第百三話 ひとりではなく
夜も、随分と深くなっていた。
村の家々から漏れていた明かりはほとんど消え、昼間には人の声が絶えなかった道も、今は静まり返っている。
聞こえてくるのは、草むらから響く虫の声。
時折、木々を揺らして通り過ぎていく風の音。
そして、村の外れにある鍛冶場から僅かな物音が聞こえていた。
けれど、昼間のような鉄を打つ音ではない。
ガルドは鍛冶場の入口に置かれた木箱へ腰を下ろしていた。
指には、一本の煙草。
赤い火が暗闇の中で小さく揺れている。
ゆっくりと煙を吸い込み、夜空へ吐き出す。
白い煙は風に流され、すぐに夜の闇へ溶けていった。
その隣には、ルミナスが立っていた。
二人の間に会話はない。
それでも気まずい静けさではなく、ガルドは煙草を吸い、ルミナスはその隣で静かに夜空を眺めていた。
やがて、ガルドが口を開いた。
「ラグナが記憶を無くしてるって話は、前にしたな」
突然の言葉に、ルミナスはガルドを見る。
「はい」
以前、この村を訪れた時に聞いたことがある。
幼い頃のラグナは、記憶を失った状態でガルドに拾われた。
それ以前に何があったのか。
自分がどこで生まれ、どんな家族と暮らしていたのか。
ラグナ自身にも分からない。
「そして、飽きもせず毎日剣を振り続けてたってことも」
「……はい」
それも聞いていた。
十年間、ラグナはひたすら剣を振り続けた。
勇者になれなかった。
それでも世界を救うことを諦められなかった。
だから、自分に出来ることを探して剣を振った。
毎日。
何年も。
「朝起きりゃ剣、仕事が終わりゃ剣」
ガルドは煙草を口元へ運ぶ。
「飯食ったら、また剣だ」
ルミナスは少しだけ目を細めた。
「ラグナらしいですね」
「らしいで済ませられるか」
ガルドは呆れたように煙を吐いた。
「雨が降ってようが、身体が痛かろうが関係なしだ」
「止めても?」
「聞くと思うか?」
ルミナスは少し考えた。
旅の途中、皆が眠りについた後も一人で剣を振っているラグナの姿を、何度も見てきた。
「……思いません」
「だろうな」
ガルドはまた煙草を吸った。
「休むことも忘れて、気絶したあいつを何度家まで担いだことか」
ルミナスは思わずガルドを見る。
気絶するまで剣を振る。
そこまで聞けば普通なら驚くのかもしれない。
けれど、ルミナスの頭に浮かんだのは、旅を始めてから何度も見てきたラグナの姿だった。
夜、皆が眠った後も一人で剣を振った後、剣の手入れをしている。
朝になれば、何事もなかったように起きてくる。
自分の疲れよりも誰かのことを優先して、無理をしていることに本人だけが気付いていない。
「なんだか……想像が出来ます」
ガルドが横目でルミナスを見る。
「だろうな」
「今でも、皆が眠った後に一人で剣を振っていることがあります」
「…………」
ガルドの眉間に深い皺が刻まれた。
「あの馬鹿、まだやってんのか」
「以前よりは、休んでいると思います」
「お前らで止めろ」
「はい」
ルミナスは素直に頷いた。
少しの間、また静かな夜が戻ってくる。
ガルドは短くなった煙草を眺めてから、ぽつりと呟いた。
「……俺はな」
先ほどまでとは、少し違う声だった。
「本当は、あいつに剣なんざ振ってほしくなかった」
ルミナスは何も言わず、ただガルドを見る。
「まだガキだった。記憶もねぇ、親が誰かも分からねぇ、自分がどこから来たのかも分からねぇ」
ガルドの視線は、どこか遠くへ向いていた。
目の前に広がる夜の村ではなく、もっと昔。
自分が連れて帰ってきた、一人の少年を見ているようだった。
「それなのに、世界を救うんだって。それだけは忘れてなかった」
どうしてなのか、本人にも分からない。
何故そこまで世界を救いたいのか。
何故そこまで強くなりたいのか。
それでも、ラグナは剣を振り続けた。
「最初は、そのうち飽きると思ってた」
子どものすること。
しばらくすれば、他のものへ興味が移る。
ガルドはそう思っていた。
けれど、一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一月が過ぎても、ラグナはやめなかった。
「だから、どうにかしてやめさせたかった」
ルミナスが静かに尋ねる。
「どうしてですか?」
ガルドはすぐには答えなかった。
指に挟んだ煙草から、細い煙が夜空へ昇っていく。
「……剣ってのはな、傷付けるもんだ」
ルミナスは黙って聞いていた。
「どんなに綺麗に作ったところで、どれだけ大事に手入れしたところで、使い方を間違えりゃ人を傷付ける」
ガルドは鍛冶場の中へ目を向ける。
そこには今日も、いくつもの道具が置かれている。
人を守るための武器も、生活を支えるための道具も、同じ鉄から作られている。
「誰かを傷付ける。誰かの大事なもんを奪う。そういうことが出来る道具だ」
ガルドは再び煙草を口元へ運び、ゆっくりと煙を吐いた。
「そんなもん、まだ子どものあいつに持たせたくなかった」
ルミナスは何も言えなかった。
ガルドはラグナに剣を教えた人。
ずっと、そう思っていた。
けれど、違った。
ガルドはラグナに剣を持ってほしくなかった。
「でも、ラグナは剣をやめなかった」
「……ああ」
ガルドは苦々しく笑った。
「しつこいガキだった」
それでも、無理矢理取り上げることはしなかった。
取り上げたところで、きっとラグナは木の棒でも振っただろう。
自分で何かを探し、また同じことを始めただろう。
