第百十話 受け継いだもの
「世界を救うために旅をしていた……勇者と、その仲間たちさ」
村長の言葉に。
誰もすぐには答えなかった。
夕暮れの光が窓から差し込み、誰もいないはずだった家の中を橙色に染めている。
ラグナは僅かに眉を寄せた。
「……勇者?」
「ああ」
村長は静かに頷いた。
「その勇者たちが、何かしたの?」
エルが尋ねる。
「そう伝わっているよ」
「何をしたんだ?」
ラグナの問いに。
村長は少し考えてから、ゆっくりと首を横に振った。
「それがねぇ。詳しいことまでは残っていないんだよ」
「残ってない?」
「あまりにも昔のことだからね」
村長は杖をついたまま、窓の外へ目を向けた。
畑仕事を終えた村人たちが、それぞれの家へ帰っていく姿が見える。
「今となっては、いつの時代の勇者だったのかも分からない。村に残っていた記録も、ずっと昔になくなってしまったそうだよ」
「じゃあ……」
リオンが少し考える。
「勇者たちが何をしたのかも?」
「分からないねぇ」
村長は頷いた。
「私が聞いたのも、そのまた昔の人たちから伝わった話だけさ」
勇者と、その仲間たちが村を訪れた。
そして。
随分と横暴な振る舞いをした。
分かっているのは、それだけ。
何を求め。
何を言い。
この村で何をしたのか。
それを知る者は、もう誰もいない。
「ただね」
村長が続ける。
「その頃から、この村は外から来る人間を警戒するようになったそうだよ」
「……」
ラグナは黙ったまま聞いていた。
「昔は、この村にも宿屋があったんだ」
「宿屋?」
エルが目を丸くする。
「ああ。旅人が来れば泊めて、食事も出していたそうだよ」
村長は小さく笑う。
「今じゃ考えられないだろう?」
ラグナたちは、村へ入ってから向けられた視線を思い出す。
誰も声を掛けようとはしなかった。
カインが帰ってきたことに気付いても。
まるで見なかったことにするように、顔を逸らしていた。
「外から来る人間を泊める者はいなくなった。旅人も、この村へ立ち寄らなくなった」
「それで、宿屋も……」
「なくなったそうだよ」
リオンの言葉に。
村長は頷いた。
始まりが何だったのか。
今では誰も知らない。
それでも、外から来た者を信用するな、余所者には気をつけろ。
その言葉だけが。
何代にも渡って、この村に残り続けた。
「……勇者か」
ラグナが小さく呟く。
誰かを守れる者。
理不尽に何かを奪われるのを、ただ見ていることしかできない。
そんな自分でいたくなくて。
目の前にいる誰かを守れるようになりたくて。
だから、勇者になりたいと思った。
今もその想いは変わっていない。
けれど、勇者という言葉を聞いて憧れを抱くことは、もうなかった。
リオンもエルもルミナスも、何も言わない。
それぞれが何かを考えているようだった。
「まあ」
村長の声が、沈みかけた空気を破った。
「何百年も昔のことを考えていても仕方ないねぇ」
全員が顔を上げる。
村長は困ったように笑っていた。
「せっかく久しぶりに帰ってきたんだ」
そして、カインを見る。
「そんなことより、あんたの昔話でもしようか」
「……僕の?」
カインが目を瞬く。
「昔話?」
フィリアがすぐに反応した。
先ほどまでとは打って変わって、目を輝かせながら村長を見る。
「聞きたいわ」
「フィリア……」
「聞きたい」
「二回言わなくても分かるよ」
カインが困ったように笑う。
エルも小さく吹き出した。
「フィリア、ずっと聞きたがってたもんね」
「だって、カインが話してくれなかったんだもの」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって言ったでしょう?」
フィリアが少し頬を膨らませる。
村長は、そんな二人を楽しそうに眺めていた。
そしてふと、カインの胸元へ視線を向ける。
服の上からでも分かる。
首に掛けられた細い紐。
その先にあるものを村長は知っていた。
「それ」
「え?」
「まだ持っていたんだねぇ」
村長が指差す。
カインは自分の胸元を見て。
服の中から、琥珀のネックレスを取り出した。
夕暮れの光を受けて飴色の石が柔らかく輝く。
「この琥珀ですか?」
