飛び越える。

 回廊を抜けた先で、視界が開けた。


 かつて庭園だったのだろう。

 枯れ草の間に細い道が残り、中央には縁の砕けた噴水があった。


 その前に、ひときわ大きな死霊が立っていた。


 他の兵士よりも厚い鎧。

 両手に握られた大剣は、ラグナの剣より一回りも大きい。


「……兵士長ってところか」


 巨体が、ゆっくりと向き直る。


 ラグナは息を整え、剣を構えた。


 次の瞬間、大剣が振り下ろされた。


 横へ跳ぶ。


 背後で凄まじい音がした。

 大剣のめり込んだ石畳にひびが走り、砕けた石が足元へ飛んでくる。


 ラグナは着地と同時に踏み込んだ。


 相手が剣を引き抜くより早く、その脇腹へ斬りつける。


 硬い手応え。

 刃は鎧の表面を裂き、深い傷を刻んだ。


 だが、兵士長は揺らぎもしなかった。


「……っ!」


 地面を離れた大剣が、そのまま横へ薙がれる。


 ラグナは身を低くしてかわした。

 頭上を抜ける風に、髪が煽られる。


 すぐに距離を取る。

 兵士長は、傷付いた鎧へ目を向けることさえなかった。


 痛みで動きが鈍ることもない。

 怯んで、隙を見せることも。


 巨体が一歩、前へ出る。


 ラグナは剣を握り直した。


 まともに受ければ、剣ごと押し潰される。

 避けて、打ち込むしかない。


 肩の動きを見る。

 大剣が持ち上がるのに合わせ、斜め前へ踏み出した。


 刃がすぐ後ろへ落ちる。

 振り向きざまに腕の鎧を斬りつけ、そのまま相手の横へ抜けた。


 今度も、確かに届いた。


 それでも兵士長は止まらない。

 剣を引き戻し、身体ごと向きを変える。


 ラグナは後ろへ跳んだ。


 息が荒い。

 ここまで走ってきた脚が、少しずつ重くなっていた。


 足元には、砕けた石と崩れた噴水の破片。

 踏める場所を探して視線を落とした、その一瞬だった。


 兵士長が踏み込んだ。


「——っ!」


 振り下ろされる刃から、身体を捻る。


 間に合わなかった。


 大剣の刃が右肩を捉えた。


 焼けるような痛みが走り、衝撃で身体が傾ぐ。

 右腕から力が抜けた。


 石畳に膝をつく。

 落としかけた剣を、左手で辛うじて支えた。


「ぐ……っ……」


 肩から流れた血が、袖を伝う。


 立たなければ。

 そう思うのに、脚が動かない。


 目の前に、兵士長の影が落ちた。


 大剣が、再び持ち上がる。


 避けられない。


 息を詰めた、そのとき。


 背中に、そっと何かが触れた。


 温かかった。


 強張っていた身体へ、その温もりがゆっくりと広がっていく。


 肩の痛みが薄れる。

 流れていた血が止まり、裂けた傷が目の前で塞がっていった。


「……え?」


 右手の指を動かす。


 動く。

 さっきまで腕を持ち上げることさえできなかったのに。


 ラグナは振り返った。


 灰色の布をすっぽりと被った少年が、すぐ後ろに膝をついていた。


 昨日、街で声をかけた少年だった。


 背中へ添えられているのは、その右手。

 左手は、首から下げたロザリオを握っている。


 指の隙間から、優しく温かな光がこぼれていた。


 布の奥に、自分より二つほど年下に見える顔が覗いていた。

 緑の瞳はラグナの肩と顔を行き来し、何かを尋ねたそうに揺れていた。


「お前……ヒーラーなのか?」


 少年の肩が、小さく強張る。


 ラグナは傷のあった場所へ手を当てた。


「もう痛くない。あんな傷が、一瞬で……」


 思わず、声が弾んだ。


「すごいな!」


 少年が目を見開いた。


「……え……?」


「お前が治してくれたんだろ? 助かった」


「あ……僕……」


 少年は口を開き、また閉じた。


 ロザリオを握る指が動く。

 何と答えていいのか分からないように、視線が落ちた。


 その向こうで、鎧が鳴った。


 兵士長は大剣を持ち上げたまま、こちらを見下ろしている。


 ラグナは剣を右手へ持ち替え、立ち上がった。


「下がってろ」


 少年を背に庇い、構え直す。


 けれど、踏み出そうとした足は、震えながらもはっきりとした声に止められた。


「待ってください……!」


 少年が立ち上がる。


「もう、戦わないでください。ここは……僕に任せてください」


「でも、こいつ——」


「大丈夫、です」


 声は震えていた。

 それでも少年は、ラグナの横を通り過ぎた。


 大剣の届くところへ、灰色の布に覆われた背中が進んでいく。


 ラグナは剣を握ったまま、その姿を見守った。


 少年が、兵士長を見上げる。


「この人は……悪い人じゃないんだ」


 先ほどまでとは違う、知っている相手に話しかける声だった。


「だから、お願い。もう戦わないで」


 大剣は、動かなかった。


 ラグナは息を止めたまま、兵士長の腕を見る。

 少しでも少年へ刃を向ければ、すぐに飛び出せるように。


 やがて、重い金属の擦れる音がした。


 持ち上げられていた大剣が、ゆっくりと下がっていく。


 刃は少年に触れることなく、鞘へ収まった。


 そして兵士長は、その場に片膝をついた。


「……」


 ラグナは、言葉を失った。


 何度斬りつけても止まらなかった相手が。

 鎧を傷付けられても、少しも怯まなかった相手が。


 今は少年の前で、静かに頭を垂れている。


 少年の肩から、力が抜けた。


「……ありがとう」


 兵士長へ小さく告げてから、おずおずと振り返る。


 ラグナは、ようやく剣を下ろした。


「……すごいな、お前」


 緑の瞳が揺れた。


「傷を治すだけじゃないんだな。俺がいくら剣を振っても止まらなかったのに……言葉が、通じるんだ」


「……でも、僕は……」


 少年はロザリオを胸元へ引き寄せた。


「戦え、ませんし……」


「でも、止めてくれただろ」


 ラグナは、自分の右肩に触れた。


「俺のことも助けてくれた」


 少年が顔を上げる。


 その目を見て、ラグナはもう一度言った。


「すごいよ、本当に」


 少年の口元が、くしゃりと歪んだ。


「……っ……」


 一粒、涙がこぼれた。


 少年は慌てて顔を伏せた。

 右手で目元を拭う。けれど、拭ったそばから次の涙が落ちてくる。


「あ……すみ、ません……」


「……おい、大丈夫か?」


「僕……ぼく……」


 その先は、言葉にならなかった。


 力を使うところを見られるのは、怖かった。


 顔をしかめられること。

 遠ざけられること。

 自分へ向けられる声が、冷たくなること。


 何かを言われる前に俯いて、離れることばかり覚えてきた。


 なのに、この人は。


 傷が治った肩を動かして、嬉しそうに。

 自分の目を見て、何度も。


 すごいと、言ってくれた。


 膝から力が抜けた。


 少年はその場にしゃがみ込み、ロザリオを握ったまま泣き出した。

 止めようとするほど息が詰まり、押し殺しきれない声が漏れた。


 ラグナは何かを言いかけて、口を閉じた。


 しばらく迷ってから、剣を鞘へ収める。


 そして、少年の隣に腰を下ろした。


 どうして泣くのかも。

 ここで何をしているのかも。


 今は、聞かなかった。


 ただ、少年が俯いたまま泣いている間、ラグナはずっと、その隣にいた。

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