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カルマン嬢と恋愛譚  作者: じじ
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王女と金の涙1





 満月の夜だった。

 影がくっきりと見えるほど明るかった。窓から漏れる月光は、ベルの牢へと続く石段の傷まで照らし出している。

 いい天気ではないな、とリリアンは思った。彼は鍵束を握りしめ、足を速めた。


 牢の前にたどり着いたリリアンの耳に届いたのは、ベルの囁き声だった。刑を待つ囚人は背を向け、部屋の隅を見上げるようにして立っていた。囁きだと思われたものは歌だった。子守歌のようである。


「なんて歌なんだ?」


 彼は彼女の背中に声をかけた。秘密の歌ですわ、とベルは部屋の隅を見上げたまま答えた。


「苦しくなくなる、怖くなくなる魔法の歌ですの。……幼い頃、母がよく歌ってくれましたわ」


「怖いのか」


「まさか。自分のためじゃありませんわ」


 その子に歌ってましたの、とベルはスッと視線の先を指差した。そこには蜘蛛の巣があった。薄汚い壁の隅に張り巡らされた糸に、褐色の蛾が絡め捕られている。どうやら巣の主は留守らしかった。


「ずっと苦しそうにもがいていましたのよ。でも、もう動かなくなってしまいました」


「そうか」


 リリアンは格子の錠前を外すと、中に足を踏み入れた。

 彼はまるで花に留まった蝶を捕まえようとする子供のように、ゆっくりと静かにベルに近づいた。彼女を怖がらせたくないからか、自分が怖いからか、彼自身には分からなかった。ベルの一歩前まで来るとリリアンは足を止めた。


 ベルはふり向いた。細められた目の下には隈が見える。腰まで伸びた髪は傷んでいた。手足は病的なほど白く、顔にも血の気はなかった。それでも、彼女が離れれば後を追うだろう。彼女が逃げれば捕まえようとするだろう。この牢に閉じ込めるためでなく、彼女の傍で彼女の話を聞くために。

 リリアンはベルと向かい合ったまま、立ち尽くしていた。


 ふと、ベルの痩せた頬が動いて微笑みが浮かんだ。


「もう時間なんですの? ずいぶん早いのですね」


「できるだけ早い方がいい」


 彼はベルの足枷を外した。そして、ベルを見据えると手を差し出した。


「一緒に逃げよう」


 ベルは目を伏せた。リリアンは彼女の返事を待った。


 シモンの言葉が頭に浮かんだ。彼は急に不安になった。”口を利くだけでも不名誉な”俺たち、には触れられたくないのではないか。口を利くことは構わなくとも、触れることは許していないのではないか。


 ベルの拒絶を目に映すことを恐れて、彼は目を閉じた。

 しばらくして、彼の手に暖かいものが触れた。わずかな重みが手に広がる。リリアンは目を開けた。

 ベルは差し出された手に、自分の手を重ねていた。






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