「ああ」
村長は懐かしそうに目を細めた。
「その首飾りを初めて見た日のこと、今でも覚えているよ」
「……初めて?」
カインが琥珀を見る。
「母が持っていた頃ですか?」
「そうさ」
村長は頷いた。
「あんたたちが、この村へ来たばかりの頃だったねぇ」
カインは、黙って琥珀を握った。
その頃。
カインはまだ幼かった。
父親と母親に手を引かれ、三人でこの村へやって来た。
「ここに住みたい?」
当時から村長だった女性は、目の前で深く頭を下げる男を見ていた。
その隣には細身の女性と、その手を握る小さな少年が立っている。
「お願いします」
カインの父親はもう一度、深く頭を下げた。
その様子を、少し離れた場所から村人たちが見ている。
歓迎するような雰囲気ではなかった。
誰だ。
どこから来た。
何をしに来た。
そんな言葉が小さく聞こえてくる。
それでも、カインの父親は気にしなかった。
「妻は、昔から身体が強くありません」
隣に立つ妻を見る。
「人の多い王都で暮らし続けるよりも、自然の多い静かな場所で暮らした方がいいと思いまして」
女性は、少し申し訳なさそうに笑った。
「それに」
父親は二人の間に立つカインを見る。
「この子にも、のびのびと育ってほしいんです」
まだ幼いカインは、大人たちの話を理解しているのかいないのか。
父親の服を握りながら。
知らない村を眺めていた。
「ここで働いて、家族三人で安定して暮らしたいと思っています」
そして、父親はもう一度頭を下げる。
「どうか、この村に住ませていただけないでしょうか」
「……」
村長は三人を見た。
父親。
母親。
そして。
その間にいる小さなカイン。
「顔を上げな」
「え?」
「住みたいんだろう?」
村長は笑った。
「だったら住めばいいさ」
父親が目を見開く。
「よろしいのですか?」
「土地ならある。畑仕事だって人手が足りてない」
周囲から、僅かにざわめきが聞こえた。
村長はそれを気にすることなく。
三人へ笑いかけた。
「今日から、あんたたちもこの村で暮らせばいい」
父親と母親が。
顔を見合わせる。
それから、二人揃って頭を下げた。
「ありがとうございます」
幼いカインも両親を見て、少し遅れて頭を下げた。
◇
けれど。
村長が受け入れたからといって、村人たちもすぐに受け入れたわけではなかった。
最初の頃は誰も三人へ近づこうとはしなかった。
それでも。
カインの父親は毎日のように畑へ出た。
人手が足りない場所があれば手伝い、壊れた農具があれば。
「貸してみてください」
と受け取った。
手先が器用だった。
柄が外れた鍬を直し。
刃の緩んだ鎌を調整する。
最初は渋々預けていた村人も、綺麗に直された農具を見ると次第に。
「これも見てくれないか」
と持ってくるようになった。
母親も、身体に負担が掛からない範囲で働いた。
収穫した作物から次に植えるための種を仕分ける。
種類ごとに分け。
必要な村人がいれば。
「こちらをどうぞ」
と笑顔で手渡した。
そんな両親の姿をカインはいつも近くで見ていた。
畑の端に座り、父親が農具を直す姿を見る。
家では母親の隣で種を分けるのを手伝った。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
三人へ向けられる目は変わっていった。
そんなある日。
村に一人の旅商人がやって来た。
大きな荷物を背負い。
遠くの町や村から仕入れた品物を売り歩く男だった。
「珍しい品もありますよ」
広場で荷物を広げる。
けれど、誰も近づこうとはしなかった。
余所から来た者。
それだけで村人たちは遠巻きに見るだけだった。
その中で、真っ先に旅商人の元へ向かったのがカインの両親だった。
「これは、どこで作られたものですか?」
「随分遠いところから来たんですね」
二人は。
並べられた品を楽しそうに見ていた。
その日の夕方、村長の家を訪ねる者がいた。
「村長さん」
「ああ、どうしたんだい?」
カインの母親だった。
いつもより少しだけ嬉しそうな顔をしている。
「見てください」
「ん?」
母親は自分の胸元へ手を伸ばす。
そこには、一つの首飾りがあった。
