第8話:『境界の照準器(浅草フィールドワーク)』
プツリ、と不快な電子音を立てて、スマートフォンの液晶が冷たく暗転した。画面の向こうで言い返す言葉を失い、自らの論理エラーから逃げるように強制切電した派遣会社の営業サピエンスの、間抜けな面が透けて見えるようだった。
前日の夜、23時00分。回線帯域が空き始めるその静かな時間帯に割り込んできた連絡は、これ以上ないほどに底流のバグ(感情論)に満ちていた。『漣さんの休業手当については了承しました。……クライアント様から引き継ぎ手順書の件で連絡がありました。ロッカーの私物は全て着払いで送ります。お疲れ様でした』俺が残してやった引き継ぎ手順書は、Excelのブックとシートの差もわからない底流サピエンスのために、すべての画面遷移のキャプチャをPDFにマウントし、「小学生でもこなせるレベル」にまで論理をアジャストしたものだった。――【この内容を入力後、Ctrlキーを押しながらCを押す。次のページの目的のところにマスクをあてて左クリック後、画面内が点滅したらCtrlキーとVを押す。前のページと今のページが一致しているかを”必ず”確認すること。慣れてくるとよく間違えるポイントなので気をつけて……】それすらも処理できずに泣きついた無能上席の顔が浮かぶ。俺が事務的に「ご迷惑をおかけしました」と定型パケットを返した瞬間、営業の声のトーンが、自己防衛のノイズ(感情論)へと一気に跳ね上がった。『漣さんのした行動は、社会人として最も重要な協調性に欠けています。わかりますか? 契約満了が近いので雑な工程になるのは察しますがねぇ……! 社会人として最低限のことは最後までしてほしいんですよ。派遣会社はクライアント様あっての企業なんです。僕がどれだけクライアント様に謝罪したのかわかりますか!? 漣さんは派遣会社とクライアント様に多大な迷惑をかけたという自覚はありますか!? 今後のお仕事紹介、および派遣登録は抹消させていただきます。よろしいですね!?』典型的なモブサピエンスの咆哮。「協調性」という都合のいい綺麗事の影に隠れ、自らの管理エラーを労働者になすりつける、お決まりの責任転換ルートだ。だが、底流の思考回路なんて、俺のプロセッサは1ミリ秒でアジャスト済みだ。俺は液晶の向こうのサピエンスの脳内OSへ、冷徹な現実のパケットを強制インジェクションしてやった。「御社およびクライアント様にご迷惑をおかけしたこと、そして私の未熟ゆえに起きたことは重々承知いたしました。御社の派遣登録抹消については当然の処分だと思いますので、それで構いません。――ですが、私から一言だけ、ログ(事実)を返させていただきます」『はい? 何ですか?』「あなたは、6月末で契約を強制終了され、明日から無職になる人間の気持ちを1秒でも計算したことがありましたか? 7月よりすべての収入源を失った私が、次の就業先が決まるまで、なけなしの預貯金で生活していく現実を、その脳内でプログラミングしたことがありましたか?」『それは……』「派遣登録時、御社は『当社はスタッフさんを一番に考えて寄り添う企業です』と謳っていた。あの文字列は、一体どこのメモリに格納されているんですか? 達成されていない綺麗事を並べてスタッフを登録させる、バグだらけの偽装プロトコルは、もうやめてもらえませんか?」――静寂。自分のついた嘘と、突きつけられた圧倒的なリアル(正論)の前に、営業の論理回路は完全にデッドロック(フリーズ)を起こした。言い返す言葉を失った男は、無言のままプツリと通話を強制終了してフェイドアウトしていった。「フッ……逃げ方だけは、相変わらずベテランだな」スマートフォンをベッドへと放り投げ、コンテナハウスのメイン電源(リン酸鉄バッテリー)の静かな青い光を見つめる。記号だけの人間どもとの接続は、前夜の時点で完全にデリート(消去)された。6月末を満了するまでもない。俺たちの新しいフェイズ――世界そのものを相手取った完璧な勝ち逃げの旅(第2章)は、その瞬間にノーエラーでエントリーされていたのだ。前日は休業手当による事実上の隔離フェイズだったからこそ、俺は単身、すべての始まりであり終点となる座標――浅草へ向けて、事前に徹底的な地上フィールドワーク(現地調査)を執行することができた。