第三十一話 水面に映るもの
夜は、焚き火の温もりを静かに置き去りにしていった。
ぱちぱちと鳴っていた音も、今はもう小さく、やがて灰に変わるだけ。
ラグナたちは眠っていた。
エルはハープを抱えたまま、穏やかな寝息を立てている。リオンは少し丸くなって、どこか安心した表情で眠りについていた。ルミナスは背筋を伸ばしたまま、まるで目を閉じた人形のように静かだ。
その円から、ひとつだけ影が離れていた。
ルナだった。
足音を忍ばせるように、森の奥へと歩く。
辿り着いたのは、小さな池。
月が水面に落ちて、揺れている。
ルナはそのほとりに座り、膝を抱えた。
「……」
何も言わない。
ただ、水面を見る。
揺れる月は、形を保てないまま、崩れては戻る。
そのとき。
「……起きてたのか」
背後から、低い声。
ルナは振り返らない。
「……うん」
ラグナだった。
特に隠す様子もなく、歩いてくる。
草を踏む音も、そのまま。
「寝れねぇのか」
「ちょっとだけ」
ラグナは、ルナの少し横に腰を下ろした。
間に、無理のない距離。
沈黙が落ちる。
だが、それは気まずさではなかった。
水面の揺れを、二人で眺めるような時間。
やがて、ラグナが口を開く。
「……さっきの話」
ルナの肩が、ほんの少しだけ動く。
「逃げたやつ」
「ああ」
ルナは、少しだけ息を吐いた。
「……気になる?」
「まぁな」
ラグナは短く答える。
「途中で止まってたしな」
ルナは、少しだけ考えるように視線を落とした。
それから、ぽつりと続ける。
「……魔族のほうはね」
指先で、水面近くの草をなぞる。
「村長の娘だったの」
ラグナの眉が、わずかに動く。
「へぇ」
「名前は……」
ほんの一瞬、間があった。
大事にするように、言葉を選ぶ。
「フィリア」
静かな名前だった。
夜の水みたいに、波紋だけを残す。
「……フィリアか」
ラグナは一度、繰り返す。
その音を、確かめるように。
「覚えやすいな」
「……覚えるの?」
ルナが少しだけ意外そうに言う。
ラグナは肩をすくめた。
「聞いたからな」
それだけ。
深くも浅くもない、ただの事実みたいに。
けれど――
「覚えとく」
その一言は、妙に重さがあった。
ルナは、少しだけ目を細める。
「……変なの」
「また言ったな」
小さく笑いが落ちる。
それきり、その話は続かなかった。
フィリアという名前は、夜の中に静かに沈んでいく。
代わりに、ラグナが空を見上げた。
木々の隙間から、わずかに星が覗く。
「……ここさ」
ぽつりと呟く。
「普通に入れたよな」
ルナが頷く。
「うん」
「でも、昼に言ってたろ。魔族の森って、隠れてるって」
ラグナの視線は空のまま。
「どうやって隠してんだ?」
ルナは、水面から目を離さずに答えた。
「……結界」
その一言は、静かに沈む。
「魔王様が張ってるの」
ラグナが少しだけ眉を上げる。
「ナタージャが?」
「うん」
ルナは頷く。
「魔族が一緒じゃないと、入れない」
「……へぇ」
ラグナは短く息を吐く。
「じゃあ俺らが入れたのは、お前がいたからか」
「そう」
シンプルな仕組み。
だが、その意味は重い。
ルナは続ける。
「ここだけじゃないよ」
「他にもある」
ラグナが視線を戻す。
「どこだ?」
ルナは、指で地面に簡単な図を描く。
魔王城を中心に、三つの点。
南、東、西。
「守り、ってわけじゃなさそうだな」
「うん」
ルナは小さく頷く。
「隠すため」
指先で、その三点をゆっくり円でなぞる。
「この三つの結界で囲まれた内側……」
円が閉じる。
「ここを、“ナタージャ領”って呼んでる」
ラグナの視線が、わずかに鋭くなる。
「……領地、か」
「うん。魔王様のいる場所だから」
ルナは、円の内側を軽く叩くように指で触れた。
「ここね……」
少しだけ、声の調子が変わる。
「魔王様の目が、届く範囲なんだって」
ラグナの眉が動く。
「目?」
「うん」
ルナはうなずく。
「領内で起きてること……ほとんど、分かるらしい」
焚き火の残り火が、遠くで小さく弾けた気がした。
ラグナは、しばらく何も言わない。
そのまま、図の円を見つめる。
――思い出す。
魔王城。
開いていた門。
眠らされていた魔族たち。
そして。
“よくぞここまで辿り着いたな”と、当たり前のように言った女。
「……ああ」
小さく、息が落ちる。
「だからか」
ルナが視線を上げる。
「……何が?」
ラグナは肩をすくめる。
「いや」
少しだけ笑う。
「最初から、来るの知ってた顔してたからよ」
「……魔王様が?」
「おう」
ラグナは短く頷く。
「不思議でもなんでもなかったってわけだ」
納得、というより。
腑に落ちた、という響き。
ルナは少しだけ驚いた顔をしてから、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、そうなんだ」
確かめるような声だった。
ラグナはそれ以上深く語らない。
ただ、図に視線を戻す。
ルナはそこから、さらに外側へ線を伸ばす。
円の外。
東と西を、一本の線で区切る。
「外はね……こうやって分かれてる」
そして、その線の上下を指差す。
「南と北で、それぞれ別の領地」
ラグナがしゃがみ込み、同じ図をなぞる。
「……魔族が治めてるのか?」
「うん……たぶん」
ルナの声は、少しだけ曖昧だった。
「詳しくは、知らない」
「村の外のことは……あんまり」
ラグナはそれ以上は聞かなかった。
「……なるほどな」
短く、それだけ言う。
だがその目は、しっかりとその配置を焼き付けている。
ナタージャ領。
その外に広がる、まだ見ぬ領域。
そして――
その内側を見渡す、魔王の“目”。
ルナは図を指で軽く崩した。
土の線が消える。
夜の中に、すべてが溶ける。
「……だから」
ぽつりと続ける。
「外に出るの、あんまりよく思われてない」
「危ねぇからな」
ラグナが即答する。
「……うん」
ルナは頷く。
二人は立ち上がる。
焚き火の残り火が、遠くでかすかに揺れている。
背後で、水面がひとつ波打った。
まるで、見られていたみたいに。
――けれど、振り返る者はいなかった。
月は、まだそこにあった。




