第百十九話 勇者の答え
玉座の間に、静かな時間が流れていた。
高い窓から差し込む陽光が、赤い絨毯を照らしている。
その先に立つルミナスを、アステリアは真っ直ぐに見つめていた。
「あなた方が目指しているものを、もう少し詳しく聞かせていただけますか」
「はい」
ルミナスは静かに頷いた。
「私たちは、これまでの旅で多くの方々に出会いました」
魔族の森で出会った人々。
人間と魔族が共に暮らす村。
海底神殿で出会ったライカ。
そして、ユリウス領で暮らしていた人々。
「初めは、私も知らないことばかりでした」
ルミナスは続ける。
「人間と魔族が、どうして争っているのか。どうして互いを恐れているのか」
「……」
「ですが、旅を続けるうちに、少しずつ分かってきたことがございます」
アステリアは黙って耳を傾けていた。
「人間も魔族も、大して変わらないのだと思います」
その言葉に、アステリアの眉が僅かに動いた。
「……変わらない、と?」
「はい」
ルミナスは頷く。
「誰かを大切に思う方がいます。穏やかに暮らしたいと願う方がいます。そして、大切なものを失うことを恐れる方も」
少しだけ間を置く。
「それは、人間も魔族も同じでした」
アステリアは目を伏せた。
その言葉を、ゆっくりと考えているようだった。
「……ですが」
やがて、口を開く。
「魔族によって、多くの人間が傷付けられてきた歴史がございます」
「はい」
「サルヴァザード領が滅ぼされたことも、先ほどお話しした通りです」
アステリアの声は落ち着いていた。
けれど、その瞳には確かな強さがあった。
「そして、あなた方が訪れたユリウス領でも、人間が奴隷として扱われていたのでしょう?」
「……はい」
「それでも、人間と魔族は変わらないと仰るのですか?」
ルミナスは、すぐには答えなかった。
隣に立つライカの手を、そっと握り直す。
それから、アステリアへ向き直った。
「魔族の方々が、人間を傷付けてきたことは事実だと思います」
「……」
「ですが、人間が魔族を傷付けることもございます」
アステリアは僅かに目を見開いた。
「私たちは、魔族であるという理由だけで恐れられている方にも出会いました」
ルミナスは続ける。
「そして、人間でありながら、魔族の方々と共に暮らすことを選んだ方にも」
ラグナは、その言葉を聞いて小さく頷いた。
カインとフィリア。
二人が暮らす村のことを思い出していた。
人間と魔族。
生まれも、育った場所も違う二人。
けれど、互いを知り、同じ場所で暮らすことを選んでいた。
「……そうだな」
ラグナが小さく呟く。
その声に、ルミナスが僅かに微笑んだ。
「人間だから正しい、魔族だから間違っているということではないのだと思います」
アステリアは黙っていた。
ルミナスの言葉を否定することも、すぐに受け入れることもなかった。
やがて。
「……その考えは、あなた自身が旅の中で得たものなのですか?」
「はい」
ルミナスは頷いた。
「ですが、初めて聞いたのは、ナタージャ様からでした」
「……魔王から?」
アステリアの声に、驚きが混じる。
玉座に座るルクシオ王も、静かに顔を上げた。
「はい」
ルミナスは続ける。
「ナタージャ様は、人間も魔族も大して変わらないと仰っていました」
「……」
「そして、人間を滅ぼしたいとは考えておられません」
アステリアは、すぐには言葉を返せなかった。
魔王。
人間の歴史において、その名は恐怖と共に語られてきた。
かつて人間の王家を滅ぼし、多くの命を奪った存在。
その魔王が、人間と魔族は変わらないと考えている。
簡単に信じられる話ではなかった。
「……それは、魔王自身があなたに語ったことなのですね」
「はい」
「ですが、魔王がそう語ったからといって、それが真実であるとは限りません」
アステリアは静かに告げた。
ルミナスは頷く。
「はい。私も、そう思います」
「……?」
アステリアが少し驚いたように顔を上げた。
「だからこそ、私たちは旅をしてきました」
ルミナスは微笑んだ。
「ナタージャ様から教わったことが、本当にそうなのか。自分たちの目で見て、確かめたいと思ったのです」
リオンが、その言葉に小さく笑った。
知らないことを知りたい。
たくさんの人を助けるために、もっと世界を知りたい。
それは、リオン自身が旅を続ける理由でもあった。
「……ルミナスらしいね」
リオンが小声で呟く。
「ほんとね」
エルも微笑む。
「いつの間にか、こんなに立派になっちゃって」
ラグナは何も言わなかった。
ただ、少し嬉しそうにルミナスを見つめていた。
「では、もう一つお尋ねします」
アステリアが口を開いた。
「あなたは、人間の味方ではないということでしょうか」
その言葉に、ライカの指先が僅かに動いた。
人間の味方。
魔族の味方。
これまで、何度も耳にしてきた言葉だった。
人間は魔族を恐れ。
