第百四話 信じて託すもの
村を包んでいた夜の静けさはすっかり消え、昇ったばかりの朝日が家々の屋根や畑を柔らかく照らしていた。
道を行き交う村人たちの声が聞こえ、遠くでは畑仕事へ向かう者たちの姿も見える。
そんな朝の村を、ラグナたちは揃って歩いていた。
向かう先は、村の外れにあるガルドの鍛冶場。
昨夜、ライカがガルドから渡された一枚の紙は、今はその手に握られている。
鍛冶場へ近付くにつれて、規則正しく鉄を打つ音が聞こえてきた。
昨日の夜とは違う。
いつもの鍛冶屋の一日が、もう始まっている。
「ガルド」
入口からラグナが声を掛けると、少しして鉄を打つ音が止まった。
「なんだ、朝っぱらから揃いも揃って」
奥から姿を現したガルドは、ラグナたちを一度見回してから、その中にいるライカへ目を向けた。
ライカは持っていた紙を差し出す。
「これ」
「昨日のか」
「うん」
ガルドは紙を受け取り、そこに書かれている文字へ目を落とした。
リリアナの刻には毎日水を与えること。
一度に大量の水を掛けるのではなく、少しずつ表面を濡らしていくこと。
水を与えた後は、柔らかな布で優しく磨くこと。
昨夜。
ライカが一つずつ話し、それをラグナが文字にしたものだった。
ガルドは最後まで読み終えると、紙を折り畳んで懐へしまった。
「分かった」
それだけ答える。
けれど、ライカはじっとガルドを見たまま動かなかった。
「……なんだ」
「どれくらい?」
「何がだ」
ライカは、鍛冶場の奥へ目を向ける。
そこには今、リリアナの刻がある。
「ブローチから外れるまで」
「ああ」
ガルドは少し考えるように腕を組んだ。
昨日の時点で、ある程度は構造を調べている。
随分と古い細工だった。
深海色の真珠を固定している金具も、長い年月の中で完全に馴染んでしまっている。
力任せに外すだけなら難しくない。
だが、ラグナから頼まれたのは。
傷一つ付けずに。
その真珠を取り外すこと。
そして今は、それがライカにとってどれほど大切なものなのかも知っている。
「……数ヶ月は見てくれ」
ライカの目が僅かに動いた。
「数ヶ月?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「ただ外すだけなら、そこまで掛からねぇ。だが傷一つ付けるなって話なら別だ」
金具を一つずつ調べる必要がある。
古くなった部分へ無理な力を加えれば、何が起きるか分からない。
真珠そのものには触れず、周囲の金具だけを少しずつ外していかなければならない。
「急いで失敗するくらいなら、時間掛けて確実にやる」
ガルドはそう言って、ライカを見る。
「だから数ヶ月だ」
「…………」
ライカは、ほんの少しだけ考えた。
数ヶ月。
何百年という時間を生きてきた自分にとって。
かつてなら。
それほど長い時間には感じなかったかもしれない。
けれど。
海底神殿を出てからの日々は違った。
毎日。
何かがあった。
知らない土地を歩いた。
知らないものを食べた。
人間と話した。
魔族と話した。
笑った。
泣いた。
怖いと思った。
嬉しいと思った。
一日という時間の中に、これほどたくさんのことがあるのだと知った。
だから、数ヶ月は長く感じる。
その間リリアナは自分の手元にいない。
毎晩水を与えることも、自分の手で磨くことも出来ない。
ライカは自分の胸元へ手を伸ばしかける。
そこにあるのは自分の刻だけ。
少しだけ寂しい。
それでも、ライカは顔を上げた。
「わかった」
静かな声だった。
けれど、迷いはなかった。
「お願いします」
その様子を見ていたエルが、少し心配そうにライカへ近付く。
「本当に良いの?」
ライカがエルを見る。
「しばらく会えないんだよ?」
エルは知っている。
ライカがどれほど長い間、リリアナの刻を探し続けてきたのか。
ようやく取り戻した。
それなのに。
また、数ヶ月もの間、自分の手から離れる。
ライカは少しだけ考えて。
「うん」
頷いた。