ならせめて、剣というものを簡単な道具だと思わせたくなかった。
「だから毎日、手入れをやらせた」
「手入れを?」
「ああ。しつこいくらいにな」
刃を拭く。
汚れを落とす。
欠けがないかを見る。
鞘を確かめる。
柄に異常がないか調べる。
剣を振った後は必ず、どれだけ疲れていても、どれだけ眠そうでも手入れをさせた。
「面倒臭ぇって思えばいいと思った。剣なんか嫌になりゃいいってな」
振るだけでは終わらない。
持つなら責任を持つ。
使ったなら、自分で最後まで面倒を見る。
そんなことを毎日繰り返せば、いつか嫌になるだろうと思っていた。
「でも、毎日やりやがった」
ルミナスの口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「それも、想像出来ます」
「だろうな」
どれだけ疲れていても、ラグナは剣を手入れした。
一日も欠かさず。
そして次の日になれば、また剣を振った。
「結局、俺の方が先に諦めた」
剣をやめさせることを。
ラグナは十年間、剣を振り続けた。
そして、ある日。
何も言わず、村からいなくなった。
「黙って旅に出やがった時は、帰ってきたら一発殴ってやろうと思った」
「殴ったのですか?」
「殴ってねぇ」
即答だった。
ルミナスは少しだけ笑った。
「そうですか」
「なんだ」
「いえ」
「何がおかしい」
「何でもありません」
ガルドは気に入らなそうに鼻を鳴らしたが、それ以上追及はしなかった。
再び煙草を吸う。
赤い火が、暗闇の中で僅かに明るくなる。
「……それで」
ガルドがぽつりと続けた。
「帰ってきたと思ったら、随分と仲間を増やしてやがった」
リオン。
エル。
ルミナス。
そして今回は、さらに一人。
「あげく、魔族の嬢ちゃんまで連れてきやがった」
ルミナスはライカの姿を思い浮かべる。
「ライカですね」
「そうだったな」
「ラグナの大切な仲間です」
「見りゃ分かる」
ガルドは短く答えた。
鍛冶場から、ラグナたちがいる家は見えない。
少し離れている。
今、ラグナが何をしているのか。
何を話しているのか。
ガルドには分からない。
ただ、ライカがラグナのところへ戻っていったことは知っている。
紙を持って、ラグナに書いてもらえと言ったのは自分なのだから。
「今も、ラグナとライカは一緒にいると思います」
ルミナスが静かに言った。
「ああ」
ガルドは夜の村へ目を向ける。
姿は見えない。
それでも。
「知ってるよ」
その声は、少しだけ穏やかだった。
「昔は、一人だった」
ガルドが言う。
朝も。
昼も。
夜も。
一人で剣を振っていた。
倒れるまで振り続けて、その度にガルドが家まで担いで帰った。
「今は、お前らがいる」
ガルドがちらりとルミナスを見る。
リオンがいる。
エルがいる。
ルミナスがいる。
そして、ライカがいる。
自分の知らない場所でラグナはいろんな人間と出会い、魔族と出会い、その隣を歩いてきた。
「旅に出て、あいつが何をしてきたのか、俺は知らねぇ」
「……はい」
「何を見て、誰と会って、何を考えたのかもな」
ルミナスは黙って聞いていた。
「でも、お前らと一緒にいるあいつを見りゃ」
ガルドは短くなった煙草を見つめる。
「あいつなりに、良い方に成長したんだろうってのは分かる」
ルミナスは目を伏せた。
ラグナと出会った時、彼はもう一人ではなかった。
リオンがいた。
エルがいた。
二人と共に私を育ててくれた。
歩き方を。
言葉を。
世界を。
たくさんのことを教えてくれた。
だから私は、知らない。
誰もいない場所で、ただ一人剣を振り続けていた頃のラグナを。
けれど、ガルドは知っている。
十年間。
ずっと見てきた。
だからこそ、今のラグナが誰かと一緒にいる。
ただそれだけのことがこの人にはきっと、とても大きなことなのだ。
「……嬉しいのですね」
ルミナスが言った。
ガルドがゆっくりと顔を向ける。
「何がだ」
「ラグナに、一緒にいてくれる人たちが出来たことです」
「…………」
ガルドは何も言わない。
煙草を一度、深く吸う。
「違いますか?」
しばらく沈黙があった。
やがて、ガルドはゆっくりと煙を吐いた。
「……お前、あいつに似て余計なところだけ鋭いな」
ルミナスは少し考える。
「それは、褒められているのでしょうか?」
「好きに取れ」
「では、褒められたことにします」
「勝手にしろ」
ルミナスは小さく笑った。
ガルドは呆れたようにもう一度煙草を口元へ運んだが、その表情はどこか穏やかだった。
「剣なんざ、一人でも振れるからな」
ガルドがぽつりと言う。
ルミナスは、その横顔を見る。
赤い火が、小さく揺れる。
「でも、生きてくのはそうじゃねぇ」
ルミナスは何も言わなかった。
その言葉を、静かに受け取る。
ラグナは今も剣を持っている。
きっと、これからも剣を手放すことはない。
それでも。
もう、一人で剣だけを振っていた少年ではない。
帰る場所がある。
待っている人がいる。
隣を歩く仲間がいる。
そして今夜も、誰かがその隣にいる。
「……あいつも、少しはまともになったんだろ」
ガルドは小さく息を吐いた。
ルミナスは笑って、静かに頷く。
「はい。私も、そう思います」
ガルドは何も答えず、短くなった煙草を足元の灰皿へ押し付けた。
赤い火が消える。
二人のいる鍛冶場に、静かな夜が戻ってくる。
少し離れた場所にいるラグナの姿は、ここからは見えない。
それでも。
もう一人ではないことだけは、分かっていた。