夕暮れの光を受け。
琥珀が柔らかく輝いている。
「綺麗じゃないか」
「でしょう?」
母親は、嬉しそうに琥珀を持ち上げた。
「主人が買ってくれたんです」
その笑顔は、村長が今まで見た中でも特に幸せそうなものだった。
◇
「……そうだったんですか」
カインの声が静かな家の中に響く。
手の中の琥珀を見つめながら。
「知らなかったのかい?」
「はい」
小さく頷く。
「母が大切にしていた物だということは知っていました」
指先で。
琥珀の表面をなぞる。
「でも……父が母に贈ったものだったなんて」
「そうかい」
村長は懐かしそうに笑う。
「本当に嬉しそうだったよ」
「……」
カインは何も言わない。
ただ、琥珀を握っていた。
今まで母親の形見として持っていたもの。
けれど。
その中には父親の想いも残っていた。
自分が知らなかった、二人の時間。
「二人とも、本当に良い人たちだったよ」
村長が言う。
「この村の者に冷たくされても、一度だって誰かを悪く言わなかった」
「……」
「自分たちが余所から来たからだろうねぇ」
村長は小さく笑う。
「旅商人が来た時も、二人だけは何の迷いもなく話しかけていた」
カインは。
静かに目を伏せた。
「……そうですか」
それだけだった。
けれど、その声は僅かに震えていた。
フィリアは隣にいるカインを見る。
何かを言おうとして。
やめた。
ただ、その隣に立った。
「……似てるな」
不意に。
ラグナが呟く。
「え?」
カインが顔を上げる。
「カインと、父ちゃん」
「僕が……父と?」
「ああ」
ラグナは頷く。
「だって農具直してたんだろ?」
カインは目を瞬く。
「魔族の村でもやってるじゃねぇか」
「あ……」
「畑も手伝ってるって、村長が言ってたしな」
リオンも笑う。
「お父さんがしていたことを、カインさんもしていたんですね」
「……」
カインは少し考える。
「意識したことは、ありませんでした」
「子どもの頃からずっと見てたなら、自然に覚えたんじゃない?」
エルが言う。
「そういうものなのかもしれませんね」
カインはもう一度琥珀を見る。
父親が農具を直す姿。
母親が種を仕分ける姿。
確かに覚えている。
幼い頃から、当たり前のように見ていた。
「似てるわ」
フィリアが言った。
カインが振り返る。
「フィリアまで?」
「だって、あなたもずっとそうだったもの」
フィリアは真っ直ぐにカインを見る。
「私と一緒にいた時も」
森の中。
二人だけで暮らしていた頃。
そして。
魔族の村へ戻ってからも。
カインはいつも自分にできることを探していた。
「でも」
フィリアは。
少しだけ表情を変えた。
「無理までしなくていいのよ」
「……え?」
「村のみんなの役に立たなくても」
フィリアは笑う。
「カインはカインなんだから」
「……」
カインは何も言わなかった。
フィリアが。
ずっと気にしていたこと。
自分のしたいようにしてほしい。
大丈夫ではない時まで。
大丈夫だと言わないでほしい。
その意味を。
カインも少しずつ分かり始めていた。
「……うん」
小さく。
頷く。
「覚えておくよ」
「覚えておくだけ?」
「努力する」
「ならいいわ」
フィリアが笑う。
そのやり取りを見ながら。
村長も、穏やかに目を細めていた。
窓の外では夕暮れの光が少しずつ薄くなっている。
カインは家の中を見回した。
テーブル。
椅子。
戸棚。
幼い頃、父親と母親と暮らしていた場所。
ここへ来るまでずっと気になっていた。
もうなくなっているかもしれない。
そう思っていた。
けれど家は残っていた。
村長が、自分が帰ってくるかもしれないからと残してくれていた。
そして知らなかった両親のことまで知ることができた。
カインは、手の中の琥珀を握る。
「……来て良かったです」
誰に向けたわけでもなく。
小さく呟いた。
「ええ」
隣でフィリアが答えた。
カインは彼女を見る。
それから、少しだけ笑う。
「知らなかったことまで、知れましたから」
フィリアも同じように笑った。
外はもうすぐ夜になる。
それでも、カインの手の中では。
小さな琥珀が残された夕暮れの光を受けて、柔らかく輝いていた。




