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第一話 勇者になれなかった少年

26.8.8 改訂しました。

挿絵(By みてみん)


 夜の森は、まるで誰かの吐息すら飲み込んでしまったように静かだった。

 風が木々の葉を揺らす音。

 遠くから聞こえる虫の声。


 そして、自分自身の荒い呼吸。


 ラグナは剣を握りしめたまま、じっと前を睨んでいた。


 月明かりが枝葉の隙間からこぼれ落ち、赤い髪と足元を淡く照らしている。

 けれど、その光は彼の心の中までは届かない。


「……来いよ」


 小さく呟いた声は、僅かに震えていた。


 目の前には、一体の魔物。

 黒く濁った毛並み。

 低く構えた身体。


 暗闇の中で、二つの目だけがぎらりと光っている。

 喉の奥から響く唸り声が聞こえるたびに、剣を握る手に力が入った。


 怖い。


 その感情を自覚した瞬間、ラグナは奥歯を噛み締めた。


 村の外れに現れた魔物。

 放っておけば、いずれ誰かが襲われるかもしれない。


 だから、自分が来た。

 誰かに頼まれたわけではない。

 誰かに認められたわけでもない。


 自分なら戦えると思った。

 そのために、ずっと剣を振ってきたのだから。


 十年前から朝も、昼も、日が沈んでからも。


 来る日も来る日も剣を振った。

 初めはまともに振ることすらできなかった剣が、いつしか手の延長のように感じられるようになった。


 足の運び方、腰の落とし方、そして剣を振る軌道。

 誰かに教えられなくても、不思議と身体が知っていた。


 なぜ知っているのかは分からない。

 なぜそこまで剣を振り続けてきたのかも、上手く説明できない。


 ただ。


 剣を置いてはいけないような気がした。

 もっと強くならなければならない。

 ずっと、そんな感覚だけが胸の奥にあった。


 だから十年間、剣を振り続けた。

 そして十八歳になった今。

 初めて、本物の魔物を前にしている。


 なのに。


「……なんでだよ」


 ラグナは小さく呟いた。


 手が震える。

 足が動かない。

 何度も繰り返してきたはずの構えすら、今は酷く頼りないものに思えた。


 相手が木でも、藁でもない。

 自分を殺そうとしている。

 それだけで、今まで積み重ねてきたものが全部消えてしまったようだった。


 けれど。


 それだけではない。

 何かが、おかしい。


 ただ怖いだけではない。


 魔物の唸り声を聞くたびに。

 暗闇の中で光る目を見るたびに。


 胸の奥がざわつく。


 知らないはずなのに。

 初めてのはずなのに。


 身体の奥底から、何かが叫んでいる。


 逃げろ。


 ここにいてはいけない。


 早く。


 逃げろ。


「……っ」


 息が苦しい。

 理由は分からない。

 けれど、どうしようもなく怖かった。


 その時、魔物が地面を蹴った。


「……!」


 速い。


 ラグナは反射的に剣を振るう。

 けれど軌道は甘い。


 刃は虚しく空を裂いた。


 次の瞬間強い衝撃が身体を襲った。


「ぐっ……!」


 地面へ投げ出される。

 背中を強く打ち、肺から一気に空気が抜けた。

 剣が手から離れ、少し先の地面へ転がっていく。


「っ……は……」


 息ができない。

 身体が動かない。


 魔物の唸り声が近付いてくる。


 ラグナは地面に手をついた。


 立たなければ。

 剣を拾わなければ。


 頭では分かっている。

 それなのに、足が震えていた。


 恐怖が、骨の奥まで染み込んでいる。


 逃げろ。


 また、頭の中で声がする。


 勝てない。

 無理だ。

 逃げろ。


 逃げてしまえ。


「…………」


 ラグナは地面を見つめた。


 情けない。

 あまりにも。


 十年間。


 ずっと剣を振ってきた。

 何度手の皮が剥けても、腕が上がらなくなっても。

 何度転んでもやめなかった。



 勇者になりたかった。


 この世界では、子どもたちは一度、神殿へ連れて行かれる。

 勇者の素質を持つ者は、そこで“光”に選ばれる。


 ラグナも例外ではなかった。

 自分なら、ずっと剣を振ってきた自分なら。


 そう思っていた。


