帰郷 5/7
全7話中5話目です。
本編第一章第十三話の内容が大きく関わってきますので、よろしければ復習してからお進みください。笑
「……まさか、主は――」
アンバーが見せた突然の気迫に、エドガーはやや仰け反り気味だった。
彼女が確かめようとしていることは余程重要なことであるらしく、アンバーはやや興奮気味の口調でエドガーに問うた。
「あの作戦の日、怖くて足腰が立たず震えておった子狐を覚えておらぬか!? 森の奥で主が殺さずに見逃した、一匹の小さな子狐を……!」
「お前さん、どうしてそれを……!? 誰にも話したことなんかないんだが……」
アンバーとエドガーの間でのみ何かが通じたようで、キャシーとクリスは目を丸くしていた。
これまで連れ添ってきたジェードですら、アンバーが一体何の話をしているのかわからない――しかしそれも当然といえば当然だった。
あの妖狐駆逐作戦がアンバーの胸にどれほどの深い傷を刻んでいるのか、ジェードは痛いほどよく知っている。
だからこそ彼は、アンバーの前であの日の話題を出さないよう心掛けてきたし、あの日を想起させるようなもの――例えば狩人のための猟銃を扱っている店や商人などには極力近づかないよう意識してきたのだ。
ところがアンバーはあろうことか、食い入るように自らあの作戦の日のことを語り始めた。たとえ悪夢の記憶が蘇ろうとも、アンバーには確かめておかなければならないと考える何かがあるのだと、ジェードは彼女の姿を見てそう感じたのだった。
「……いや、わかったぞ。お前さん、もしかして……!」
「そうじゃ、わしじゃ……。わしは主の前で震えておることしかできんかった、あのときの子狐じゃよ……ッ!」
その返答にエドガーも思わず立ち上がった。
しかし彼はその後すぐ、腰が抜けたように再び椅子に座り込み、右手で頭を抱えた。
「こいつは驚いた……まさかあのときの子狐がうちに嫁いでくるなんて……!」
「なに~? 父さんと義姉さん知り合いだったの~? とりあえず、話が見えないから説明してもらっても~?」
間の抜けた声で割り込んだクリスの指摘ももっともだ。
息子の問いで冷静さを取り戻したのか、エドガーは紅茶を飲んで息をつくと、あの妖狐駆逐作戦のことを語り出した。
商人の街にいる狩人たちを集め、森に住む妖狐を一掃しようと決行されたあの作戦。エドガーは街の大商会の命令により仕方なく参加したに過ぎなかった。
妖狐を害獣と呼び忌み嫌っていた狩人たちは、森で発見した妖狐を片っ端から猟銃で撃ち殺していった。
そして妖狐たちの反撃により予想外の被害を出した狩人たちは、作戦の途中で撤退を余儀なくされたのだという。
しかしそれでも狩人たちが仕留めた妖狐の数は数十匹にのぼり、森に棲んでいた妖狐の群れは半分以下の規模になったとまで言われたらしい。
「――だが俺は、もともとこの作戦には乗り気じゃなかった。俺は料理人として、生き物を殺すのは食うときだけと決めてたからな。ただ殺すためだけに銃の引き金を引くことは、俺にはどうしてもできなかったんだ。だから実はあの日、俺は一匹たりとも妖狐を殺しちゃあいない」
未だに立ち上がったままエドガーの話に耳を傾けるアンバーは、微かに震える両手を胸の前で握りしめていた。
その間に話は一段落したようで、エドガーが俯いたまましばらく沈黙が流れた。
父親の話を整理すると、まだ子どもだった頃に例の作戦に巻き込まれたアンバーは、森の中でエドガーと対峙したようだ。しかし彼はアンバーを殺さずに見逃し、森を去ったということだろうとジェードは解釈した。
まさか自分の妻と父親にこのような意外な接点があったなど想像もしなかった。驚きすぎて声も出ないどころか、呼吸することも忘れてしまいそうだった。
