第二話 旅立ちの日
26.8.8 改訂しました。
夜明け前の森は、あの夜と同じ静けさをまとっていた。
木々の間には薄い霧が漂い、東の空にはまだ僅かに夜の色が残っている。
風が吹く。
葉が擦れ合う。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
そして。
その静かな森の中を、一人の少年が歩いていた。
ラグナだった。
腰には剣。
足取りに迷いはない。
けれど、何も感じていないわけではなかった。
むしろ。
森の奥へ進むほど、あの夜の感覚が鮮明に蘇ってくる。
暗闇の中で光っていた目。
低い唸り声。地面を蹴る音。
そして。
剣を握っているのに、動かなかった自分の足。
「…………」
ラグナは剣の柄に触れた。
怖かった。
今まで感じたことがないほどに。
十年間。
剣を振り続けてきた。
自分なら戦えると思っていた。
それなのに、初めて魔物を前にしただけで身体は震えた。
逃げろと、頭の中で何度も何度も声がした。
それでも。
最後まで逃げなかった。
魔物を倒すことはできなかった。
浅い傷を与えただけ。
結局、魔物が森の奥へ逃げていくまで、決着らしい決着すらつかなかった。
それでも。
あの夜から、胸の中に一つだけ残っているものがあった。
確かめたい。
あの時、最後に動いた身体。
あれが偶然だったのか。
十年間振り続けてきた剣に、本当に意味があったのか。
そして何より。
もう一度魔物を前にしても。
自分は逃げずに立っていられるのか。
それを確かめたかった。
だから、再び森へ来た。
「……いた」
足を止める。
茂みの奥。
低い唸り声が聞こえた。
黒く濁った毛並み。
暗闇の中で光る目。
あの夜と同じ種類の魔物。
ラグナの心臓が、大きく跳ねた。
「……っ」
無意識に剣の柄を握る手へ力が入る。
怖い。
やはり、その感情は消えていなかった。
胸の奥がざわつく。
呼吸が少しだけ浅くなる。
身体のどこかで、逃げろという声が聞こえる。
けれど。
「……大丈夫」
ラグナは静かに剣を抜いた。
あの夜とは違う。
手は震えている。
それでも。
足は動く。
一歩。
前へ出た。
魔物が低く身体を沈める。
ラグナは剣を構えた。
その瞬間。
不思議なほど、頭の中が静かになった。
怖い。
でも見える。
魔物の前足。身体の傾き。
こちらを捉えている目。
地面を掻く爪。
次にどこへ来るのか。
あの夜は何も分からなかった。
ただ恐ろしくて。ただ必死で。
目の前で何が起きているのかすら、まともに理解できなかった。
でも今は。
見える。
魔物が地面を蹴った。
「……!」
速い。それでも。
身体は止まらなかった。
一歩。
横へ。
魔物の牙が、ラグナのすぐ横を通り過ぎる。
その瞬間。
身体が勝手に動いた。
足を踏み込む。腰を捻る。
剣を振る。
十年間。
何度も。
何度も。
繰り返してきた動き。
ただ剣を振っているだけだと思っていた。
誰にも教わっていないと思っていた。
それなのに。
その一連の動きは、不思議なほど滑らかだった。
剣が一閃する。
魔物とすれ違う。
ラグナはそのまま数歩進み。
止まった。
「…………」
静寂。
背後から音がしない。
ゆっくりと振り返る。
魔物が地面に崩れ落ちていた。
「……え?」
ラグナは目を見開いた。
動かない。
しばらく待っても。
魔物が立ち上がることはなかった。
「…………」
自分の剣を見る。
それから。
倒れている魔物を見る。
もう一度、剣を見る。
「……倒した?」
自分の口から出た言葉なのに、実感がなかった。
あの夜は。
一撃を当てるだけで精一杯だった。
地面を転がり。
何度も剣を弾かれ。
息ができなくなるほど怖かった。
それなのに。
今は。
一撃だった。
「…………」
ラグナは剣を握ったまま、自分の手を見る。
僅かに震えていた。
でも。
それはもう、恐怖だけによるものではなかった。
「……俺」
小さく息を吐く。
「ちゃんと動けたんだな」
その言葉とともに。
十年間ずっと胸の奥に溜まっていた何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
強くなった。
そう言い切れるほどの自信はない。
勇者と比べれば、きっとまだ遠い。
魔王なんて、本当に倒せるのかも分からない。
それでも、自分の剣は届いた。
選ばれなかった自分でも戦える。
その事実だけは。
今、目の前にあった。
ラグナは東の空を見上げる。
夜の色が薄れていた。
木々の隙間から、朝の光が差し込み始めている。
「…………よし」
剣を鞘へ収めた。
そして、村へ向かって歩き始めた。
村へ戻る頃には、空はすっかり明るくなり始めていた。
とはいえ、まだほとんどの家は眠っている。
道を歩く人影もない。
家々の煙突から煙が上がるには、少し早い時間だった。
ラグナは静かな村の中を歩いていく。
見慣れた道。
見慣れた家。
十年間ここで暮らしてきた。
何も覚えていなかった自分を、この村は受け入れてくれた。
気付けば、十八歳になっていた。
ラグナは歩きながら、先ほど倒した魔物のことを考える。
