第三十六話 守れなかった門、残された言葉
崩れた城の空気は、どこか重たいままだった。
リオンの語った過去は、部屋の隅に沈殿するように残っている。誰もすぐには動けなかった。言葉にすれば崩れてしまいそうで、沈黙がそれを守っているみたいだった。
やがて、ルミナスが静かに口を開く。
「……あなたのご両親について、もう少し聞いてもよろしいですか」
その問いはやわらかいが、逃げ場はない。
リオンは少しだけ視線を揺らし、それから小さく息を吐いた。
「……うん」
床に落ちた光の筋を見つめながら、ぽつりと続ける。
「父さんは……あのあと、どこに行ったのか分からない」
「魔王を倒すって言って、出て行ったまま」
ラグナが低く問う。
「魔王城に行った時、聞かなかったよな?」
「そうだね」
リオンはすぐに頷いた。
「でもやっぱり……」
言葉が、途切れる。
「怖くて」
「直接、魔王には聞けなかった」
静かに落ちたその一言は、決して弱さではなかった。
むしろ、当たり前の恐怖だった。
あの場所に立ち、あの存在を前にして、なお踏み出せる者がどれほどいるだろうか。
ルミナスは何も言わない。ただ、理解するように目を伏せる。
「……母さんは」
リオンの声が、少しだけ震えた。
空気が変わる。
「父さんが城を落とすって言った時、止めたんだ」
あの日。
まだ温もりの残る城の外で。
男が語る。
『ここを落とす』
その言葉に、女は即座に首を振った。
『やめて』
はっきりとした声。
迷いはない。
『それは違う』
男の眉が動く。
『何が違う』
『これは救いじゃない』
女は一歩も引かない。
『あなたがやろうとしてるのは、ただの殺しよ』
空気が張り詰める。
リオンは、その後ろで震えていた。
男の目が、ゆっくりと細くなる。
『……魔王に誑かされている』
低く吐き捨てる。
『みんな、そうだ』
『違う!』
女の声が響く。
『あなたが変わってしまったの!』
その言葉が、刃のように突き刺さる。
一瞬の沈黙。
そして――
男の手が、動いた。
「……母さんは、死霊にならなかった」
リオンの声が、現在に戻る。
とても静かに。
「……なんでだと思う?」
誰にともなく投げられた問い。
ラグナは答えない。
エルも、ただ見つめている。
ルミナスが、わずかに首を傾ける。
リオンは、少しだけ笑った。
「たぶん……逃げなかったから」
「最後まで、自分の考えを……父さんにぶつけたから」
その笑みは、誇らしさと寂しさが混ざっていた。
「だから、ちゃんと“終われた”んだと思う」
風が、壊れた窓を抜ける。
どこかで、遠い音が鳴る。
「……僕は」
リオンは、ゆっくりと立ち上がった。
「それでも、助けたいって思った」
「母さんみたいに」
短い言葉。
けれど、その中にすべてが詰まっている。
ラグナは何も言わず、ただ頷いた。
エルは目を伏せ、小さくハープの弦を撫でる。
ルミナスは、まっすぐにリオンを見る。
「……あなたの選択は」
静かに告げる。
「きっと、多くのものを救います」
リオンは少し驚いたように目を瞬かせて、
それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その夜。
城は静まり返っていた。
眠りについた三人の中で。
一人だけ、起きている影があった。
ラグナだ。
軋む床を踏みながら、外へ出る。
冷たい夜気が、頬を撫でた。
門へと続く道。
そこには、あの死霊がいる。
大剣を傍らに、座り込んだままの男。
ラグナは足を止める。
「……あんた」
声をかける。
死霊は、ゆっくりと顔を上げた。
『……来たか』
低い声。
ラグナは腕を組む。
「聞きたいことがある」
『分かっている』
わずかに目を細める。
『あの日のことだろう』
夜風が、二人の間を抜ける。
ラグナは頷いた。
死霊は、ゆっくりと語り始める。
『……あの日、俺は分かっていた』
「何をだ?」
『危険が迫っていることを、だ』
門の外を見つめる。
『だが……何が来るのかまでは分からなかった』
『魔族か、魔物か……それだけを警戒していた』
自嘲するように笑う。
『滑稽な話だ』
『もっとも警戒すべきものを、見誤った』
ラグナは黙って聞く。
『そこへ……一人の旅人が来た』
記憶を辿るように、ゆっくりと。
『灰色の布を被った男だ』
リオンの父。
ラグナの拳が、わずかに握られる。
『俺は言った』
『今日は危ない、城から離れろと』
その時。
何の疑いもなかった。
『だが、あの男は……』
死霊の声が、少しだけ低くなる。
『地図を手に、近づいてきた』
「地図……?」
『ああ』
頷く。
『何かを確かめるように』
一歩。
また一歩。
『油断した』
短い言葉。
それで十分だった。
『次の瞬間には、胸に刃があった』
ラグナの視線が鋭くなる。
『……動けなかった』
『声も、出なかった』
淡々とした語り。
だからこそ、重い。
『そのまま、意識を奪われ』
『気づいた時には――』
門の奥を見る。
『俺は“こちら側”にいた』
死霊として。
『そして見た』
声が、かすかに揺れる。
『無数の死霊が、城へなだれ込むのを』
止められなかった。
ただ、見ているしかなかった。
『……あの日からだ』
ゆっくりと、腰を下ろし直す。
『俺はここにいる』
門の石に手を置く。
『守れなかった門を』
その言葉には、後悔が染みついていた。
ラグナはしばらく黙っていた。
夜の音だけが流れる。
やがて、口を開く。
「……あんたさ」
死霊が顔を上げる。
「まだ、守ってるんだな」
その言葉に、死霊は一瞬だけ目を見開き――
それから、小さく笑った。
『……ああ』
『今度こそ、な』
短い肯定。
だが、それは確かな意志だった。
ラグナは、ふっと息を吐く。
「なら、いい」
それ以上は言わない。
剣に手を置き、背を向ける。
門の死霊は、その背中を見送る。
夜の城に、静かな約束がひとつ増えた。
守れなかった過去の上に。
それでも、立ち続ける者たちの物語が。




