第一話 勇者になれなかった少年
夜の森は、まるで誰かの吐息みたいに静かだった。
ラグナは剣を握りしめたまま、じっと前を睨んでいる。月明かりが枝葉の隙間からこぼれ落ち、彼の足元を淡く照らしていた。けれどその光は、彼の心の中までは届かない。
「……来いよ」
小さく呟く声は、震えていた。
目の前には、低く唸る魔物が一体。毛並みは黒く濁り、目だけがぎらりと光る。村の外れに現れたそれを討つのが、今夜の役目だった。
本来なら、勇者がやる仕事だ。
ラグナは歯を食いしばる。
——自分は勇者になれなかった。
村の子供たちは皆、一度は神殿へ連れて行かれる。勇者の素質を持つ者は、そこで“光”に選ばれるのだ。ラグナも例外ではなかった。胸を躍らせて神殿に入り、そして——何も起きなかった。
光は、彼を素通りした。
その日からだ。「なれなかった者」という烙印が、彼の中に静かに刻まれたのは。
「……っ!」
魔物が地を蹴る。
ラグナは反射的に剣を振るった。けれど軌道は甘く、刃は空を裂くだけ。次の瞬間、衝撃が身体を弾き飛ばした。
地面に転がり、肺から空気が抜ける。
「ぐっ……!」
情けない。あまりにも。
勇者なら、こんな敵、一瞬で斬り伏せている。
ラグナは立ち上がろうとして、膝をついた。足が震えている。恐怖が、骨の奥にまで染み込んでいる。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
でも。
「……嫌だ」
声に出していた。
逃げたら、何も残らない。
勇者になれなかった。強くもない。特別でもない。そんな自分が、さらに逃げるだけの存在になったら——本当に空っぽだ。
魔物が再び迫る。
ラグナは剣を構えた。腕は重く、呼吸は乱れている。それでも、目だけは逸らさない。
「俺は……!」
言葉が途切れる。
何者なのか、わからないからだ。
勇者じゃない。英雄でもない。じゃあ、自分は何だ?
その答えを持たないまま、彼はただ剣を握る。
魔物の牙が迫る。
——その瞬間だった。
ラグナの身体が、わずかに横へとずれた。
自分でも意図していない動きだった。だが結果として、牙は空を切る。間合いが一瞬だけ、開いた。
「……え?」
考えるより先に、身体が動く。
ラグナは踏み込んだ。ぎこちないが、それでも一直線に。剣を振り下ろす。
鈍い手応え。
魔物の肩口に、浅い傷が走る。
「当たっ……た……?」
信じられないという顔のまま、ラグナは息を呑む。
だが魔物は倒れない。むしろ怒りに燃え、さらに激しく襲いかかってくる。
ラグナは必死に剣を振るう。防ぎ、かわし、時に弾かれながら。それでも——今度はさっきよりも、ほんの少しだけ動きが見える。
恐怖は消えていない。
けれど、その中に、奇妙な感覚が混ざり始めていた。
「……俺、まだやれる」
誰に言うでもなく、そう呟く。
勇者じゃなくても。
選ばれなくても。
この一歩は、自分で踏み出せる。
ラグナは歯を食いしばり、再び踏み込んだ。
森の静寂はもうない。金属のぶつかる音と、荒い呼吸が夜を裂く。それでも月は変わらず、ただ淡々と光を降らせている。
その下で。
勇者になれなかった少年は、初めて自分の意志で戦っていた。
まだ未熟で、弱くて、みっともない。
けれど確かに——逃げなかった。
その事実だけが、小さな火のように胸に灯る。
やがてその火が、何になるのかは、まだ誰も知らない。




