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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第三章 ルミナスの旅路
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第三十六話 守れなかった門、残された言葉

 崩れた城の空気は、どこか重たいままだった。


 リオンの語った過去は、部屋の隅に沈殿するように残っている。誰もすぐには動けなかった。言葉にすれば崩れてしまいそうで、沈黙がそれを守っているみたいだった。


 やがて、ルミナスが静かに口を開く。


「……あなたのご両親について、もう少し聞いてもよろしいですか」


 その問いはやわらかいが、逃げ場はない。


 リオンは少しだけ視線を揺らし、それから小さく息を吐いた。


「……うん」


 床に落ちた光の筋を見つめながら、ぽつりと続ける。


「父さんは……あのあと、どこに行ったのか分からない」


「魔王を倒すって言って、出て行ったまま」


 ラグナが低く問う。


「魔王城に行った時、聞かなかったよな?」


「そうだね」


 リオンはすぐに頷いた。


「でもやっぱり……」


 言葉が、途切れる。


「怖くて」


「直接、魔王には聞けなかった」


 静かに落ちたその一言は、決して弱さではなかった。


 むしろ、当たり前の恐怖だった。


 あの場所に立ち、あの存在を前にして、なお踏み出せる者がどれほどいるだろうか。


 ルミナスは何も言わない。ただ、理解するように目を伏せる。


「……母さんは」


 リオンの声が、少しだけ震えた。


 空気が変わる。


「父さんが城を落とすって言った時、止めたんだ」


 


 あの日。


 まだ温もりの残る城の外で。


 男が語る。


『ここを落とす』


 その言葉に、女は即座に首を振った。


『やめて』


 はっきりとした声。


 迷いはない。


『それは違う』


 男の眉が動く。


『何が違う』


『これは救いじゃない』


 女は一歩も引かない。


『あなたがやろうとしてるのは、ただの殺しよ』


 空気が張り詰める。


 リオンは、その後ろで震えていた。


 男の目が、ゆっくりと細くなる。


『……魔王に誑かされている』


 低く吐き捨てる。


『みんな、そうだ』


『違う!』


 女の声が響く。


『あなたが変わってしまったの!』


 その言葉が、刃のように突き刺さる。


 一瞬の沈黙。


 そして――


 男の手が、動いた。


 


「……母さんは、死霊にならなかった」


 リオンの声が、現在に戻る。


 とても静かに。


「……なんでだと思う?」


 誰にともなく投げられた問い。


 ラグナは答えない。


 エルも、ただ見つめている。


 ルミナスが、わずかに首を傾ける。


 リオンは、少しだけ笑った。


「たぶん……逃げなかったから」


「最後まで、自分の考えを……父さんにぶつけたから」


 その笑みは、誇らしさと寂しさが混ざっていた。


「だから、ちゃんと“終われた”んだと思う」


 風が、壊れた窓を抜ける。


 どこかで、遠い音が鳴る。


「……僕は」


 リオンは、ゆっくりと立ち上がった。


「それでも、助けたいって思った」


「母さんみたいに」


 短い言葉。


 けれど、その中にすべてが詰まっている。


 ラグナは何も言わず、ただ頷いた。


 エルは目を伏せ、小さくハープの弦を撫でる。


 ルミナスは、まっすぐにリオンを見る。


「……あなたの選択は」


 静かに告げる。


「きっと、多くのものを救います」


 リオンは少し驚いたように目を瞬かせて、


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


 その夜。


 城は静まり返っていた。


 眠りについた三人の中で。


 一人だけ、起きている影があった。


 ラグナだ。


 軋む床を踏みながら、外へ出る。


 冷たい夜気が、頬を撫でた。


 門へと続く道。


 そこには、あの死霊がいる。


 大剣を傍らに、座り込んだままの男。


 ラグナは足を止める。


「……あんた」


 声をかける。


 死霊は、ゆっくりと顔を上げた。


『……来たか』


 低い声。


 ラグナは腕を組む。


「聞きたいことがある」


『分かっている』


 わずかに目を細める。


『あの日のことだろう』


 夜風が、二人の間を抜ける。


 ラグナは頷いた。


 死霊は、ゆっくりと語り始める。


『……あの日、俺は分かっていた』


「何をだ?」


『危険が迫っていることを、だ』


 門の外を見つめる。


『だが……何が来るのかまでは分からなかった』


『魔族か、魔物か……それだけを警戒していた』


 自嘲するように笑う。


『滑稽な話だ』


『もっとも警戒すべきものを、見誤った』


 ラグナは黙って聞く。


『そこへ……一人の旅人が来た』


 記憶を辿るように、ゆっくりと。


『灰色の布を被った男だ』


 リオンの父。


 ラグナの拳が、わずかに握られる。


『俺は言った』


『今日は危ない、城から離れろと』


 その時。


 何の疑いもなかった。


『だが、あの男は……』


 死霊の声が、少しだけ低くなる。


『地図を手に、近づいてきた』


「地図……?」


『ああ』


 頷く。


『何かを確かめるように』


 一歩。


 また一歩。


『油断した』


 短い言葉。


 それで十分だった。


『次の瞬間には、胸に刃があった』


 ラグナの視線が鋭くなる。


『……動けなかった』


『声も、出なかった』


 淡々とした語り。


 だからこそ、重い。


『そのまま、意識を奪われ』


『気づいた時には――』


 門の奥を見る。


『俺は“こちら側”にいた』


 死霊として。


『そして見た』


 声が、かすかに揺れる。


『無数の死霊が、城へなだれ込むのを』


 止められなかった。


 ただ、見ているしかなかった。


『……あの日からだ』


 ゆっくりと、腰を下ろし直す。


『俺はここにいる』


 門の石に手を置く。


『守れなかった門を』


 その言葉には、後悔が染みついていた。


 ラグナはしばらく黙っていた。


 夜の音だけが流れる。


 やがて、口を開く。


「……あんたさ」


 死霊が顔を上げる。


「まだ、守ってるんだな」


 その言葉に、死霊は一瞬だけ目を見開き――


 それから、小さく笑った。


『……ああ』


『今度こそ、な』


 短い肯定。


 だが、それは確かな意志だった。


 ラグナは、ふっと息を吐く。


「なら、いい」


 それ以上は言わない。


 剣に手を置き、背を向ける。


 門の死霊は、その背中を見送る。


 夜の城に、静かな約束がひとつ増えた。


 守れなかった過去の上に。


 それでも、立ち続ける者たちの物語が。

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