第7話:無能のパスコード、身代わりのスーツ
「おい漣。今日のクライアントとの謝罪ミーティング、お前もスーツで出席しろ。お前がシステムのレクチャーを怠ったせいで不具合が起きた、そういう体で話を進めるからな。いいな?」大卒の元請け上司が、冷や汗で張り付いたシャツの襟元を震わせながら、俺に書類を押し付けてきた。今日、俺が呼び出されたのは、この底流現場を揺るがす特大のシステムエラーの尻拭い(バグ対応)のためだった。エラーの原因は、あまりにも愚劣。クライアントからTeamsで共有されていた最新のインフラ更新情報を、この上司が完全に「見落としてスルー」していたこと。それだけではない。焦った上司がクライアントに送信した重要報告書のPDFに、何をトチ狂ったか独自の暗号化パスワードをかけ、あろうことか『そのパスワード自体を忘れた』という、知能の限界を疑う人為的ミス(ヒューマンエラー)だった。クライアント側から「重要データが開けない。一体どういうセキュリティ管理をしているんだ」と激怒され、自業自得のデッドエンドに陥った上司が思いついたリカバリー案が――「派遣のレクチャー不足のせいにすること」だった。「分かりました。指示通りに動きます」俺は覇気のない声を出し、久々に袖を通した安物のスーツのネクタイを直した。ボサボサの髪を少しだけ整えた、量産型のモブとしての完璧な従属ペルソナ。「ふん、最初からそうやって素直に泥を被ってりゃいいんだよ。派遣らしくなぁ!」上司は安心したように鼻で笑い、クライアントとのオンライン会議の接続ボタンを押した。画面の向こうには、冷徹な表情をしたクライアントのインフラ統括責任者が映し出される。「……それで、我が社が提示した最新プロトコルを無視し、挙句の果てに暗号化された報告書のパスワードも不明。この致命的なタイムロスの原因を、納得がいくように説明してもらいましょうか」「は、はい! 実はですね……!」上司が、待ってましたとばかりに俺を指差した。「こちらの派遣の漣が、オペレーションシステムのレクチャーを完全に怠っておりまして! 現場の末端への周知バグが原因でございます! 私の管理ミスというよりは、現場の教育体制に問題が――」無能が、自分の保身のためにリアル(事実)を歪曲し、泥をなすりつけるノイズの濁流。俺の脳内システムが、冷徹にカウントダウンを開始した。――今月末で契約満了。7月からは新しいフェイズへエントリーする。ならば、この組織にこれ以上付き合うコストは完全に無駄だ。「……漣くん。君から何か言い訳はありますか?」クライアントの鋭い視線が、画面越しに俺を射抜く。俺はゆっくりと、顔を上げた。安物のスーツに包まれた背筋が、定規で測ったように真っ直ぐに伸びる。その瞬間、ボサボサの髪の隙間から覗く眼光が、世界を支配するアーキテクト(最高設計者)のものへとアジャストされた。「言い訳はありません。なぜなら、上席の今のご説明は、客観的事実と100%矛盾しているからです」「なっ……お前、何を言って――!」慌てる上司を完全にスルーし、俺は自分のノートPCの画面をクライアントへ画面共有した。「画面をご覧ください。クライアント様がTeamsで最新情報を共有されたのは6月11日15時02分。それに対し、私が現場の全オペレーターへ変更点のレクチャーを完了し、受領ログをデータベースに格納したのが同日17時00分。――教育は2時間でパーフェクトロックされています。レクチャー不足という事実は存在しません」「な……んだと……!?」上司の顔が、一瞬で紙のように白くなる。「そして」俺はさらに、ハッキングガジェットのキーを一つ叩いた。「開かなくなったという重要報告書のPDFですが。上席が設定したパスワードは、彼が普段から全システムで使用している生年月日と社員番号を組み合わせた、セキュリティ強度の極めて低いレガシーな文字列です。――今、遠隔でデバッグ(強制解凍)しました。クライアント様、データをご確認ください」チーン、とクライアント側の端末が、データの正常着信音を鳴らした。「……確かに、ファイルが開いた。内容は完璧に更新されている。……ということは、情報を見落とし、パスワードを忘れて、それを現場の派遣のせいにしようとしたのは……」クライアントの責任者の目が、氷のように冷たく上司へと向けられた。「あ、あう、あ……違っ、私は……!」上司の口が、無意味に開閉する。記号だけの人間が、リアルな証拠の前に完全シャットダウンした瞬間だった。「常識の影に隠れて泥をなすりつける時間があるなら、自分の犯したエラー(現実)を見ろ。――お前の席は、もう底流だ」俺はスーツのネクタイを僅かに緩め、コンテナハウスに残してきた歩実とリン酸鉄バッテリーの、静かな青い光を思い浮かべた。6月末を待つまでもない。俺たちの新しいフェイズは、今この瞬間からエントリーされたのだ。(第8話へ続く)
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