第二十八話 かたちになる想い
朝の海は、昨日よりも静かだった。
波は穏やかに寄せては返し、空は淡い光で満ちている。
ラグナは早くに目を覚ましていた。
砂の上に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めている。
「……」
言葉はない。
ただ、風と波の音だけがある。
その少し後ろで、ルミナスが立っていた。
手の中には、小さな貝殻。
昨日、自分で選んだもの。
何度も開いては閉じる指。
渡す、という行為が、思っていたよりも難しい。
「……」
一歩、踏み出す。
また、止まる。
ラグナの背中を見る。
広くて、少しだけ無防備な背中。
その姿に、なぜか胸の奥が静かに揺れる。
「……あの」
小さく声をかける。
ラグナが振り返る。
「ん?」
いつも通りの顔。
それだけで、少しだけ安心する。
「……ラグナ」
名前を呼ぶ。
それだけで、少し時間がかかる。
ラグナは何も急かさない。
ただ、待っている。
ルミナスは、そっと手を差し出した。
開く。
そこに、小さな貝殻。
朝の光を受けて、やわらかく輝く。
「……これを」
言葉が途切れる。
視線が少し揺れる。
それでも、続ける。
「……あなたに」
ラグナは、その仕草を見た。
差し出された手。
少しだけぎこちなくて、それでもまっすぐな動き。
その瞬間――
ふと、記憶が揺れる。
まだ小さかった頃。
陽の光の中で、同じように手を差し出される。
「これ、あげる」
そんな声。
少しだけ照れたような顔。
それでも、しっかりとこちらを見ていた。
手の中には、小さな何か。
何だったかは、もう思い出せない。
けれど――
“自分のために選んだ”という、その温度だけは残っている。
風がやわらかくて、
世界が、少しだけ優しかった。
そのあと。
音が遠くなる。
ざわめき。
名前を呼ぶ声。
何かが崩れていく気配。
その先は、曖昧になる。
ただ――
差し出された手だけが、妙に鮮明で。
「……俺に?」
現実に戻る。
ラグナは、ルミナスの手を見たまま言う。
ルミナスは頷く。
「……昨日、選びました」
少しだけ、ラグナの顔を見る。
反応を、確かめるように。
その仕草は、ぎこちなくて――けれど、まっすぐだった。
「……記念日、と聞きました」
「わたし達が出会って一ケ月になる…と」
小さく付け足す。
ラグナは、しばらく何も言わなかった。
ただ、その貝殻を見つめる。
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
指先で、そっと受け取る。
軽い。
けれど、不思議と重みがある。
「……ありがとな」
ぽつりと言う。
短い言葉。
けれど、確かに柔らかい。
ルミナスは、その声を聞いて、ほんの少しだけ息をついた。
ラグナは、貝殻を指先で転がす。
「これ、いいな」
ぽつりと呟く。
ルミナスが少しだけ目を見開く。
「……そう、ですか」
「ああ」
ラグナは頷く。
「ちゃんと選んだ感じがする」
その言葉に、ルミナスの胸が小さく揺れる。
“選んだ”。
それを、受け取ってもらえた。
その事実が、静かに広がっていく。
ラグナは少し考えてから、立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
近くに落ちていた細い蔓を拾う。
それを器用に裂いて、紐のようにする。
貝殻の小さな穴に通して、結ぶ。
簡単な作業。
けれど、手慣れている。
「よし」
首にかける。
貝殻が、胸元で小さく揺れた。
「これなら、無くさねえだろ」
ルミナスは、その様子をじっと見ていた。
自分が選んだものが、そこにある。
形になって、残っている。
「……身に付けるのですか」
「せっかくだしな」
ラグナは軽く言う。
「なくしたらもったいねえ」
少しだけ笑う。
その表情は、どこか穏やかだった。
ルミナスは、胸の奥に何かが生まれるのを感じる。
温かくて、やわらかい。
名前は、まだ分からない。
けれど――
「……」
言葉が出ない。
ただ、見ているだけで、満たされていく。
その様子を、少し離れたところからエルが見ていた。
にやりと笑う。
リオンも隣で、静かに目を細める。
「うまくいったみたいだね」
小さく言う。
エルが頷く。
「ね」
ラグナは、二人の視線に気づいて顔をしかめる。
「なんだよ」
「別にー?」
エルが肩をすくめる。
「いいじゃん、似合ってるよ」
「うるせえな」
そう言いながらも、外そうとはしない。
ルミナスは、そのやり取りを見ていた。
そして、ようやく分かる。
胸の中にある、この感覚。
「……嬉しい」
小さく、呟く。
誰に向けた言葉でもない。
けれど、確かにそこにある。
ラグナが少しだけ振り返る。
「ん?」
「……いえ」
ルミナスは首を振る。
けれど、その表情は、ほんの少しだけ変わっていた。
やわらかく。
静かに、ほどけるように。
波が、また一つ打ち寄せる。
同じようで、少し違う形。
その一つ一つが、確かにそこにある。
選んで、渡して、受け取って。
そうして、残るもの。
それは小さくて、形も不確かで。
けれど――
確かに、消えない。
ラグナの胸元で、貝殻が揺れる。
それはただの欠片。
それでも、今は――
二人の間にある、小さな証だった。




