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第百十七話 知らない誰か

 しゃっ、しゃっ。

 静かな部屋に、一定の音が響いていた。


 窓の外から差し込む月明かりが、床の上に淡い光を落としている。


 夜もすっかり更け、部屋の中ではリオンもエルも、ルミナスも静かに眠っていた。


 その中で。

 ライカはゆっくりと目を開いた。


「……」


 しゃっ、しゃっ。


 再び聞こえてきた音に、ライカは顔を向ける。

 聞き慣れた音だった。

 旅の途中、野営をする夜にも何度も耳にしてきた。


 ラグナが剣の手入れをする音。


 ライカは身体を起こした。


 昼間、宿屋へ着いてすぐにベッドへ倒れ込んだことを思い出す。

 あれから、どれくらい眠っていたのだろう。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。


 隣のベッドでは、エルが気持ち良さそうに眠っている。


 ライカは音を立てないように立ち上がると、剣の音が聞こえてくる方へ歩いた。


 ほんの少し開いた窓。

 その向こうには、小さなバルコニーがあった。

 ライカは窓を開き、外へ出る。


 夜風が、長い髪を揺らした。


 昼間の喧騒が嘘のように、王都の裏道は静まり返っている。

 白い石造りの建物が月明かりに照らされ、その間を細い道が伸びていた。


 その景色を眺めながら。

 ラグナが椅子に腰掛け、剣を磨いていた。


「……ラグナ」


「ん?」


 呼び掛けられたラグナは、手を止めて振り返る。


「起きたんだな」


「……うん」


 ライカは小さく頷いた。


 ラグナはその顔を見て、少しだけ目を細める。

 王都へ入ってからずっと強張っていた表情が、今は随分と柔らかくなっていた。

 顔色も良い。


「……ふぅ」


 小さく息を吐く。


「少しは休めたみたいだな」


「……うん」


「そっか」


 ラグナは安心したように笑った。


「良かった」


 ライカはそんなラグナを見つめてから、隣に置かれた椅子へ腰を下ろした。


 ラグナも再び剣へ目を向ける。

 布を当て、刃を確かめながら丁寧に磨いていく。

 

