帰郷 6/7
全7話中6話目です。
「そんで、ジェード。お前さんらはいつまでこっちにいられるんだ? まさか明日にはもうアルスアルテに帰るなんて言わないよな?」
ジェードの父、エドガーが妙にそわそわしながら尋ねてきた。
厳しかった父が、しばらく会わない間に随分丸くなったような気がして、ジェードが少し笑い出しそうになってしまったのはここだけの話だ。
「まさか。あれだけ時間をかけてここまで帰ってきたのに、一日二日で帰ろうなんて思ってないよ」
「さすがは俺の息子だ! せっかくかわいい嫁さんや孫が来てるんだからなあ。いやあ、腕が鳴るってもんだ」
そう言ってエドガーは腕まくりをし始めた。
彼の職業は料理人だ。父親の張り切った様子からして、きっと今夜の食卓にはご馳走が並ぶのだろうということは、ジェードにもすぐに察しがついたのだった。
「私も、アンちゃんともっといろんなことを話してみたいわ」
「わしもじゃ、お義母様! 何から話せばよいかのう!」
ジェードの母のキャシーは、目を輝かせて前のめりになったアンバーを嬉しそうに見ている。
嫁と姑の関係と言えば昔から面倒な印象があるが、天真爛漫なアンバーと淑やかなキャシーはうまい具合に意気投合したようだった。
「そうだ。義姉さんって北の森から来たんだよね~? てことは、あの森には仲間がいたりとかするわけ~?」
不意に、緊張感のない口調のクリスがアンバーに問いかけた。
その問いを受けて表情を固めてしまったアンバーは、返答に困っているのか徐々に耳が垂れ下がっていった。
「おる、というよりは……おった、というべきかの」
少し表情を曇らせてしまったアンバーの様子を受け、彼はどうしてこうも空気の読めない問いばかり口にするのかとジェードが再びクリスを睨む。
しかしクリスはまたも自分の失言に気づいていないようで、ジェードに対しては首を傾げていた。
「わしと主様がこの街を旅立つ前に、あの森には一度火が放たれたからの。あのときは小さな被害で済んだが、あのあと森がどうなったのかは……嫌でも想像がつく」
忘れもしない、ジェードとアンバーが旅立つ前日の夜のこと。
当時プラムの大商会はさらなる商業地区の拡大を目指し、プラムの北に位置する貧民街を燃やして更地とし、その先の森まで焼き払おうと計画していた。
それを阻止しようとジェードは一人立ち上がったものの、結局彼の力はそこまで及ばなかった。その際に騒ぎを起こしてこの街に居づらくなったことが、ジェードが旅に出る決心をしたきっかけのひとつになっている。
ジェードとアンバーはその騒ぎの直後には街を去った。しかし、その後大商会によって再び計画が進んだことや、それに伴って妖狐たちが森を去ったことは容易に想像がついたものだ。
「……あっ、なるほど。義姉さんは、北の森はもうとっくに燃やされちゃったと思ってるんだ? ごめんごめん、言葉足らずで」
「……違うのかい?」
へらへらと笑って謝るクリス。できればここで一喝してやりたいところであったが、それよりも彼の口にした言葉が気がかりで、ジェードはつい説明の続きを求めてしまっていた。
クリスの語り口はまるで、北の森が今もまだ残っているとでも言いたげなのだ。
「そうか、知らなかったのか。実はな、ジェード。お前が旅に出たあと、プラムでは大商会に対して抗議運動が頻発するようになったんだ。例の駆逐作戦といい森の焼却といい、そこまでする必要が本当にあるのか、ってな」
クリスの代わりに説明してくれたのは、父のエドガーだった。
故郷でそのようなことが起こっていたなど聞いたこともない。ジェードはつい前のめりになってエドガーに話に聞き入ってしまっていた。
「ならもしかして、あの森は……!?」
「安心しろ。もう焼けちまった貧民街は開拓されてるが、北の森は今も当時のまま残ってる。街の住民に抗議運動まで起こされて、さすがにあの大商会も方針を改めざるを得なかったってわけだ」
「本当に!? 嘘じゃないだろうね!?」
「嘘ついてどうすんだよ。変なことを聞くヤツだなあお前は」
まさか自分のいないところでそのような奇跡が起きていたなんて知らなかった。
アンバーとの思い出が詰まったあの森はもう失われているんだと諦めていただけに、胸が躍るような気持ちが沸々と湧き上がってきて抑えきれない。
その思いを共有したくてジェードが振り返ると、アンバーは両手で口元を抑えて言葉を失っていた。
ついさっきジェードの胸で泣いたばかりだというのに、彼女は再び目に涙をたっぷりと溜めている。きっと彼女の思うところは、ジェードの感動よりもはるかに強いものがあるのだろう。
「いかにも他人事みたいに言ってたけどさあ。その抗議運動を最初に始めたのって、実は父さんだったんだよ~。そしたらどんどん同志が増えてってさあ~。いやあ、人の行動力って凄いよねえ~」
「なッ……! クリス、お前ってやつはどこまで空気が読めないんだ! 余計なことを言うんじゃない!」
急に顔を真っ赤にしたエドガーは、クリスに一発拳骨を見舞っていた。
痛いよお~、なんてへらへら笑っているクリスだが、その後の口数が減ったあたりなかなか効いているようだ。
正確には大商会への抗議を最初に行ったのは他でもないジェードなのだが、あの森さえ無事ならば彼は今更それを訂正することなどどうでもよかった。
「とにかく、だ。そんなにあの森が気になるってんなら、実際に見に行ってみるといい。森には妖狐の群れもまだ残ってたはずだ」
