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第百九話 残されていた家

 日はすでに傾き始めていた。

 夕暮れの光が、農村を橙色に染めている。


 畑では一日の仕事を終えた村人たちが、農具を片付け始めていた。


 土の付いた鍬を肩に担ぐ者。

 収穫した野菜の入った籠を運ぶ者。


 家へ戻る子どもの手を引く者。

 どこにでもありそうな、穏やかな農村の夕暮れだった。


 けれどラグナたちが通ると、その空気が僅かに変わる。


 畑から戻ろうとしていた男が、カインを見る。

 一瞬だけ、確かに目が合った。

 それでも何も言わずに顔を逸らした。


 別の村人も同じだった。

 カインに気付いている。


 けれど、誰も声を掛けようとはしない。


「……」


 ラグナは何も言わず、その様子を見ていた。

 隣を歩くリオンも、少し後ろを歩くエルたちも先ほどまでとは違い、静かだった。


 カインだけは村人たちを気にしないように、前を向いて歩き続けている。


 その横をフィリアが歩く。

 何かを言いたそうに何度かカインを見るが、結局何も言わなかった。


 やがてカインが足を止めた。


「ここです」


 その声にラグナたちも立ち止まる。


 目の前にあったのは、一軒の木造の家だった。

 大きくもなく派手でもない。

 周囲に並ぶ家々と比べても、特別なところは何もない。


 この村の景色に溶け込むような、簡素な家。


 長い間、人が暮らしていなかったからだろう。

 庭には雑草が伸びている。

 窓も少し汚れていた。


 けれど、壁が崩れているわけでも屋根が壊れているわけでもない。


 家は当たり前のように、そこにあった。


 カインは何も言わずに見つめていた。


 しばらくして。


 張り詰めていた緊張を解くように、ほっと息を吐く。


「……良かった、間に合って」


 小さな声だった。


「間に合って?」


 ライカが尋ねる。


 カインは家から目を離さないまま、頷いた。


「誰も住んでいませんから」


 僅かに笑う。


「もう取り壊されているかもしれないと思っていたんです」


 その隣に。


 フィリアが立つ。


 同じように家を見上げた。


「ここが、あなたが育った家なのね」


「うん」


 カインの声が。


 少しだけ柔らかくなる。


「両親と過ごした、大事な場所だよ」


 フィリアは何も言わず。


 しばらくその家を見つめていた。


 カインが今までほとんど話そうとしなかった場所。


 両親と暮らし、幼い頃から見てきた景色。


 ようやくその一つを見ることができた。


「見た感じは問題なさそうか?」


 後ろからラグナが尋ねる。


 カインは振り返り、頷いた。


「ええ。前と変わったところは無さそうです」


 もう一度家を見る。


「もう少し荒れているかも、と思っていたので……少し安心しました」


 村へ入った時より表情が柔らかくなっていた。


 それを見て。


 ラグナも僅かに笑う。


「中も確認してみようぜ」


「そうですね」


 カインは肩から下げていた鞄を開く。


 その中から、一本の鍵を取り出した。


「持ってたんだな」


「ずっと持っていました」


 そう答えて扉の前へ立つ。


 鍵を差し込む。


 何度か動かしてから、かちりと小さな音がした。


 カインはゆっくりと扉を開いた。





 長い間、閉ざされていた家。


 中へ入ると僅かに埃の匂いがした。


 カインが窓を開ける。


 夕暮れの光が差し込み、薄暗かった室内が照らされる。


 誰も暮らしていない。


 それはすぐに分かった。


 棚や机の上には薄く埃が積もっている。


 けれど、家具はそのまま残っていた。


 大きなテーブル。


 椅子。


 食器棚。


 壁際に置かれた小さな戸棚。


 生活していた頃の姿を、そのまま残している。


 カインはゆっくりと中へ進んだ。


 テーブルへ手を触れて、指先で薄く積もった埃をなぞる。


「……中も問題ないみたいです」


 その声には、僅かに懐かしさが混じっていた。


「あの日のままですね」


「あの日?」


 エルが聞く。


「僕が、この家を出た日です」


 それ以上カインは何も言わなかった。


 その日。


 この家を出て、森へ入り魔族たちに捕らえられた。


 その時はこれほど長く帰れなくなるなど、思っていなかったのだろう。


 フィリアは興味深そうに家の中を見ていた。


 食器棚を覗き。


 椅子を見る。


 部屋の奥へ少し進んで。


「……あんまり私たちの家と変わらないのね」


「え?」


 カインが振り返る。


「父が居る村長の家よ」


 フィリアはテーブルを指先で触る。


「もちろん見た目は違うけど。テーブルがあって、椅子があって、食器を置く場所があって」


 周囲を見回す。


「人間の家って、もっと違うものだと思ってた」


 カインは少し驚いたようにフィリアを見る。


 それから。


 笑った。


「やっぱり君もそう思うか」


「あなたも?」


「うん」


 カインは頷く。


「僕も初めて村長の家に入った時、同じことを思ったよ」


「そうなの?」