 しゃっ、しゃっ。

 静かな音が戻ってきた。


 ライカは何も言わず、夜空を見上げる。

 月が浮かんでいた。


 建物の間に切り取られた、狭い夜空。

 それでも。

 月の光は変わらず、そこにあった。


「……」


 ライカは、昼間の出来事を思い返していた。


 行き交う大勢の人間たち。

 突然響いた叫び声。

 走ってきた男。


 そして。

 その男を捕まえたラグナ。


 あの時は、ただ騒ぎから離れたかった。

 誰かが怒鳴る声も。

 人々が集まってくる様子も。見ていたくなかった。


 けれど今になって、一つの疑問が浮かんでいた。


「……」


 ラグナは剣を磨きながら、隣のライカをちらりと見る。


 また空を見上げている。

 何かを考えている時の、いつもの仕草だった。


 何を考えているのか。

 少し気にはなった。

 けれど、ラグナは何も聞かなかった。


 ライカが話したくなれば、自分から話すだろう。

 そう思い、再び剣へ目を落とす。



 しばらくして。


「……ラグナ」


「ん?」


「どうして、あんなことをしたのかな」


 ラグナは手を止めた。


「……あんなこと?」


「……うん」


「何の話だ?」


 ライカは少し考えてから答えた。


「昼間の……鞄を持って走っていた人」


「ああ、あいつか」


 ラグナは頷いた。


「どうして、あの人は……他の人の物を持っていったの?」


「……ああ」


 ラグナは剣を膝の上へ置いた。


「そういうことか」


 少し考える。


 昼間の男。

 深く被ったフード。

 腕に抱えた鞄。

 必死に逃げようとしていた姿。


 けれど、ラグナはあの男のことを何も知らなかった。


「……たぶん、金に困ってたんじゃねぇかな」


「……お金」


 ライカは小さく繰り返した。


「エルとルミナスが、教えてくれた」


「何を?」


「お店で……欲しいものと交換するためのもの、だって」


「ああ、そうだな」


「……でも」


 ライカは首を傾げる。


「よく分からない」


「金が?」


「……うん」


 ラグナはライカを見る。


 そういえば。

 ライカは海底神殿で、長い間一人で暮らしていた。

 食べ物を必要とせず、水さえあれば生きていける。


 そんなライカにとって、お金は今まで必要のないものだったのだろう。


「……リリアナがいた時は」


 ライカがぽつりと話し始めた。


「何も、欲しいと思わなかった」


 ラグナは黙って聞く。


「リリアナがいなくなってからも……水があれば、生きていけた」


「……ああ」


「今は」


 ライカはラグナを見る。


「ラグナたちがいる」


「うん」


「食べることも、覚えた」


 少しだけ、表情が柔らかくなる。


「知らなかったことも……たくさん知った」


 人間の村。

 魔族の村。

 砂漠。

 森。


 誰かと食卓を囲むこと。

 誰かに感謝されること。

 誰かと一緒に歩くこと。


 海底神殿にいた頃には、知らなかったものばかりだった。


「……それで、十分」


 ライカは静かに言った。

 ラグナはその言葉を聞いて、僅かに笑った。


「そっか」


「……うん」


 ライカは再び夜空へ目を向ける。


「だから……分からない」


「何が?」


「どうして、誰かから奪ってまで……欲しいの?」


 ラグナはすぐには答えなかった。


 ライカにとって。

 何かを手に入れるために、誰かから奪うという行為は理解できないのだろう。


 それは、ラグナにとっても同じだった。


 けれど。


「……欲しかったとは限らないんじゃないか?」


「……?」


 ライカが顔を向ける。


「金が必要だったのかもしれねぇ」


「……必要?」


「ああ」


 ラグナは剣を布の上へ置いた。


「俺たちは飯を食わなきゃ生きていけないし、寝る場所だって必要だろ?」


「……うん」


「それを手に入れるためには、金がいるんだよ」


 ライカは少し考える。


「……生きるため?」


「ああ」


 ラグナは頷いた。


「もちろん、欲しい物を買うために金を使うこともあるけどな」


「……」


「でも、あいつはそうじゃなかったのかもしれねぇ」


 ラグナは夜の王都へ目を向けた。


「もしかしたら、何日も飯を食えてなかったのかもしれないし」


 一度、言葉を止める。


「家に、腹を空かせた子どもがいたのかもしれねぇ」


「……子ども」


「ああ」


 ラグナは頷く。


「自分が食うためじゃなくて、誰かに食わせるために金が必要だったのかもしれないだろ?」


 ライカは黙っていた。


 誰かのために。

 自分ではない誰かのために。

 何かを手に入れようとする。


 その気持ちなら。

 少しだけ、分かる気がした。


「……でも」


 ライカはラグナを見る。


「それなら……どうして、他の人の物を?」


「……そうだな」


 ラグナは少し考えた。


「他に方法がなかったのかもしれねぇ」


「……」


「でも、あったのかもしれねぇ」


 ライカが首を傾げる。

 ラグナは小さく笑った。


「俺にも分からないんだ」


「……分からない?」


「ああ」


 ラグナは頷く。


「あいつが何に困ってたのかも、何が欲しかったのかも、何も聞いてないからな」


 昼間。

 ラグナが見たのは、鞄を抱えて逃げる男だけだった。


 その前に何があったのか。

 どこから来たのか。

 どんな暮らしをしているのか。


 何一つ知らない。


「ただ欲しい物があっただけかもしれないし、遊ぶ金が欲しかっただけかもしれねぇ」


「……」


「だから、全部俺の想像だ」


 ライカは少し俯いた。


「……そっか」


「でもな」


 ラグナは続ける。


「どんな理由があったとしても、人の物を盗っていいわけじゃねぇ」


「……うん」


「鞄を盗られた人だって、困ってたからな」


 ライカは昼間の光景を思い返す。


 必死に男を追いかけていた人。

 鞄を取り戻した時、何度も礼を言っていた。


「……あの人も、困ってた」


「ああ」


「……だから、ラグナは捕まえた?」


「そうだな」


 ラグナは頷く。


