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第百七話 帰りたい場所

 夕食を終える頃には、すっかり日が暮れていた。


 昼間はラグナたちの姿を見つけるたびに魔族たちが集まり、あちらこちらから声を掛けられた。


 畑を手伝ってほしい。


 怪我を診てほしい。


 ハープを聞かせてほしい。


 村の外へ出るから護衛を頼みたい。


 久しぶりに訪れたはずなのに、まるで昨日までこの村にいたかのような扱いだった。


 ようやく解放された頃には夕方になっていて、そのままラグナたちは村長の家で夕食を囲むことになった。


 カインとフィリアも一緒だった。


 食卓では、これまでの旅の話をした。


 海を渡ったこと。


 海底神殿へ辿り着いたこと。


 砂漠の向こうにあるユリウス領へ行ったこと。


 カインたちも、ラグナたちがいなくなった後の村のことを話してくれた。


 笑い声の絶えない、賑やかな時間だった。


 やがて食事が終わり。


 一人。


 また一人と眠りについた。


 昼間の賑やかさが嘘だったかのように、魔族の村は静けさに包まれていた。


 ◇


 ライカは眠れずにいた。


 何か物音がしたわけではない。


 ただ、昼間から気になっていることがあった。


 村長の家を出る。


 夜の森は暗い。


 けれど木々の隙間から差し込む月明かりが、村の中を僅かに照らしていた。


 少し歩いたところでライカは足を止める。


 一人の女がいた。


 フィリア。


 家の壁に背を預けることもなく、ただ立ったまま空を見上げている。


 その横顔を見て、ライカは昼間に見た表情を思い出した。


『皆さん僕のことを受け入れてくださっています』


 カインがそう言った時。


 フィリアだけが、ほんの少し暗い表情をしていた。


 ライカはフィリアへ近付く。


 足音に気付いたのか、フィリアが振り返った。


「あら、起きてたの?」


「うん」


「眠れない?」


「そういうわけじゃない」


 ライカはフィリアの隣まで歩く。


 そして同じように空を見上げた。


 丸い月が浮かんでいる。


 二人は何も言わなかった。


 静かな夜。


 風もほとんどなく、木々も揺れない。


 遠くで聞こえていた虫の声も、いつの間にか止んでいる。


 ただ二人で月を眺めていた。


 どれくらいそうしていただろう。


 やがて、フィリアが静かに口を開いた。


「カインは、本当にこのままで良いのかって考えてしまうのよ」


 ライカは空から視線を外す。


 フィリアを見る。


 フィリアはまだ月を見ていた。


 けれどその横顔は、どこか不安そうだった。


「このまま?」


「この村にいること」


 フィリアは小さく息を吐いた。


「カインは、この村の魔族たちに捕らえられたでしょう?」


「うん。聞いた」


「それで、私が村から逃がした」


 人間というものを知りたかった。


 ただ、それだけだった。


 村で教えられてきたように、本当に人間は恐ろしい存在なのか。


 自分の目で確かめたかった。


 だからカインを牢から出した。


 二人で村を離れ、森の小屋で暮らした。


 そして魔物に襲われたカインが怪我をして。


 二人だけで生きていくことの危うさを知った。


「それで、またここに戻ってきた」


 フィリアが俯く。


「カインからしたら、魔族に捕らえられて、私に外へ連れ出されて……最後には、また魔族の村にいるのよ」


「……うん」


「カインには、他に帰る場所があったんじゃないかって思うの」


 ライカは黙って聞いていた。


「でも本人に聞いても、『僕は大丈夫だから』って。そればっかり」


 フィリアの声には、僅かな寂しさが混じっていた。


「人間の村にいた頃のことも、ほとんど話してくれないの」


「どうして?」


「たぶん、私に気を使ってる」


 フィリアは自分の手を見る。


「自分が人間の村の話をしたら、私が不安になると思ってるのよ」


「フィリアは、カインに人間の村に帰ってほしい?」


 ライカが尋ねる。


 フィリアはすぐに首を横に振った。


「そういうわけじゃないわ」


 迷いのない答えだった。


 けれど、その後。


 少しだけ言葉を探して。


「ただ、カインのしたいようにさせたいの」


 フィリアは再び空を見上げた。


「彼が本当にこのまま魔族の村で暮らしたいのなら、それで良いの」


 一度。


 言葉を切る。


「でも、人間の村に思い残していることがあるなら……それだって、おかしくないでしょう?」


「……うん」


「だって、ずっと暮らしてきた場所なんだから」


 帰る場所。


 その言葉を。


 ライカは心の中で繰り返す。


 少し前まで自分にとって帰る場所は、一つしかなかった。


 海底神殿。


 リリアナと暮らした場所。


 同胞たちがいた場所。


 長い間、一人で守り続けた場所。


 そこから出ることなど、考えたこともなかった。


 けれど、今はいくつもの場所を知っている。


 魔族たちが暮らす村。


 人間たちが暮らす村。


 砂漠の街。


 ラグナが育った村。


 セリナと、また会おうと約束した場所もある。


 もう一度訪れたいと思う場所が。


 少しずつ増えていた。


 それでも、海底神殿が大切ではなくなったわけではない。


「……帰る場所」


 ライカが呟く。


「え?」


「カインが帰りたい場所を聞く」