「ここにいるって分かってるから」
その言葉に、エルが目を瞬かせる。
ライカは鍛冶場を見る。
昨日まで。
知らなかった場所。
けれど今は。
そこにリリアナがいると知っている。
いなくなったわけではない。
失ったわけでもない。
どこにいるのか分からないまま、探し続ける必要もない。
ここにいる。
それが分かっている。
だから、離れていても大丈夫だった。
そして。
ライカはもう一度、ガルドを見る。
「それに」
ほんの少し。
口元を緩める。
「ラグナを育てた人だから平気」
ふわりと。
柔らかく微笑んだ。
「…………」
ガルドの目が僅かに見開かれた。
その言葉も、その表情も、予想していなかった。
ラグナも、少し驚いたようにライカを見る。
リオンは穏やかに笑い、エルも安心したように表情を緩めた。
ルミナスだけは。
ガルドの顔を静かに見ていた。
昨夜、この場所で聞いた話を覚えている。
一人で剣を振り続けていた少年。
その少年を何度も家まで担いだ男。
剣を持たせたくなかった男。
それでも十年間、ラグナを見守り続けた人。
そのガルドを。
ライカは。
ラグナを育てた人だから信じると言った。
「……まったく」
ガルドは困ったように頭を掻いた。
「朝っぱらから調子狂わせやがって」
それだけ言って、ライカへ背を向ける。
工房へ戻ろうと、数歩進んだところでその足が止まった。
「ラグナ」
呼ばれたラグナが顔を上げる。
「なんだよ」
ガルドが振り返った。
その表情を見て、ラグナは僅かに目を見開いた。
いつものぶっきらぼうな顔ではない。
冗談でも、呆れているわけでもない。
これまで見たことがないほど、真剣な表情で。
ガルドはラグナを見ていた。
「その嬢ちゃん」
一度、ライカを見る。
そして再び、ラグナへ視線を戻す。
「しっかり守ってやれ」
ラグナは、一瞬だけ何も答えなかった。
どうして急にそんなことを言うのか。
少し不思議だった。
けれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
迷いなんて。
最初から無い。
「言われなくてもそうするよ」
ガルドは。
その答えを聞いて。
ふっと笑った。
「……そうかよ」
それだけ言うと。
今度こそ振り返ることなく、工房の奥へ消えていった。
少しして、再び鉄を打つ音が聞こえ始める。
かん。
かん。
一定の間隔で、朝の鍛冶場に響いていく。
ラグナはしばらく、その奥を見ていた。
「なんだったんだ?」
首を傾げる。
ルミナスは、そんなラグナを見て小さく笑った。
「さあ、なんでしょうね」
「ルミナス、なんか知ってるだろ」
「どうでしょう」
「なんだよ、それ」
ルミナスは答えなかった。
昨夜のことは、今はまだ自分の中にしまっておこうと思った。
ライカも、ガルドが消えていった工房を見る。
そこにリリアナがいる。
数ヶ月会えない。
けれど、不思議と以前ほどの不安はなかった。
「行こうか」
ラグナの声に、ライカは顔を上げる。
「うん」
今度は、迷わず皆と一緒に歩き出した。
◇
旅支度を整え、ラグナたちは村の入口へ向かった。
次に向かう場所は、魔族の森。
カイン。
フィリア。
そしてルナ。
しばらく会っていない三人の様子を見に行くことにした。
この村から魔族の森までは、数日歩く旅が始まる。
村の入口へ近付くと、そこには何人かの村人が立っていた。
「ラグナ!」
声を掛けられ。
ラグナが手を上げる。
「おう!」
以前、この村から旅立った時とは少し違う。
見送りに来ている人の数が少なかった。
理由は考えるまでもない。
ラグナの隣。
そこには、黒い髪の少女がいる。
ライカ。
魔族。
ラグナが旅先で出会い、仲間として連れて帰ってきた少女。
昨日ラグナたちが村へ戻ってきた時、ライカの姿を見て警戒した村人もいた。
驚いた者もいた。
遠巻きに見ていた者もいた。
そして、最後まで近付かなかった者もいた。
人間と魔族は。
長い間争ってきた。
魔族は怖いもの。