「目の前で困ってる人がいたから、放っておけなかっただけだよ」


「……」


 ライカは再び考え込んだ。


 盗まれた人は、困っていた。

 盗んだ人も、困っていたのかもしれない。


 けれど。

 それは、まだ分からない。


「……ラグナ」


「ん?」


「じゃあ……あの人は、悪い人?」


 ラグナは少しだけ目を見開いた。


 そして。

 すぐに答えることはしなかった。


「……さあな」


「……?」


「悪いことをしたのは、間違いねぇと思う」


 ラグナは静かに言った。


「でも」


 夜空へ目を向ける。


「あいつがどんな奴なのかまでは、俺も知らねぇからな」


「……」


「一つ悪いことをしたからって、そいつの全部が悪いって決めつけるのも違う気がする」


 ラグナは少し考える。


「もちろん、だから盗みを許していいってわけじゃねぇぞ」


「……うん」


「でも、もし本当に困ってたんなら」


 ラグナは剣へ目を落とした。


「盗みなんかしなくても済む方法が、何かあったかもしれないしな」


 ライカは黙って聞いていた。


 ラグナも、それ以上は続けなかった。


 静かな夜風が、二人の間を通り抜ける。

 遠くで、夜警のものらしい足音が聞こえた。


 やがて。


「……ラグナ」


 ライカが口を開く。


「ん?」


「もし……あの人が、本当に困っていたら」


「うん」


「ラグナは、助ける?」


 ラグナは少し驚いたようにライカを見た。


 そして。


 少しだけ考える。


「……そうだな」


 やがて、頷いた。


「俺にできることがあるならな」


「……盗んだ人でも?」


「ああ」


 ラグナは答える。


「盗みをしたことと、困ってることは別だろ?」


「……」


「もちろん、盗んだことはちゃんと償わなきゃいけねぇと思うけど」


 ラグナは小さく笑う。


「それでも腹が減ってるんなら、飯くらい食わせてやりてぇな」


「……そっか」


 ライカは小さく頷いた。


 しばらくして。


「……わたし」


 ぽつりと呟く。


「昼間、怖かった」


 ラグナはライカを見る。


「……ああ」


「大きな声がして……皆が集まって」


 ライカは膝の上へ視線を落とした。


「見たくなかった」


「……うん」


「でも」


 顔を上げる。


「今は……少し、気になる」


「何が?」


「……あの人」


 ライカは静かに答えた。


「どうして、あんなことをしたのか」


 ラグナはその横顔を見つめた。


 昼間は、ルミナスの後ろに隠れていた。

 騒ぎから目を背けていた。


 そんなライカが。

 今は、あの男のことを考えている。


 何をしたのかではなく。

 どうして、そうしたのかを。


「……そっか」


 ラグナは微笑んだ。


「気になるなら、知りたいってことなんだろうな」


「……知りたい」


 ライカは、その言葉を確かめるように繰り返した。


「……うん」


 そして。


 再び夜空を見上げる。


「わたし……まだ知らないことが、たくさんある」


「そりゃそうだろ」


 ラグナは笑った。


「俺だって、知らねぇことばっかりだ」


「……ラグナも?」


「ああ」


「……そうなの?」


「そんなに意外か?」


 ライカは少し考えた。


「……うん」


「おいおい」


 ラグナが頭を搔いて苦笑する。


「俺だって何でも知ってるわけじゃねぇぞ」


「……でも」


「ん?」


「ラグナは……いつも、答えてくれる」


 ラグナは少し驚いたように瞬きをした。


 ライカは続ける。


「私が知らないことを聞くと……教えてくれる」


「……ああ」


「だから……知ってると思ってた」


 ラグナは思わず笑った。


「そんなことねぇよ」


 剣を持ち上げ、月明かりにかざす。

 磨き終えた刃が、淡い光を返した。


「今日だって、あいつが何考えてたのか分かんなかっただろ?」


「……うん」


「俺が知ってることなんて、ほんの少しだよ」


 ラグナは剣を鞘へ収めた。


「だからさ」


 隣に座るライカを見る。


「分かんねぇことがあったら、一緒に考えりゃいいんじゃねぇかな」


「……一緒に?」


「ああ」


 ラグナは笑う。


「俺が分かんなくても、リオンなら知ってるかもしれないし、エルやルミナスなら違う考えを持ってるかもしれねぇ」


「……」


「それでも分かんなかったら、また別の誰かに聞けばいい」


 ライカは静かに聞いていた。


「知らないことなんて、いくらでもあるんだからな」


「……そっか」


 ライカは頷いた。


 そして。


 少しだけ笑った。


「……じゃあ」


「ん?」


「また、聞いてもいい?」


 ラグナは一瞬、きょとんとした。


 それから。


「当たり前だろ」


 そう言って笑った。


 ライカも。


 小さく頷いた。


「……うん」


 二人は再び、夜空を見上げた。


 月は、先ほどと変わらずそこにあった。


 王都には。

 今日、出会ったばかりの人々がいる。


 名前も知らない人。

 何を考えているのか分からない人。

 そして、自分たちのことを、何も知らない人。


 それぞれに。

 生きてきた時間がある。

 大切にしているものがある。


 何かを望み。

 何かに困りながら。

 今日も生きている。

 そのすべてを知ることなど、きっとできない。


 けれど。


 知らないまま、決めつける必要もない。


「……ラグナ」


「ん?」


「明日も……知らない人に会う?」


「ああ、たぶんな」


 ラグナは王城のある方角へ目を向けた。


「明日は王様に会いに行くんだからな」


「……王様」


「そう」


 ラグナは笑う。


「どんな話になるかは、俺にも分からないけど」


「……うん」


「まあ、会ってみなきゃ分かんねぇよな」


 ライカは、その言葉を聞いて。

 もう一度、夜空を見上げた。


「……そっか」


 静かな王都の夜。


 知らない誰かが。

 明日もまた、どこかで待っている。

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