「本当に……本当にすまなかった……ッ!! 人間は取り返しのつかないことをした。妖狐らには一生恨まれたって文句は言えねえ……!」
「そんな……顔を上げてくれ! 主は誰の命も奪っておらぬのじゃろう?」
もう一度立ち上がったエドガーは、アンバー向けて深々と腰を折った。
両手を振ってあからさまに慌てたアンバーは、ジェードの方をちらちらと見やって助けを求めている。それに気づいたジェードは「まあまあ、父さん」とひとまずエドガーを宥めた。
「そんなんじゃ、きちんと話ができないだろう? 一度顔を上げて、アンの話を聞いてやってはくれないかい?」
息子の言葉に渋々顔を上げたエドガーは、あの作戦のことを余程悔いているのだろう、唇を噛みしめていた歯形がくっきりと残っていた。
父親も落ち着き、ジェードが頷いて合図すると、アンバーはそっと口を開いた。
「あの日妖狐らが受けた傷は本当に深い。それはあれから何年も経った今でも癒えぬほどにじゃ――」
唇が震えるのを必死に律して、アンバーは言葉を紡ぐ。ジェードもエドガーも、キャシーもクリスも、ただ黙して彼女の声を胸に刻む。
家族となった彼女らの間に、思わぬところで繋がった過去のわだかまりを残したままにするわけにはいかないのだ。
「――じゃが、人間らも同じ被害者ではないか。妖狐らだって、人間らのことを理解しようと歩み寄ったことはなかった。それができていれば、互いにあのような悪夢をみずに済んだかも知れぬというのに」
ジェードはアンバーの言葉にはっと息をのんだ。
互いを理解するために歩み寄る――それは十五年前の芸術の街で、人間と尾人の関係を改善しようとジェードが口にした言葉だ。
アンバーが彼の言葉に影響されやすいことは知っている。しかし、自分の思想や言葉がこれほどはっきりと彼女の中に根付いていることを実感すると、少しばかり照れ臭くも思えた。
「じゃからあの日のことは、主がたった一人で背負ってよいようなものではない。もちろん主ら人間だけ、もしくはわしら妖狐だけで背負うべきものでもない。主ら人間はあの日のことを忘れ去ってはならぬが、そのために苦しんでもらいたくはないのじゃ。そしてそれはわしら妖狐も同じこと。ならば歩み寄って共に背負えば、重さは半分で済むじゃろう?」
そう言って微笑む妻の横顔が、ジェードにはとても誇らしく思えた。
ジェードと共に旅をし、アルスアルテの一件を経験したアンバー。彼女はあの妖狐駆逐作戦の悪夢を、人間も妖狐も関係なく、教訓として共に心に刻みたいのだ。もう二度と同じ過ちを繰り返さないために。そしてこの街の人間と妖狐が手を取り合っていけるように。
罪悪感を噛みしめるような顔でアンバーの話を聞いていたエドガーも、彼女の言葉にようやく表情を緩めた。
キャシーもクリスも、どこかほっとしたような顔でアンバーを見ている。もはやジェードが助け舟を出す必要はなさそうだった。
「やっぱりあのとき、引き金を引かなくて本当によかった。そのおかげでこんな素晴らしい嫁さんがきてくれるなんて、考えもしなかったな」
「わしはただ、主様から学んだことをそのまま言うておるだけじゃ。主の言うような大層なものではない」
「ああ、そうそう。ずっと引っ掛かってたんだが――」
照れて謙遜するアンバーに、エドガーが不意に切り出した。
何事かとアンバーは目を丸くし、大きな耳をぴくりと動かしてエドガーの言葉を待っていた。
「お前さんのその"主"って呼び方、どうにもモヤモヤするんだよなあ。息子の嫁さんなのによそよそしいというか」
「……? そう言われても、他になんと呼べばよいのじゃ?」
「あら、さっき主人が言ったでしょう? アンちゃんはジェードのお嫁さん――つまり、もう私と主人の娘になったのよ?」
嬉しそうに会話に混ざってきたのは、ジェードの母のキャシー。