人間を襲うもの。
そう思って生きてきた人間たちへ。
突然。
「この魔族は仲間だから」
そう言ったところで、全員がすぐに受け入れられるわけではない。
だから今朝、見送りに来なかった者たちがいる。
けれど、ラグナはそれを気にしなかった。
「随分と賑やかになったなぁ、お前の旅も」
一人の男が笑う。
「まあな」
「次はどこ行くんだ?」
「魔族の森」
「……お前、本当に魔族に縁が出来たな」
「そうか?」
「そうだよ」
男は呆れたように笑った。
その隣では、年配の女性がエルへ食べ物の入った袋を渡している。
「道中で食べな」
「いいの?」
「若いんだからちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「ありがとう!」
エルが嬉しそうに受け取る。
リオンも頭を下げ。
ルミナスも丁寧に礼を言った。
ライカは、少し後ろでその様子を眺めていた。
すると。
一人の男と目が合った。
昨日ラグナがライカを連れて帰ってきた時、不安そうな顔でガルドへ尋ねていた男だった。
魔族を村へ入れても大丈夫なのか。
そう心配していた男。
男はライカを見る。
ライカも男を見る。
少しの間、沈黙が流れる。
男の表情には、まだ僅かな戸惑いが残っていた。
それでも。
「……気をつけてな」
小さく。
手を上げた。
ライカの目が、少しだけ大きくなる。
自分への言葉だと、それが分かるまでほんの少しだけ時間が掛かった。
そして、ライカも小さく手を上げる。
「うん」
それだけだった。
魔族を好きになったわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
何もかもを理解したわけでもない。
ただ、昨日よりほんの少しだけ近くなった。
それだけ。
ラグナは二人の様子を見ていた。
そして、小さく笑った。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ」
「今度は黙って出て行くんじゃないぞ!」
誰かが。
大きな声で言った。
「もう出てるだろ!」
ラグナが笑いながら返す。
村人たちから。
笑い声が上がった。
「次帰ってきたら、ちゃんと顔見せろよ!」
「分かったよ!」
ラグナは手を振る。
そして、仲間たちと村の外へ向かって歩き出した。
リオン。
エル。
ルミナス。
ライカ。
以前、一人で村を出た時とは何もかもが違う。
見送りに来てくれた人は以前より少ない。
けれど、それでいい。
全員にすぐに分かってもらえるわけではない。
長い間当たり前だと思ってきたものを、突然全部変えることなんて出来ない。
それでも、今日ライカへ。
「気をつけて」
と言ってくれた人がいた。
それだけで、十分だった。
一人が変わる。
その姿を見てまた一人が考える。
そうやって、少しずつ広がっていけばいい。
ラグナはそう思った。
「ラグナ」
隣から。
声がした。
「ん?」
ライカが立ち止まっていた。
村の方を振り返っている。
ラグナたちも、少しだけ足を止めた。
ライカの視線の先には村がある。
その奥には、ガルドの鍛冶場がある。
ここからはもう見えない。
そこに、リリアナがいる。
「……ライカ?」
エルが優しく声を掛ける。
ライカは、もう少しだけ村を見つめた。
寂しくないわけではない。
本当ならずっと自分で持っていたい。
水を与えたい。
磨いていたい。
けれど、今は分かっている。
リリアナはいなくなったわけではない。
失ったわけでもない。
信じられる人に預けただけ。
「大丈夫」
ライカは小さく呟いた。
そして、前を向く。
「行こう」
今度は、ライカから言った。
ラグナが笑う。
「ああ」
再び五人の足が動き始める。
帰ってきた村が、少しずつ遠ざかっていく。
けれど、今度は何も置き去りにはしていない。
大切なものを信じられる誰かへ託して。
また前へ進む。
ラグナたちは、次の旅へ向かって並んで歩いていった。




