第十九話 生まれた迷い
朝の空気はまだ冷たく、草の先に残った露が小さな宝石みたいに光っていた。
森の奥へと続く細い道を、ラグナたちはゆっくりと進んでいく。
その中心にいるのは、まだこの世界に生まれて間もない少女――ルミナス。
白い肌に、朝日をほどいたような金髪。
その瞳は、まだ世界を知らないがゆえの透明さで満ちていた。
「今日はな、ルミナスに“戦い”を見せるんだ」
ラグナが振り返り、いつもの調子で言う。
けれどその声の奥には、ほんの少しだけ慎重さが混じっていた。
「戦い……」
ルミナスはその言葉を、まるで初めて知る言語のようにゆっくりと繰り返す。
「怖くなったら、僕の後ろにいていいからね」
リオンがそっと言う。
その優しい声に、ルミナスは小さく首を振った。
「いいえ。私は、見たいです。……全部」
その言葉に、エルがふっと笑う。
「いいね、その顔。ちゃんと“知ろう”としてる」
彼女はハープを軽く鳴らし、空気を整えるように音を広げた。
音は風に乗って、森の奥へ溶けていく。
まるで、これから起きる出来事への前奏みたいに。
――その時だった。
ガサリ、と低い音。
木々の影が、ひとつだけ“動きすぎた”。
ラグナの足が止まる。
「……来るぞ」
次の瞬間、茂みを突き破るように現れたのは、巨大な獣型の魔物だった。
黒い毛並みに、赤く濁った瞳。牙は剥き出しで、呼吸ひとつごとに地面の空気が震える。
ルミナスは一歩も動かなかった。
ただ、その存在をまっすぐ見つめている。
「下がってろ、ルミナス!」
ラグナが剣を抜く。
空気が鋭く切り裂かれる音がした。
だが――その一歩目は、“斬る”ためのものではなかった。
踏み込みと同時に、ラグナは剣の腹で魔物の前脚を強く打つ。
ドンッ、と鈍い衝撃音。
魔物が体勢を崩す。
「エル!」
「任せて!」
すでに弓を構えていたエルが、矢を放つ。
だがその先端は鋭い金属ではない。丸い玉が取り付けられている。
矢はまっすぐ魔物の顔へ――
パァンッ!
弾けた玉から白い粉が広がり、魔物の視界を奪った。
「ギャアアアッ!」
混乱した魔物が暴れる。
だがその動きに、ラグナはあえて距離を取る。
「リオン!」
「うん!」
リオンがロザリオを握りしめる。
淡い光が彼の手から広がり、空気をやさしく包み込んだ。
「大丈夫……落ち着いて……」
それは回復の光。
だが同時に、暴れ狂う生命を“鎮める”ような穏やかさを持っていた。
魔物の動きが、ほんのわずかに鈍る。
その瞬間を逃さず、ラグナが再び踏み込む。
今度は首元――だが、狙いは急所ではない。
剣の峰で、強く叩く。
ゴンッ、と鈍い音。
魔物の巨体がぐらりと揺れ、そのまま地面に崩れ落ちた。
静寂が戻る。
荒い呼吸音だけが、しばらく森に残っていた。
「……よし」
ラグナが剣を収める。
エルも弓を下ろし、リオンはほっと息をついた。
ルミナスは――その一部始終を、瞬きもせず見ていた。
やがて、彼女はゆっくりと口を開く。
「……なぜ、殺さないのですか?」
その声は静かだった。
だが、まっすぐに核心を射抜いていた。
三人の動きが止まる。
風が、ひとつ葉を揺らした。
「この魔物は、人を襲う存在です。危険です」
「今、確実に命を絶つことができたはずです」
ルミナスの言葉には、迷いがなかった。
「それなのに、あなたたちは……殺さなかった」
ラグナは少しだけ頭をかく。
困ったような顔。でも、逃げない目。
「まぁ……そうだな」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「こいつはさ、“元々は魔族”なんだろ?」
ルミナスが頷く。
「死んで、こうなった。……だったらさ」
ラグナは倒れている魔物を見た。
「もう一回、無理やり終わらせる必要ってあるのかなって思うんだよ」
ルミナスは理解しようとするように、目を細める。
「でも、危険です」
今度はリオンが口を開いた。
「うん。危険だよ。でも……」
彼は静かに微笑む。
「さっきの子、少しだけ落ち着いたでしょ?」
「……はい」
「僕、思うんだ。全部が全部、“壊すしかない存在”じゃないって」
エルがくるりと一歩前に出る。
「それにね」
彼女は指先で弓を軽く弾いた。
「当てることと、壊すことは違うのよ」
少しだけ、遠くを見る目になる。
「あたしはね、怖かったの。何かを傷つけるのが」
ルミナスは黙って聞いている。
「だから今は、“壊さずに止める方法”を探してる」
エルはにっと笑った。
「そのほうが、あたしらしいでしょ?」
ラグナが肩をすくめる。
「俺は単純だぞ。“倒す”ってのは、別に“殺す”って意味じゃないってだけだ」
「倒して、進む。それでいいんじゃねぇかなって」
リオンが小さく頷く。
「助けられるなら、助けたい」
エルが言う。
「壊さずに済むなら、そのほうがいい」
そしてラグナが言う。
「それでもダメなら、その時は全力で戦う」
三人の言葉が、ばらばらのようでいて、ひとつに重なる。
ルミナスは、それを静かに受け止めていた。
やがて、彼女はもう一度、倒れている魔物を見る。
「……“終わらせる”以外の選択」
その言葉は、まだ少しぎこちない。
だが確かに、自分の中に落とし込もうとしている響きだった。
「それを選べるのが……あなたたちなのですね」
ラグナがにやっと笑う。
「まぁな。まだまだ試行錯誤だけど」
その時、魔物が小さく身じろぎした。
目を覚ましかけている。
「行こう」
ラグナが背を向ける。
「起きたら、たぶん逃げるさ」
リオンもエルも、それに続く。
ルミナスは一歩遅れて、振り返った。
まだ完全には理解できていない。
でも――
「……覚えておきます」
そう、小さく呟いた。
森の奥へと進む四人の背中を、朝の光が追いかける。
その光の中で、ルミナスの瞳に初めて――
“迷い”という名の、あたたかな影が宿り始めていた。




