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勇者になれなくても世界を救う  作者: 久瑠美 雷華
第三章 ルミナスの旅路
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第三十一話 水面に映るもの

 挿絵(By みてみん)


 夜は、焚き火の温もりを静かに置き去りにしていった。


 ぱちぱちと鳴っていた音も、今はもう小さく、やがて灰に変わるだけ。


 ラグナたちは眠っていた。


 エルはハープを抱えたまま、穏やかな寝息を立てている。リオンは少し丸くなって、どこか安心した表情で眠りについていた。ルミナスは背筋を伸ばしたまま、まるで目を閉じた人形のように静かだ。


 その円から、ひとつだけ影が離れていた。


 ルナだった。


 足音を忍ばせるように、森の奥へと歩く。


 辿り着いたのは、小さな池。


 月が水面に落ちて、揺れている。


 ルナはそのほとりに座り、膝を抱えた。


「……」


 何も言わない。


 ただ、水面を見る。


 揺れる月は、形を保てないまま、崩れては戻る。


 そのとき。


「……起きてたのか」


 背後から、低い声。


 ルナは振り返らない。


「……うん」


 ラグナだった。


 特に隠す様子もなく、歩いてくる。


 草を踏む音も、そのまま。


「寝れねぇのか」


「ちょっとだけ」


 ラグナは、ルナの少し横に腰を下ろした。


 間に、無理のない距離。


 沈黙が落ちる。


 だが、それは気まずさではなかった。


 水面の揺れを、二人で眺めるような時間。


 やがて、ラグナが口を開く。


「……さっきの話」


 ルナの肩が、ほんの少しだけ動く。


「逃げたやつ」


「ああ」


 ルナは、少しだけ息を吐いた。


「……気になる?」


「まぁな」


 ラグナは短く答える。


「途中で止まってたしな」


 ルナは、少しだけ考えるように視線を落とした。


 それから、ぽつりと続ける。


「……魔族のほうはね」


 指先で、水面近くの草をなぞる。


「村長の娘だったの」


 ラグナの眉が、わずかに動く。


「へぇ」


「名前は……」


 ほんの一瞬、間があった。


 大事にするように、言葉を選ぶ。


「フィリア」


 静かな名前だった。


 夜の水みたいに、波紋だけを残す。


「……フィリアか」


 ラグナは一度、繰り返す。


 その音を、確かめるように。


「覚えやすいな」


「……覚えるの?」


 ルナが少しだけ意外そうに言う。


 ラグナは肩をすくめた。


「聞いたからな」


 それだけ。


 深くも浅くもない、ただの事実みたいに。


 けれど――


「覚えとく」


 その一言は、妙に重さがあった。


 ルナは、少しだけ目を細める。


「……変なの」


「また言ったな」


 小さく笑いが落ちる。


 それきり、その話は続かなかった。


 フィリアという名前は、夜の中に静かに沈んでいく。


 代わりに、ラグナが空を見上げた。


 木々の隙間から、わずかに星が覗く。


「……ここさ」


 ぽつりと呟く。


「普通に入れたよな」


 ルナが頷く。


「うん」


「でも、昼に言ってたろ。魔族の森って、隠れてるって」


 ラグナの視線は空のまま。


「どうやって隠してんだ?」


 ルナは、水面から目を離さずに答えた。


「……結界」


 その一言は、静かに沈む。


「魔王様が張ってるの」


 ラグナが少しだけ眉を上げる。


「ナタージャが?」


「うん」


 ルナは頷く。


「魔族が一緒じゃないと、入れない」


「……へぇ」


 ラグナは短く息を吐く。


「じゃあ俺らが入れたのは、お前がいたからか」


「そう」


 シンプルな仕組み。


 だが、その意味は重い。


 ルナは続ける。


「ここだけじゃないよ」


「他にもある」


 ラグナが視線を戻す。


「どこだ?」


 ルナは、指で地面に簡単な図を描く。


 魔王城を中心に、三つの点。


 南、東、西。


「守り、ってわけじゃなさそうだな」


「うん」


 ルナは小さく頷く。


「隠すため」


 指先で、その三点をゆっくり円でなぞる。


「この三つの結界で囲まれた内側……」


 円が閉じる。


「ここを、“ナタージャ領”って呼んでる」


 ラグナの視線が、わずかに鋭くなる。


「……領地、か」


「うん。魔王様のいる場所だから」


 ルナは、円の内側を軽く叩くように指で触れた。


「ここね……」


 少しだけ、声の調子が変わる。


「魔王様の目が、届く範囲なんだって」


 ラグナの眉が動く。


「目?」


「うん」


 ルナはうなずく。


「領内で起きてること……ほとんど、分かるらしい」


 焚き火の残り火が、遠くで小さく弾けた気がした。


 ラグナは、しばらく何も言わない。


 そのまま、図の円を見つめる。


 ――思い出す。


 魔王城。


 開いていた門。


 眠らされていた魔族たち。


 そして。


 “よくぞここまで辿り着いたな”と、当たり前のように言った女。


「……ああ」


 小さく、息が落ちる。


「だからか」


 ルナが視線を上げる。


「……何が?」


 ラグナは肩をすくめる。


「いや」


 少しだけ笑う。


「最初から、来るの知ってた顔してたからよ」


「……魔王様が?」


「おう」


 ラグナは短く頷く。


「不思議でもなんでもなかったってわけだ」


 納得、というより。


 腑に落ちた、という響き。


 ルナは少しだけ驚いた顔をしてから、小さく息を吐いた。


「……やっぱり、そうなんだ」


 確かめるような声だった。


 ラグナはそれ以上深く語らない。


 ただ、図に視線を戻す。


 ルナはそこから、さらに外側へ線を伸ばす。


 円の外。


 東と西を、一本の線で区切る。


「外はね……こうやって分かれてる」


 そして、その線の上下を指差す。


「南と北で、それぞれ別の領地」


 ラグナがしゃがみ込み、同じ図をなぞる。


「……魔族が治めてるのか?」


「うん……たぶん」


 ルナの声は、少しだけ曖昧だった。


「詳しくは、知らない」


「村の外のことは……あんまり」


 ラグナはそれ以上は聞かなかった。


「……なるほどな」


 短く、それだけ言う。


 だがその目は、しっかりとその配置を焼き付けている。


 ナタージャ領。


 その外に広がる、まだ見ぬ領域。


 そして――


 その内側を見渡す、魔王の“目”。


 ルナは図を指で軽く崩した。


 土の線が消える。


 夜の中に、すべてが溶ける。


「……だから」


 ぽつりと続ける。


「外に出るの、あんまりよく思われてない」


「危ねぇからな」


 ラグナが即答する。


「……うん」


 ルナは頷く。


 二人は立ち上がる。


 焚き火の残り火が、遠くでかすかに揺れている。


 背後で、水面がひとつ波打った。


 まるで、見られていたみたいに。


 ――けれど、振り返る者はいなかった。


 月は、まだそこにあった。

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