「もっと違うと思ってた」


 二人で家の中を見る。


「見た目は違うけれど、生活の仕方は同じなんだなってね」


「……そうね」


 フィリアが笑う。


 人間と魔族。


 生まれも、住む場所も、姿も違う。

 それでも家へ帰れば、椅子に座り食卓を囲み、眠る場所がある。


 そんな二人を、ライカは少し離れた場所から見ていた。


「……」


 自分はどうだっただろう。


 海底神殿を出て、初めて外の世界へ出た。


 何もかもが知らないものだった。


 人間の村。


 魔族の村。


 家。


 食事。


 店。


 宿。


 人々の暮らし。


 最初は、ラグナたちがしていることを見ながら一つずつ覚えていった。

 人間と魔族は思っていたより似ているらしい。


 けれど、自分たちは。

 海底の民は違った。


 食事を必要としない。

 生まれ方も違う。

 死んだ後も、魔族たちのように魔物になることはない。


 海の底で外の世界とは違う暮らしを続けてきた。

 どうして、自分たちはこんなにも違うのだろう。


「……」


 ライカは無意識に少し上を見ていた。


「ライカ」


 声を掛けられる。


 振り向くと、ラグナがこちらを見ていた。


「なに?」


「また考え事か?」


 ライカは目を瞬いた。


 そして、自分が上を見ていたことに気付く。


「……うん」


「やっぱり」


 ラグナが少し笑う。


 ライカは。


 今度はラグナを見る。


「なに?」


「いや」


 ラグナは首を振った。


 今のライカは人間の服を着ている。




 落ち着いた青色のスカート。


 いつもの黒い衣も、青い宝石も見えない。


 村の中を歩いていれば、人間の少女に見えるかもしれない。


 けれど。


 こうして。


 何かを考えながらぼんやりと上を見ている姿は。


 やっぱり。


 いつものライカだった。


「……なんでもねぇ」


「そう?」


「ああ」


 ライカは少し不思議そうにしていたが。


 それ以上は聞かなかった。


 その時。


「あなた方は、ここで何をされているのですか?」


 不意に。


 玄関の方から声が聞こえた。


 全員が振り返る。


 開いたままの扉の向こうに。


 一人の女性が立っていた。


 腰は少し丸まり。


 右手には杖を持っている。


 年老いてはいるが。


 その表情からは、どこか柔らかな印象を受けた。


「誰?」


 エルが小さく呟く。


 けれど。


 カインは。


 その姿を見るなり、目を見開いた。


「あ、村長さん……!」


 女性も。


 カインの顔を見る。


 一瞬。


 驚いたように目を丸くした。


 そして。


 柔らかく笑った。


「おや」


 杖をつきながら。


 ゆっくりと家の中へ入ってくる。


「やっぱり帰ってきたんだねぇ」


「……はい」


 カインの声が僅かに揺れた。


 村へ入ってから。


 初めてだった。


 カインが。


 誰かから笑顔を向けられたのは。


「お久しぶりです」


「ああ、本当に久しぶりだ」


 村長はカインの顔をじっと見る。


「随分と顔を見せなかったじゃないか」


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


 村長は笑う。


「無事だったなら、それでいい」


「……はい」


 カインも。


 少しだけ笑った。


 フィリアはその様子を見ていた。


 村へ入ってから。


 誰もカインに声を掛けなかった。


 目が合っても逸らされ。


 戻ってきたことすら。


 歓迎されていないように見えた。


 けれど。


 この人は違う。


 それだけで。


 少しだけ胸の奥が軽くなった。


「ところで」


 村長はラグナたちを見る。


「こちらの方々は?」


「旅の途中で知り合った方たちです」


 カインが答える。


「僕がこの家を見に来るために、一緒についてきてくれました」


「そうだったのかい」


 村長はラグナたちへ頭を下げる。


「カインがお世話になったねぇ」


「あ、いや」


 突然頭を下げられ。


 ラグナは少し戸惑う。


「俺たちは別に、大したことしてないから」


「そうかい?」


 村長は楽しそうに笑った。


「でも、この子が一人じゃないって分かっただけで安心したよ」


「村長さん……」


 カインが小さく呟く。


 そして。


 ふと思い出したように、家の中を見る。


「そうだ。村長さん」


「なんだい?」


「この家……」


 カインはテーブルを見る。


「どうして、そのまま残っているんですか?」


「どうしてって?」


「誰も住んでいませんし、もう取り壊されているかもしれないと思っていました」


 村長は。


 不思議そうな顔をした。


 そして。


「ああ」


 ようやく意味が分かったように。


 小さく笑う。


「残しておいたんだよ」


「……え?」


 カインが目を見開く。


「あんたが、いつか帰ってくるかもしれないからね」


「……」


 カインは何も言えなかった。


 先ほど家の前で思った。


 間に合った。


 まだ残っていて良かった、と。