 フィリアがライカを見る。


「聞いてくれるの?」


「うん」


「……でも」


 フィリアは少し困ったように笑った。


「簡単には話してくれないと思うわ。私が何度聞いても、ずっと『大丈夫』なんだから」


 ライカは少し考える。


 そして。


「ラグナに相談してみる」


「ラグナに?」


「うん」


 ライカが頷く。


 フィリアは一瞬驚いたように目を瞬いた。


 それから。


 柔らかく笑う。


「……ありがとう」


 昼間に見た不安そうな表情とは違う。


 胸の内に抱えていたものを、ようやく誰かに話せた。


 そんな安堵が。


 その表情から伝わってきた。


「おやすみ、ライカ」


「うん。おやすみ」


 フィリアと別れ。


 ライカは村長の家へ戻ろうと歩き始めた。


 けれど。


 途中で、微かな音が聞こえた。


 しゃり。


 しゃり。


 何度も聞いたことのある音。


 ライカは足を止める。


 音のする方へ向かった。


 ◇


 村長の家から少し離れた場所。


 森が僅かに開け、小さな広場のようになっている。


 木々に遮られることなく月明かりが差し込み、地面を淡く照らしていた。


 その真ん中にラグナがいた。


 一人で地面に座り。


 剣を磨いている。


 しゃり。


 しゃり。


 一定の間隔で。


 静かな夜に音だけが響いている。


 ラグナが顔を上げた。


「あぁ、ライカか」


「うん」


 それだけ答えて。


 ライカはラグナの隣へ行く。


 そしていつものように座った。


 ラグナも何も聞かない。


 再び剣へ目を落とす。


 風はない。


 鳥の鳴き声もない。


 ただ月明かりと剣を磨く音だけ。


 昼間の賑やかさが嘘だったかのように、静かな場所だった。


 ライカは空を見る。


 どう話せばいいのか。


 フィリアから聞いたことを思い返しながら、言葉を選ぶ。


 その時。


「何かあったか?」


 ラグナが言った。


 ライカは空から視線を戻す。


「分かるの?」


「なんとなく」


 ラグナは剣を磨きながら答える。


「……前にさ」


「うん」


「ライカが、俺の剣を磨く音がいつもと違うって言っただろ」


 ライカは思い出す。


 ユリウス領の宿屋。


 あの夜。


 いつもより僅かに強く聞こえた剣を磨く音。


 それを聞いて。


『怒ってる?』


 そう尋ねた。


「うん」


「あれから、俺もなんとなく分かってきたんだ」


「なにが?」


 ラグナが剣から視線を外す。


「ライカ、何か言う前に空見るんだなって」


「……」


 ライカは。


 無意識に空を見上げた。


 月がある。


 そこで。


 はっとする。


 ゆっくりラグナを見る。


 ラグナは笑っていた。


「……そうかも」


「だろ?」


 にっと笑って。


 ラグナは再び剣を磨き始める。


「で、どうした?」


「……フィリアのこと」


「フィリア?」


「うん」


 ライカは。


 先ほど聞いた話をラグナへ伝えた。


 カインが本当にこの村で暮らし続けたいと思っているのか。


 人間の村に帰りたいと思っているのではないか。


 フィリアがそれを心配していること。


 そして。


 カイン自身は、人間の村についてほとんど話そうとしないこと。


 ラグナは途中で口を挟まなかった。


 剣を磨きながら最後まで聞く。


「カインが帰りたい場所、か」


 やがて、ラグナの手が止まった。


 今度はラグナが空を見上げる。


 ライカも同じように空を見る。


 今日のカインを思い返す。


 魔族たちと同じ黒い衣。


 耳に付けられた紫色のアメジスト。


『皆さん僕のことを受け入れてくださっています』


 そう言ったカインは嬉しそうだった。


 少なくとも、無理をしてこの村に残っているようには見えなかった。


 この村に馴染めたことをカイン自身も喜んでいる。


 ラグナには、そう見えた。


 けれど、だからといって以前暮らしていた人間の村に、何も思うところがないとは限らない。


 それはカイン本人にしか分からない。


「フィリアは、そこを心配してるんだろうな」


「うん」


「カインに聞いてみるしかないな」


「でも、フィリアには話してくれないって」


「そうみたいだな」


 ラグナは剣を見つめる。


 少しだけ考えて。


「……よし」


「?」


 ライカが首を傾げる。


 ラグナは剣を鞘へ戻した。


「考えがある」


「考え?」


「ああ」


 そして。


 ライカを見る。


「俺に任せてくれるか?」


 ライカは目を瞬いた。


 ラグナがそんなふうに言うのは。


 少し珍しい。


 いつもならまず皆で話して、皆で考える。


 けれど、今は何か思いついたらしい。


 ライカは少しだけ考える。


 そして。


「うん」


 頷いた。


 ラグナが笑う。


「分かった」


 それ以上。


 何をするつもりなのかは聞かなかった。


 ラグナがそう言うのなら、きっと大丈夫だと思ったから。


 静かな森の中。


 二人はもう一度、空を見上げる。


 木々の向こうには丸い月が浮かんでいた。


 カインにとって帰りたい場所はどこなのか。


 その答えはまだ分からない。

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