彼女の言葉にアンバーが思い出したようにハッとなると、エドガーがにやにやしながらようやく椅子に腰掛け直した。
「だったら、お前さんが俺たちのことをなんて呼べばいいか、もうわかるはずだな?」
未だに立ち尽くしたまま困惑の表情を隠せないアンバーは、何かを呟こうとしては躊躇って口をつぐんでを繰り返していた。
そのまましばらく時間が流れたような、はたまたほんの少しの沈黙だったような、ジェードにはもう区別もつかなくなってしまった。
それでも彼は口を挟まず、じっとアンバーの言葉を待ち続ける。そしてようやくアンバーは、吐息のような小さな声をそっと発した。
「…………お義父様……?」
いかにも自信がなさそうなアンバーの声を、エドガーが深く頷いて肯定する。
するとアンバーは次にキャシーの方へと視線を向けた。
「…………お義母様……?」
キャシーもエドガー同様に頷いてみせる。
その後アンバーは呆然と立ち尽くしたままであったが、やがて彼女の頬の上を真っ直ぐに伸びた一筋の雫をジェードは見逃さなかった。
「……あ、れ……どうしたのじゃろうな。……急に、なんだか、目が……」
涙を隠そうとするかのように、アンバーは慌てて目元を拭う。
ジェードは椅子から立ち上がって、そんなアンバーを宥めるようにそっと肩を抱いてやった。
彼に触れてほっとしたのか、アンバーは急にくしゃりとした顔になってジェードの胸元に飛び込んできた。
「まさかもう一度呼べるなど、思っておらんかった……! 誰かをこう呼ぶことなど、わしはもう二度とないと思っておったのに……!」
胸元で泣きじゃくる妻の背中を優しくさすってやるジェード。アンバーの言葉と涙の意味は、わざわざ問い詰めなくとも彼には十分わかっていた。
娘が産まれ、母親としての自覚が強くなったアンバーも、ジェードの前ではこうして素直な思いを告げてくれるし、弱いところも見せてくれる。
自分の両親や兄弟たちが彼女にとって同じような存在になってくれればと、ジェードは一人ひっそりと願ったのだった。
「……すまぬ。取り乱してしもうたな」
少し泣いて落ち着いたのか、鼻をすんとすすったアンバーは再び席についた。
それに合わせてジェードも腰掛け直す。そのときに見えた妻の表情は、目元は赤いものの今日一番の笑顔であった気がした。
「ならばわしも、自慢の娘になれるよう精進せねばな。世間知らずで未熟な妖狐のわしじゃが、お義父様、お義母様、どうかこれからよろしく頼む」
こちらこそ、と笑いかけたエドガーとキャシー。少しにやついたクリスもなんだか嬉しそうにしている。
どうやら今回の里帰り一番の心配事は、これにて一件落着のようだ。
「――ちょっと、ジェード兄さんッ!!」
すると背後から、妹のパールが呼ぶ声がした。
何事かと振り向くと、何故だか瞳をキラキラさせて兄の方を見るパールの姿がそこにあった。
「サナちゃんに耳! 耳が! あと尻尾も! どうしよう、可愛すぎるよッ!!」
どうやらサナはパールに妖狐の耳と尻尾をお披露目したようで、それが気に入ったパールは半ば錯乱しているようだった。
「あはは。そりゃあ、妖狐の子なんだから当然だろう?」
「あとさ、あとさ! サナちゃん四歳って言ってたけど、絵上手すぎない!? 私の方が下手だったんだけど、何者なの!?」
「そりゃあ、絵描きの子なんじゃから当然じゃな。毎日主様の真似をして絵を描いておるしの」
両親や弟は目の前の親馬鹿夫婦を呆れた風に笑っている。しかし今はそれがなんとなく心地よい。
これからは妻と娘も同じ家族の仲間入り。旅に出た当時はこのような日がくるなど、まるで想像もしていなかった。
二人でいると、本当に信じられない出来事にたくさん出会う。そんな経験をこの家族と共に数多く積み重ね、これからも心を肥やしていけるのだと思うと、翡翠と琥珀は零れる笑みを抑えきれなくなるのだった。