 けれど違った。


 偶然残っていたのではない。


「この家はね」


 村長がゆっくりと室内を見回す。


「あんたの父さんと母さんが、この村へ来て、ようやく手に入れた家だ」


 カインの手が首元へ伸びる。


 服の下にある琥珀を握った。


「私の一存で、なくしていいものじゃないよ」


「……ありがとうございます」


 ようやく。


 それだけ言った。


「礼なんていらないさ」


 村長は笑う。


「家ってのは、帰ってくる人がいるから家なんだから」


 カインは。


 何も答えなかった。


 ただ、もう一度室内を見回した。


 先ほどまでと同じ景色、同じ家具、同じ家。


 けれど、少しだけ違って見えた。


「カインのお父さんとお母さんも」


 リオンが口を開く。


「元々、この村の人ではなかったんですか?」


「そうだよ」


 村長が頷く。


「三人で、この村へやって来たんだ」


「僕が小さい頃です」


 カインが続ける。


「それ以前に住んでいた村のことは、ほとんど覚えていません」


「そうだったのね」


 フィリアがカインを見る。


「初めて聞いたわ」


「……ごめん」


「謝らなくていいわよ」


 フィリアは少しだけ笑う。


「今、話してくれたから」


 カインは一瞬黙って。


 それから。


「うん」


 小さく頷いた。


「でも」


 エルが首を傾げる。


「この村に来た時、大変じゃなかった?」


 村へ入ってからのことを思い出しているのだろう。


 村長は。


 少し困ったように笑った。


「大変だったねぇ」


「やっぱり?」


「この村の者は、昔から外から来た人間に厳しいからね」


 ラグナが眉を寄せる。


「カインたちにも、さっきみたいな感じだったのか?」


「ああ」


 村長は頷いた。


「むしろ、最初はもっと酷かったかもしれない」


「……」


 フィリアの表情が曇る。


 村長は。


 昔を思い出すように話し始めた。


「私は村長だったからね。三人がここで暮らしたいと言った時、受け入れた」


「でも、他の人たちは納得しなかったんですね」


 ルミナスが静かに尋ねる。


「そうだねぇ」


 村長は頷く。


「何をしに来たのか。いつまでいるのか。何か問題を起こすんじゃないか」


 小さく息を吐く。


「ずっと、そんな目で見られていたよ」


 カインは。


 何も言わずに聞いていた。


「それでも、あんたの父さんと母さんは諦めなかった」


 村長がカインを見る。


「畑仕事を手伝って。壊れた柵を直して。困っている家があれば顔を出して」


「……」


「少しずつ。ほんの少しずつだけどね。村の者たちも三人を受け入れるようになった」


 カインは。


 どこか懐かしそうに笑った。


「僕も、よく畑仕事を手伝っていました」


「ああ」


 村長も笑う。


「父さんと母さんがいなくなってからもね」


 フィリアが。


 カインを見る。


 魔族の村でも。


 カインは農具を直していた。


 畑仕事を手伝い。


 村の外へ食べ物を探しに行き。


 少しずつ。


 魔族たちの中に居場所を作っていった。


「……」


 それは。


 この村でも。


 同じだったのかもしれない。


「ようやく馴染んだと思った頃に」


 村長の表情が少しだけ寂しそうになる。


「あんたの父さんと母さんが亡くなった」


 カインは。


 琥珀を握ったまま。


 静かに頷いた。


「はい」


 それからも。


 カインは一人。


 この家で暮らした。


 畑仕事を手伝いながら。


 村人たちの中で。


 自分の居場所を失わないように。


「でもさ」


 ラグナが口を開く。


「なんで、この村はそんなに余所から来た奴を嫌うんだ?」


 村長がラグナを見る。


「昔からなんだろ?」


「……そうだねぇ」


 村長は。


 少しだけ考えるように黙った。


「今の村の者たちは、そう思っているだろうね」


「今の?」


 ラグナが聞き返す。


 村長は頷く。


「自分たちの親も。そのまた親も。余所から来た者には気をつけろと言われて育ってきた」


「じゃあ」


 リオンが尋ねる。


「最初から、そういう村だったわけじゃないんですか?」


「違うよ」


 村長は。


 ゆっくりと首を横に振った。


「この村だって、ずっと昔から余所者を嫌っていたわけじゃない」


 夕暮れの光が。


 窓から差し込んでいる。


 室内を。


 橙色に染めていた。


「私が生まれるよりも、ずっと昔のことさ」


 誰も口を挟まない。


 村長は。


 少し寂しそうな表情で。


 昔から村に伝わる話を語り始めた。


「ある日、この村に旅人たちがやって来た」


「旅人?」


 エルが聞く。


「ああ」


 村長は頷く。


「世界中を旅していたそうだよ」


「……世界中?」


 ラグナが僅かに眉を寄せる。


 村長は。


 一度だけ目を伏せた。


 そして。


 静かに言った。


「世界を救うために旅をしていた……勇者と、その仲間たちさ」

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