そして――時間軸は、今この瞬間に完全同期する。時計のデジタルインジケーターが、午前3時30分を静かにカウントした。現実の読者がこのログを目にしているまさにその瞬間、俺の大型バイクは夜霧を切り裂き、浅草EKIMISEの前に再び滑り込んでいた。まだビルの大扉は固く閉ざされたままだ。だが、前日の日中に俺が身体を張ってトレースしたビル内部の構造ログ(実物)が、俺の脳内プロセッサには完全にキャッシュされている。小扉、入り口をピッキングして内部へとエントリーした俺の目の前に広がっていたのは、何年も稼働していないエスカレーターと、照明の消えた高級テナント店だった。その横には、通電していないエレベーターがただの無意味な金属の塊としてマウントされていた。誰もいないフロア。物品は盗難されることもなく、虚しく展示されたままだ。そりゃそうだ。インフレによるインフラ危機に瀕したこの世界で、ブランド品に何の価値がある? 現金すら過去の紙クズだ。今やティッシュの方が圧倒的に需要がある。それが、システムの崩壊したこの世界「常識」だった。上層階への最短リスクを計算した際、普通ならば階段を選ぶ。だが、もし途中で構造が崩れて埋もれてしまったら――その時、なぜか脳裏にあの職場の先輩、由奈の顔がよぎった。くそ、あのメカ音痴のせいで、俺の論理演算にコンマ1のズレが生じる。フー、と深く息を吐いて精神をクールダウンさせ、帰りにあのバグに適当なお土産でも買って帰るか、と思考のノイズを処理しつつ、俺は止まったエスカレーターへと慎重に足を向けた。古いとはいえ金属製だ。建物の中心にマウントされているため、今も崩れていない。万が一があっても一階層分の落下で済む。周りに障害物はない。壁面のフロアガイドをスマートフォンで瞬時にスクラップ(写真撮影)したログが頭に浮かぶ。ターゲットは最上階のRF。暫定で7階まであの動かない金属のステップを一歩一歩踏み締め、4階のフロアにたどり着いた。かつて本屋だった場所だ。俺はそこで、埃を被った棚から1枚の古びた『紙の地図』を拾い上げ、バッグの底へと滑り込ませた。このアナログな実物が、全ての終わり(終幕)のキャンバスになるとは、この時の俺はまだ知る由もない。さらにエスカレーターを乗り継ぎ、7階へ到着。予測通り、ここから上へ行くルートは階段しかなかった。サピエンスの浅い設計思考など、俺にとっては0.1パーセントですべて理解できている。階段を登る。頭上には銀色の鉄の扉。右側の壁には『R』の冷たい刻印。――階段は、あと6段。扉の前に立つと、割れたガラスの向こう、左前方に巨大なスカイツリーのシルエットが牙を剥くように見えた。俺は、左側の鉄の扉を強く「押して」、外の空間へとダイブした。外に出ると、風よけのテント張りの下に、折りたたみ式の椅子と簡易テーブルが放置されていた。後方には、スカイツリーを一望できるベンチが前後に2列、規則正しく配置されている。だが、その景色を目にした瞬間、俺の脳内プロセッサが激しい警告音を鳴らした。iPhoneで測定するまでもなかった。致命的な不確定要素だ。――シュートするべきターゲットの一点方向。そこに、無数の「避雷針」が乱立していた。こちらが放つのは430MHzの電波だ。避雷針の持つ高電力な雷の誘導ログと干渉すれば、波形は歪み、バースト波はスカイツリーに届く前に一瞬で霧散する。即座に再計算。だが、今さら諦められるか。今引けば、あのバグ(歩実)に何て言えばいい? 該当の測定中に、背後からの冷たいエラー割り込みが発生した。「――もしもし。スマホで、そこで何してますか?」振り返ると、制服に身を包んだ施設の警備員が、不審者を警戒する目で俺を凝視していた。画面の向こうの有象無象どもなら、嬉々として『おいおい、ただのiPhoneのアプリでコンマ1度の解像度なんか出るわけねぇだろw 何のアプリ使ってんだよエアプ作者w』とマウントを仕掛けてくるフェイズだ。だが、そんな底流の想定バグも、目の前のモブの排除も、俺のプロセッサにとってはコンマ1ミリ秒の処理に過ぎない。俺はiPhoneの画面を警備員に向け、冷徹で事務的なパケット(論理の防壁)を強制インジェクションしてやった。「あ、すみません。ここからスカイツリーまでの電波の伝わり方で、最もあの避雷針等に邪魔をされずにバースト波をシュートできる、唯一無二の『クリアゾーン』を特定していまして。