魔族は人間を恐れる。
どちらかの側に立つということは、もう片方を敵にすることなのだろうか。
ライカは、隣に立つルミナスを見上げた。
「いいえ」
ルミナスは首を振った。
「私は、人間の皆様の味方でもあります」
「……では、魔族の味方でも?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「魔族の皆様の味方でもあります」
ライカは、繋いでいる手へ目を落とした。
王城へ来てから、ルミナスはずっとその手を離していない。
人間の王の前でも。
王女から問いかけられている今も。
変わらず、隣に立ってくれている。
「……それでは」
アステリアは少し考えてから尋ねた。
「もし、人間と魔族が争うことになった時、あなたはどちらの側に立つのですか?」
ルミナスは、すぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せる。
そして。
「私は、どちらか一方の側に立つつもりはございません」
静かに答えた。
「……中立、ということでしょうか」
「はい」
ルミナスは頷く。
「私は、人間と魔族のどちらにも偏らず、旅を続けたいと思っております」
アステリアは、その言葉を繰り返すように小さく呟いた。
「……中立」
「ですが」
ルミナスが続ける。
「何もしないという意味ではございません」
アステリアが顔を上げた。
「人間であっても、魔族であっても、誰かを傷付けようとする方がいれば、止めたいと思います」
「……」
「そして、困っている方がいれば、助けたいのです」
ルミナスは、ゆっくりと周囲を見渡した。
ラグナ。
リオン。
エル。
そして、ライカ。
共に旅をしてきた仲間たち。
誰もが違う場所で生まれ、違うものを見てきた。
けれど、今は同じ場所に立っている。
「私は、皆様を守りたいのです」
ルミナスはアステリアへ向き直った。
「人間も、魔族も」
その声は、決して大きくなかった。
けれど、玉座の間に静かに響いた。
「私に守れる方がいるのなら、守りたいと思っております」
ライカは、ルミナスを見つめていた。
胸の奥にあった緊張が、少しずつ解けていく。
人間の王城。
知らない人々。
自分がここにいてもよいのか、何度も不安になった。
けれど。
ルミナスは、ここでも変わらなかった。
「……」
ライカは小さく微笑んだ。
そして、繋いでいる手をそっと握り返した。
ルミナスも僅かに顔を向ける。
二人の目が合った。
それだけで、ライカには十分だった。
「……なるほど」
アステリアが静かに呟いた。
その表情は、先ほどよりも柔らかくなっていた。
けれど、まだ考え込んでいる様子だった。
「あなたのお考えは、分かりました」
「ありがとうございます」
ルミナスが頭を下げる。
「ですが」
アステリアは続けた。
「私には、守るべき国民がおります」
その言葉に、ルミナスは顔を上げた。
「王家に生まれた者として、この国の民を守る責任がございます」
「はい」
「人間と魔族を等しく守ると、今ここで約束することはできません」
アステリアは真っ直ぐルミナスを見つめた。
「私は、魔族によって傷付けられた人々の歴史を知っています」
「……」
「そして、今も魔族を恐れている人々がいることも」
静かな声だった。
けれど、その言葉には揺るぎない意思があった。
「あなたのように考えられればよいのでしょう。ですが、私にはまだ難しいのです」
ルミナスは、少しだけ微笑んだ。
「それでよいと思います」
「……?」
アステリアが目を瞬かせた。
「私も、旅をする前から今のように考えていたわけではありませんから」
ルミナスは続ける。
「知らないことが、たくさんございました」
そして。
「今も、知らないことばかりです」
その言葉に、ラグナが小さく笑った。
「……そうだな」
ルミナスが振り返る。
「俺たちだって、まだまだ知らねぇことだらけだ」
ラグナは肩をすくめた。
「だから、これからも旅をするんだろ?」
「はい」
ルミナスが嬉しそうに頷く。
リオンも微笑んだ。
「知らなかったことを知るたびに、考え方も少しずつ変わっていくんだと思います」
「そうね」
エルが続ける。
「あたしたちだって、旅に出た頃とは随分変わったもの」
アステリアは、そんな三人を見つめていた。
彼らは勇者の言葉を否定することも、代わりに答えることもしなかった。
ただ、当たり前のように、その隣に立っている。
やがて。
「……そうですね」
アステリアは静かに頷いた。
「私も、知らないことが多いのでしょう」
その視線が、ルミナスからライカへ向く。
ライカは少し緊張したように背筋を伸ばした。
けれど、アステリアは何も問いかけなかった。
ただ、小さく会釈した。
ライカも、慌てて頭を下げる。
その様子を見て、ルクシオ王が穏やかに笑った。