自分は戦える。
だったら。
「…………」
ずっと胸の奥にあったものが、再び顔を出す。
魔王を倒す。
いつからそう思っていたのかは分からない。
なぜそこまで魔王を倒したいのか。
聞かれても、きっと上手く答えられない。
勇者になりたかったから。
魔物が嫌いだから。
世界を平和にしたいから。
理由はいくらでも思いつく。
でも。
どれも、胸の奥にある感情を完全には説明してくれなかった。
ただ、行かなければならない。
そんな気がしていた。
「……行くか」
ラグナは呟いた。
ずっと考えていたことだった。
勇者にはなれなかった。
それでも、剣を振ることをやめなかった。
そして今日、初めて自分の力で魔物を倒した。
だったらここに留まっている理由はない。
ラグナは真っ直ぐ家へ向かった。
静かに扉を開ける。
家の中は薄暗かった。
当然、家主はまだ起きていない。
ラグナは音を立てないように扉を閉める。
その時、二階から。
「ぐごぉぉ……」
大きな寝息が聞こえてきた。
「…………」
ラグナは階段を見上げる。
少しして。
「ぐごぉぉぉ……」
再び響いた。
「……よく寝てんな」
小さく笑う。
起こそうとは思わなかった。
起こしたら、きっと止められる。
いや。
止められるだけならまだいい。
怒鳴られる。
間違いなく。
「…………」
ラグナはそっと自分の部屋へ向かった。
荷物は多くない。
着替え、水筒、保存の利く食べ物を少し。
最後に、棚の端へ置かれていた小さな箱へ手を伸ばした。
中に入っているのは、布と油、それから使い込んだ砥石。
剣の手入れに使うものだった。
何度も触れてきた。
剣を振った日の夜には、いつもこれを使っていた。
ラグナは砥石を手にしたまま、少しだけ動きを止める。
「…………」
旅へ出る。
そう決めた時には、何も迷わなかった。
なのに。
いつも使っていた道具を手にしただけで、急にこの家を離れることが現実になったような気がした。
少しだけ。
寂しい。
「……なんだよ、今さら」
小さく笑い、ラグナは砥石を荷物へ入れた。
ラグナは一階へ降りる。
机の上に紙を一枚置いた。
ペンを取る。
少し考える。
何を書けばいい。
世話になった。
ありがとう。
魔王を倒しに行く。
色々浮かんだ。
でも。
結局。
書いたのは一言だけだった。
『行ってくる』
「…………よし」
ペンを置く。
二階から。
「ぐごぉぉぉ……」
相変わらず大きな寝息。
ラグナは思わず笑った。
「……じゃあな」
聞こえるはずもない声で呟く。
そして。
家を出た。
村の外れへ向かう頃には、朝日が顔を出していた。
家々が橙色に染まり。
少しずつ、一日が始まろうとしている。
「ラグナ……?」
声をかけられた。
振り向く。
早起きの村人が、不思議そうにラグナを見ていた。
「そんな荷物持って、どこ行くんだ?」
「ああ」
ラグナは立ち止まる。
「ちょっと旅に」
「旅?」
村人は目を丸くする。
「お前が?」
「うん」
「どこへ?」
ラグナは少し考えた。
そして。
「魔王のところ」
「…………」
村人が固まった。
ラグナは首を傾げる。
「どうした?」
「いや、どうしたじゃなくて……」
村人は額へ手を当てた。
「お前……勇者じゃないだろ」
「ああ」
迷わず答える。
昔なら、その言葉を聞くだけで胸が痛んだ。
勇者になれなかった。
選ばれなかった。
自分には何もない。
ずっとそう思っていた。
でも、今は少し違う。
「俺、勇者にはなれなかった」
ラグナは自分の剣へ目を落とした。
「でも」
今朝のことを思い出す。
魔物が迫ってきた。
怖かった。
それでも足は動いた。
剣は届いた。
「戦えないわけじゃない」
村人は黙ってラグナを見る。
「だから行ってみる」
「行ってみるってお前……」
「大丈夫」
ラグナは笑った。
「無理だったら、その時考える」
「…………」
村人は何かを言おうとして。
結局、大きく息を吐いた。
「止めても行くんだろ」
「うん」
「……そうか」
それ以上、村人は何も言わなかった。
ラグナが再び歩き出そうとした時。
「死ぬなよ」
背中へ声が飛んできた。
ラグナは足を止める。
振り返らずに片手を上げた。
「分かってる」
そして歩き出す。
村の外へ。
その先へ続く道へ。
振り返らなかった。
十年間暮らした村。
自分を受け入れてくれた場所。
帰る場所。
それを背中に残して。
ラグナは一人で歩いていく。
勇者ではない。
特別な力もない。
旅の仕方すら、ろくに知らない。
魔王がどれほど強いのかも。
その道の先に何が待っているのかも。
何も知らない。
それでも剣だけは十年間、振り続けてきた。
そして。
恐怖の中でも、ようやくその剣を振るうことができた。
それだけを胸に。
ラグナは旅立った。
この時の彼は、まだ知らない。
一人で始めたこの旅が。
やがて多くの者と出会い。
人間と。
魔族と。
魔物と。
自分がこれまで知らなかった者たちと繋がっていくことを。
そして。
魔王を倒すために握っていたはずの剣の意味さえ、いつか変わっていくことを。
勇者になれなかった少年の旅は。
こうして、静かに始まった。