これ、普通のスマホに見えますけど、下部に10⁻⁶m単位の解像度を持つ外部ジャイロモジュールをマウントしてるんです」一般のサピエンスの約半分が同じデバイスを握りしめ、カメラで動画を見てへらへらしているが、中身のアーキテクチャや国家規格の測定ロジックなんて知りもしない。俺がやっているのはアプリの起動じゃない。カメラモジュールから太陽の絶対天体位置をリアルタイムに逆算し、地磁気の歪みを完全リジェクトしてミリラジアン単位でキャリブレーションされた、生パケットログと電子照準線の稼働だ。「え、あ、アプリ……じゃないんですか?」「ええ、端末のプロセッサをただのモニターとして幽霊利用しているだけの、超精密照準器(実物)です。今、そこの避雷針との干責(干渉)をデバッグして、完璧なクリアゾーンの波形データをコンプリートしたところですので。――業務の邪魔をして失礼しました」次の瞬間、底流サピエンスの脳内OSが、次元の違う専門用語の威圧感の前に、一瞬で処理オーバーロード(フリーズ)を起こした。「あ、あう……。そ、そういうの調べるのは勝手だけどさ……」警備員はパニックを起こした脳のバグを必死に誤魔化すように、どこか怯えた目で俺から視線を逸らした。「――とにかく、事故だけは起こさないでね。後から『俺のせいで事故が起きた』とか言われるのだけは勘弁だから。完全に自己責任でやってよ!」さすがは最底辺モブキャラだ。自分の無知を棚に上げ、手遅れになる前に自分への飛び火(責任)だけを秒で回避する「逃げ方」だけはベテランのそれだった。「ええ、元からあなたたちのシステムに、一切の意義申立をするつもりはありませんよ」俺が冷徹にそう告げると、警備員はそそくさと階段を下りてフェイドアウトしていった。もたもたしていれば、コンテナハウスに残してきたあのバグが俺のテリトリーで、何をしでかすかわからない。タイムロスを犯すのは、低フェイズのサピエンスどもだけで十分だ。俺は立ち上がり、屋上をくまなく歩いて代替の射撃ポイントを探す。だが、風が異常に強い。この風速の中、八木アンテナの指向性をどうやって固定する?時計台の方向へ歩いていると、かつてサピエンスどもがバーベキューを楽しんでいたと思われる、テントと簡易テーブルが見えてきた。この強風の中で、なぜあのテントは剥がれずに固定されている? 俺の視線が、地面の「金属製テント用ポール立て」と、ガチガチに固定された支柱へと動いた。――3秒後、アンテナの固定問題(架台ロジック)は完全コンプリートした。残すは、避雷針のノイズを避ける唯一のロケーションのみ。その時、俺の目に、スカイツリーを見上げるために作られた、サピエンスの『バエるための小さなステージ』が飛び込んできた。期待と不安を胸に、ステージの階段を登り、振り返る。「……そこ」避雷針の干渉をミリ単位で回避する、唯一無二の『クリアゾーン』が、俺の視界の最上流にアジャストされた。すかさずiPhoneを取り出し、コンパスと計測アプリを高速タップする。・真北基準方位:【 97.5 度 】・機器傾き角度(仰角):【 30.5 度 】だが、俺はまだスロットル(引き金)を引かない。画面に刻まれた完璧なエビデンス(数値)を見つめたまま、俺の脳内プロセッサは1ミリ秒で『環境バグの逆算』を走らせていた。「……待て。朝霧による大気の密度変化。この光の屈折率と避雷針の強磁性ノイズを考慮した場合――昨日採取した生データから、さらにコンマ05秒の『修正パージ(データクリーンアップ)』が必要か?」完璧な人間なんて存在しない。だからこそ、最高設計者は自らが導き出した絶対的なリアル(実物)すら疑い、極限までエラーを削ぎ落とす。10⁻⁶mの空間をミリラジアン単位で再補正し、完全にノイズをパージした世界線のデータが、液晶の最上流でカチリとロックされる。「――よし。今度こそQ.E.D.(証明終了)だ」午前3時42分。すべての数値の同期が完了したその瞬間――。まるで俺たちの完璧な勝ち逃げ(勝利)を祝福するかのように、雲の切れ間から一筋の強烈な太陽光が差し込み、俺の全身を眩しく照らし出した。(第9話へ続く)
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