「随分と長い話になったな」
「申し訳ございません、お父様」
アステリアが頭を下げる。
「いや、よい」
王は首を振った。
「私にとっても、考えさせられる話であった」
そして、ルミナスたちへ視線を向ける。
「そなたたちが見てきた世界は、我々の知る世界よりも、ずっと広いようだ」
「……はい」
ルミナスが頷いた。
「これからも旅を続けるのであろう?」
「はい」
「ならば、どうか無事でいてくれ」
王は静かに告げた。
「そして、また話を聞かせてもらいたい」
「ありがとうございます」
ルミナスが丁寧に頭を下げる。
その時。
「……私からも、一つお願いがございます」
アステリアが口を開いた。
ラグナたちが顔を向ける。
「いつか、再び王都へ戻られた時には」
少しだけ間を置いて。
「また、あなた方の旅のお話を聞かせていただけますか」
ルミナスは微笑んだ。
「はい。喜んで」
アステリアも、僅かに微笑んだ。
それは、互いの考えをすべて理解し合えたという意味ではなかった。
けれど。
知らなかったことを知りたい。
その思いだけは、同じだった。
王城の門を抜けると、眩しい陽光が降り注いでいた。
「……結構、話してたんだな」
ラグナが空を見上げる。
朝にはまだ低かった太陽が、今では随分と高いところにあった。
「お腹空いちゃった」
エルが呟く。
「さっき朝ご飯食べたばっかりだよ」
リオンが笑った。
「いっぱい話を聞いてたら、お腹も空くのよ」
「エルはほとんど喋ってなかっただろ」
ラグナが言う。
「聞くのだって疲れるの!」
エルが頬を膨らませた。
その様子に、リオンが吹き出す。
「……じゃあ、お昼ご飯を食べに行こうか」
「賛成!」
エルが嬉しそうに手を上げた。
ラグナは呆れたように笑う。
その隣では、ルミナスとライカが手を繋いで歩いていた。
「……ルミナス」
「はい?」
ライカが小さく声をかける。
「ありがとう」
ルミナスは不思議そうに首を傾げた。
「何かありましたか?」
「……ううん」
ライカは首を振る。
そして、少しだけ微笑んだ。
「ただ、ありがとうって……言いたくなった」
ルミナスは、その表情を見つめた。
やがて、柔らかく微笑み返す。
「どういたしまして」
二人は再び歩き始めた。
ラグナは、そんな二人を横目に見ながら、小さく笑った。
王城の中で交わした言葉。
人間と魔族。
勇者と魔王。
守りたいもの。
まだ分からないことは、たくさんある。
けれど。
今は、こうして皆で歩いている。
「ほら、行くぞ」
ラグナが声をかける。
仲間たちが、その後に続いた。
王都の街並みの向こう。
高く昇った太陽が、五人の歩く道を明るく照らしていた。
五人の姿が、王城の門の向こうへ消えていった頃。
玉座の間では、ルクシオ王が静かに考え込んでいた。
「……アステリア」
「はい、お父様」
「先ほどの話、どう思う?」
アステリアは少し考えた。
「……驚きました」
そして、静かに続ける。
「サルヴァザード領に、今も人間が暮らしていたことも。魔族の領主が、その人々を解放しようとしていることも」
「うむ」
ルクシオ王は頷いた。
「私も同じだ」
そう答えると、傍らに控えていた騎士へ声をかけた。
「誰か、側近を呼んでくれ」
「はっ!」
騎士は一礼し、玉座の間を出ていった。
ほどなくして、一人の男が姿を現した。
「陛下、お呼びでしょうか」
「ああ。少し調べてもらいたいことがある」
ルクシオ王は静かに告げた。
「王都と周辺の街や村で、住まいや仕事を求める者を受け入れる余地がどれほどあるか、確認してくれ」
「……受け入れる余地、でございますか?」
「うむ。住まいだけではない。食料や働き口についてもだ」
「承知いたしました」
「それから、現在のサルヴァザード領の調査だ」
側近は深く頭を下げた。
「かしこまりました」
そう言って、玉座の間を後にする。
その様子を、アステリアは不思議そうに見つめていた。
「……お父様?」
「どうした?」
「なぜ、受け入れ先の調査を?」
ルクシオ王は、娘へ顔を向けた。
「勇者たちの話が本当で、ユリウス領が人間を解放するのであれば」
少しだけ間を置く。
「いずれ、こちらへ来ようとする者も現れるだろう」
「……」
「その時になって慌てていては、救える者も救えぬ」
王は静かに続けた。
「円滑に受け入れられるよう、今から備えておく必要があるからな」
アステリアは、少し驚いたように父を見つめた。
まだ、ユリウス領が本当に変わるかどうかも分からない。
王国へ来ようとする人間がいるかどうかさえ、分からない。
けれど、父は既にその先を考えていた。
「……そうでしたか」
アステリアは小さく息を吐いた。
そして、微かに微笑む。
「ええ、そうですね」
ルクシオ王も静かに頷いた。
高い窓から、柔らかな陽光が差し込んでいた。
玉座の間には、再び静けさが戻っていた。