「よし。それなら善は急げだ。行ってみよう、アン!」
呆然と立ち尽くしていたアンバーは、ジェードの呼びかけで我に返ったのか、ごしごしと涙を拭って「うむ!」と答えたのだった。
*****
プラムの街の大通りを、突然のことに事情もよくわかっていないサナを連れて歩く。
止まることなく北へ北へと進んでいくと、その先に真新しい舗装道路と建物が並ぶ区画が見えてきた。
ジェードの記憶にない街並み。おそらくはここが貧民街の跡地を開拓して作られた商業区画だ。
しかしそこでは立ち止まらずにさらに北へ。すると程なくして街の北の出口が見えてくる。そしてその先には、青々と茂る木々が光を遮った薄暗い森林が広がっていた。
「本当じゃ……まだ残っておる……」
小さな独り言を零すアンバーと共に、太い木の根が張り巡らされた足場の悪い森へと入っていく。
はぐれることがないよう、サナの手はアンバーがきちんと握っている。しかしアンバーもサナも、聴覚や嗅覚が人間より遥かに優れていることを考えれば、最も迷子の危険があるのは自分かもしれないなんてジェードは考えていた。
さすがに十五年も経っていては、かつてアンバーと共に歩いた獣道がどれなのかさっぱりわからない。
それでも、ひたすらに茂みを掻き分けて進む先に川のせせらぎが聞こえてきたからほっと一安心だった。
「……着いた……!」
砂利を敷き詰めたような足元。涼しさを感じさせる透き通った水の音が耳に心地よい。
ここは、ジェードとアンバーが出会ったばかりのころに通い詰めた森の川辺。旅に出るよりも前に、二人が最も長い時間を共に過ごした場所だ。
「おとーさん、おかーさん、ここどこ?」
「ん? ここはね、僕とアンの思い出の場所だよ」
「そして、わしが産まれた森じゃ」
娘の疑問に両親二人で答えると、サナは「ふうん」と言って興味深そうにあたりを見回していた。
街を歩く間隠していた耳をいつの間にか露わにしているアンバーは、どこか遠くを見つめるように立ってぴくりとも動かない。なくなっていると思っていた自分の出生地に思いがけず足を踏み入れることができたのだから、きっと思うものも大きいはずだ。
「懐かしいなあ。僕はここにこうして座って、何日もかけてこの景色を描いていた。アンはいつも飽きもせず、ずーっと隣で見ていたよね」
「そうじゃったのう。今でも昨日のことのように思い出せるぞ」
砂利の上に腰を下ろしたジェードと、その隣に立つアンバー。
十五年前とまったく同じ構図で二人並ぶと、懐かしくて思わず頬が緩んでしまいそうになる。ただ当時と違うのは、今は娘が一緒にいることくらいだろうか。
「おとーさん、ここで絵をかいてたのー? サナもそれ、見てみたいなあ」
「実家に帰ればあるはずだよ。旅に出る前に、僕の部屋の壁に掛けておいたから」
アンバーとこの川辺に通い、共に完成させた一枚の絵画。
隅っこに二人分の名前を記したあの絵は、街を出たジェードがいつか旅から帰ったときに彼女のことを思い出せるようにと部屋に残してきたものだった。
しかし結局のところアンバーは彼の旅についてきたため、部屋に残してきた意味などまるでなくなってしまったことは、今なら笑い話にでもできそうだ。
「ほう、あの絵はまだ残っておるのか。ならば久し振りに見てみたいものじゃの――」
そのとき不意に、アンバーの言葉を遮るかのように強い風が吹いた。
ジェードは風に吹かれてよろめくサナを咄嗟に左手で支えながら、乱された髪を右手で掻き分ける。
しかしアンバーはこの風に全く動じていないどころか、美しい琥珀の長髪をなびかせながら風上のほうへ慌てて振り向いていた。
忙しなくあちらへこちらへと向きを変える、アンバーの大きな狐耳。
立ち上がったジェードがふと見ると、すぐ隣にいるサナも小さな狐耳をぴくぴくと動かしていた。
「なんだろ。だれかいるみたい」
そう呟いたのは、何かを聞き取った様子のサナだった。
ジェードには何も聞こえない。しかしアンバーとサナの様子を見ておおよその事情は把握することができた。
せっかくの里帰りだ。しかもそれは今や自分にとってのものだけではない。
ならばジェードが次にアンバーにかけてやるべき言葉など、考えるまでもなくわかるというものだ。
「……主様ッ!」
振り向いたアンバーは、いかにも何か言いたげな表情をしていた。
それに対してジェードは、彼女に優しく微笑んだままで深く深く頷いてみせた。
「行っておいで、アン」
薄っすらと目に涙を溜めているようにも見えるアンバーは、表情を引き締め直すとジェードへ頷き返した。
その次の瞬間には、アンバーは「サナを頼む!」と言い残しながら駆け出しており、彼女は川面の飛び石を渡って対岸の茂みの中へと姿を消した。
まったく、妻は今日だけで一体何回泣くのだろうか。
そんな風に呆れそうになりながらも、それほどの豊かな感性を持った彼女のことが誇らしいなんて思ってしまう。
いや、むしろ彼が呆れるべきは、自分自身に対してなのかもしれない。
妻も娘も溺愛しすぎている自分の姿は、周囲にはさぞ滑稽に見えるのだろうと自覚はしている。
しかし妻子を持つ夫とは誰しもそういうものだろう。変わり者呼ばわりなどとっくに慣れたものである。ならば仮にもし自分の姿が滑稽であるとしても、ジェードにはその姿勢を改めるつもりなど、微塵もないのであった。