 けれど何も起こらなかった。

 光は、ラグナを素通りした。


 勇者にはなれなかった。


 それでも剣を捨てなかった。

 選ばれないなら、自分で強くなればいい。

 そう思ってまた剣を振った。


 なのに初めて魔物を前にしただけで、この有様だった。


 勇者ならこんな魔物など、一瞬で倒してしまうのだろう。


 自分には、その力がない。

 特別なものなんて、何もない。


 それでも。


「……嫌だ」


 ぽつりと声が漏れた。

 魔物が迫ってくる。

 ラグナは震える手を地面につき、身体を起こした。


「嫌だ」


 もう一度。

 今度は、はっきりと口にする。


 ここで逃げたら何も残らない。


 勇者になれなかった。

 強くもない。

 特別でもない。


 そんな自分が、さらに逃げるだけの存在になったら。

 本当に何もなくなってしまう。


 何より。


 なぜだろう。


 逃げてはいけないと、胸の奥で何かが叫んでいる。


 今度こそ。


 そんな言葉が、一瞬だけ頭を過ぎった。


「……今度?」


 自分で口にして、眉を寄せる。


 意味が分からない。


 けれど考えている暇はなかった。

 魔物が飛び掛かってくる。


 ラグナは転がるように地面を蹴った。

 牙が、すぐ横を通り過ぎる。


「……!」


 避けた。


 自分でも驚いた。

 考えて動いたわけではない。


 身体が勝手に動いた。

 ラグナは剣へ手を伸ばし柄を掴む。


 立ち上がる。


 そして構えた。


 その瞬間。

 不思議な感覚があった。

 さっきまであれほど頼りなかった剣が、今度は妙に手に馴染んでいる。


 魔物がこちらを向く。


 低く唸る。


 怖い。

 まだ怖い。

 恐怖が消えたわけじゃない。


 それでも。


 今度は、剣を握る手を離さなかった。


 魔物が地を蹴る。


 ラグナはその動きを見つめる。


 どう避けるか頭で考えるより先に、足が動いた。


 一歩、横へ。


 魔物の牙が空を切る。


 ラグナは踏み込んだ。


「……っ!」


 剣を振る。

 鈍い手応えが、腕へ伝わった。


 魔物の肩口に、浅い傷が走る。


「当たった…!」


 ラグナは目を見開いた。


 十年間。


 何度も何度も繰り返した動き。

 それが初めて、生きた相手へ届いた。


 けれど魔物は倒れない。

 むしろ怒りに燃え、先ほどより激しく唸り声を上げた。


「……まだか」


 ラグナは剣を構え直す。


 怖い。

 逃げたい。

 それは変わらない。


 けれど、もう足は止まっていなかった。


 魔物が迫る。

 剣を振る。


 防ぐ。

 弾かれる。


 かわす。

 転ぶ。

 また立つ。


 何度も、何度も。


 月明かりの下で、ラグナは剣を振り続けた。


 まだ未熟だった。

 実戦の経験などない。

 魔物を倒すには届かない。


 それでも。


「……俺、まだやれる」


 荒い息の合間に呟く。


 不思議だった。


 少し前まで、足が動かなかった。

 なのに、今は魔物の動きが少しずつ見えるようになっている。


 身体が思い出していく。

 ずっと知っていた何かを、ラグナ自身の知らない何かを。


 勇者じゃなくても。

 選ばれなくても。

 怖くても。


 この一歩だけは、自分で踏み出せる。


「来いよ」


 今度の声は。

 もう、震えていなかった。


 森の静寂は消えていた。


 剣が空気を裂く音。

 魔物の唸り声。

 地面を蹴る足音。


 ラグナの荒い呼吸。


 それらが夜の森に響いていく。


 月だけが、変わらず淡い光を降らせていた。


 その下で。


 勇者になれなかった少年は、初めて本当の恐怖と向き合っていた。


 魔物を倒したわけではない。

 英雄になったわけでもない。


 ただ、逃げなかった。

 それだけだった。


 けれど。


 ラグナ自身もまだ知らない。

 その小さな一歩が。


 十年前。

 彼が失った記憶の、その先へと続いていることを。


 そして。


 剣を振り続けた十年間の意味を、いつか彼自身が知る日が来ることを。


 今はまだ、誰も知らなかった。

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