第47話:先手の網の目、およびコンマ一%の覚悟
砂漠の夜気は、昼間の熱狂を嘘のように冷え切らせていた。
外気温は摂氏四十七度から一転し、放射冷却によって十度近くまで急降下している。すり鉢状の巨大な露天掘りピット――第13採掘区の底には、冷え固まった重油のタール臭と、舞い散る酸性岩粉が白く沈殿していた。
午前二時三十五分。
ピット最深部、唸りを上げる巨大ジョークラッシャー(岩盤破砕機)の鉄骨フレームの陰に、俺は身を潜めていた。
手巻きのアナログ時計が、カチ、カチと金属的な秒針の音を刻む。煤けた袖口で時計の風防を擦り、胸ポケットから取り出した「防水野帳」の受電系統メモに目を落とした。紙の地図などこの現場には存在しないが、俺の頭脳には自らの足で歩測したピットの立体座標と、手抜き配線の接続点が克明に焼き付いている。
同じ時刻、ピットの断崖絶壁に張り付く「第13給水カフェテリア」。
薄暗いプレハブの裏口で、歩実と由奈は夜間シフト終了の片付けを装いながら息を殺していた。
手には、昼間にヘレナから床へ叩きつけられた微温い塩水の入ったポリバケツと雑巾。
「由奈ちゃん……あと、三分だよ」
歩実が囁く。その瞳――13K解像度が、暗闇の中で微細に動く警備兵の影と、断崖の上にそびえるヘレナの防弾ガラス監視塔を捉え続けていた。
「ええ。受電トランスの自動冷却インターバルと、破砕機の過負荷保護シーケンスが交差する……午前二時四十分ちょうど。怜の仕掛けたダイオードが、あの手抜き配線を一本の巨大なアース線へと変えるわ」
由奈はカウンターの下の粗悪な配給端末の裏から引き抜いた被覆銅線を指先に絡め、静かに呼吸を整えた。
午前二時三十八分。
俺は配電盤の陰で、ジョークラッシャーの唸り声に耳を澄ませていた。
だが――俺の現場の耳が、決定的な「違和感」を捉えた。
(……音が、狂ってる……?)
六千六百ボルトの誘導モーターが発する唸りのピッチが、予定されていた冷却シーケンスの減速音と違う。
回転数が落ちない。それどころか、インバーターの制御周波数が一段高くシフトし、破砕機は停止するどころか、冷却ファンだけを強制駆動させた「アイドリング固定モード」へと移行していく。
俺の背筋に、冷たい氷の刃が突き刺さった。
(しまった……! 罠だ! 停止シーケンスが来ねぇ! 受電パターンを、向こう(監視側)から遠隔で狂わされた……!?)
その瞬間だった。
崖の上のプレハブ――第13給水カフェテリアのトタン扉が、耳を劈く轟音とともに蹴破られた。
ドガァァンッ!!
「きゃああっ!?」
歩実の悲鳴が夜気に弾ける。
閃光弾の強烈な閃光がプレハブ内を焼き尽くし、シンテン・ゴビアの武装親衛隊が雪崩を打って突入してきた。
由奈が即座に配給端末の裏蓋を蹴り飛ばして銅線を短絡させようとするが、それよりも速く、四方から放たれた電磁捕縛ネットが二人の体を冷酷に絡め取った。
「動くな! 下流のネズミどもめ!」
靴音が響く。
煙の立ち込める入口から、冷ややかな足取りで姿を現したのは――ヘレナだった。
手袋をはめた指先に、バチバチと紫色の火花を散らす高圧スタン・バトンが握られている。
「……本当に、救いようのない愚サピエンスたちね」
ヘレナは床に転がされた歩実と由奈を見下ろし、冷笑を浮かべた。
「昼間のあなたの不自然な視線。そして、カフェイン水の配給機から不自然に引き抜かれていた制御用の銅線……。この私が現場の微小サージに気づかないとでも思ったかしら?」
「ヘレナ……ッ!」
歩実が拘束ネットの中でもがき、唇を噛む。
「破砕機の停止パターンなんて、監視塔の端末から十秒早くパラメータを書き換えてやれば済む話よ。……さて、穴の底の電波屋はどうなっているかしらね?」
その言葉と同時に、ピット最深部に無数の投光器の光が一斉に照射された。
カチカチカチッ! パァァァンッ!
夜の闇を暴力的に切り裂く高輝度キセノンライト。
破砕機のフレームの陰から飛び出そうとした俺の視界が、真っ白に焼き尽くされる。
「動くな!」
高圧スタン・バトンが、俺を隙間なくロックしていた。
配電盤のハッチはすでに破壊され、夕方の作業時に仕込んだ高耐圧ダイオードとバイパス配線は、基板ごと無残に引きちぎられて足元に転がっていた。
「……クソッ……!」
俺は工具を握りしめたまま、泥盤の上へ組み伏せられた。
泥水が頬を打ち、重い軍靴が容赦なく背中を踏み躙る。
◇
採掘プラントの中央広場。
煌々と照らされたサーチライトの下、冷たい砂利の上に、三人は引きずり出されていた。
手足には、生体電流を阻害する重い特殊合金の足枷と手枷。
作業着のポケットから引きずり出された「防水野帳」のページが、警備兵の手によってビリビリと破り捨てられ、風に舞って夜の闇へ消えていく。
ヘレナが軍靴の音を響かせ、泥に塗れた俺の頭のすぐ横に立った。
「憐れね、ジパングのサピエンスさん。……現場の泥臭い物理層(レイヤー1)で私を出し抜いたつもりだったのでしょうけれど、現場を支配しているのはいつだって、システムと権力なのよ」
ヘレナは俺の顎先をスタン・バトンの先端で小突き、冷酷に宣告した。
「即座に脳を焼き切って処刑してあげるのも慈悲だけど……あなたたちには、もっと相応しい場所を用意してあげたわ。シンテン・ゴビアが誇る、一度足を踏み入れたら二度と生きては出られない砂漠の墓場――『ゴビ最深部・第十三強制収容区』よ」
広場に、重厚な無限軌道と分厚い装甲板を備えた、檻付きの大型装甲護送車が地響きを立てて横付けされた。
「連れて行きなさい。世界の屋根の冷気に怯える暇もなく、砂の底で干からびるがいいわ」
ヘレナの冷笑とともに、三人は荷台の鉄檻の中へと力任せに放り込まれた。
ガシャンッ!!
重々しい鉄扉が閉じられ、三重の機械式シリンダーが施錠される。
外の光が完全に遮断され、護送車の内部は一切の光が届かない、完全な漆黒の闇へと沈んだ。
◇
ゴォォォン……と、大排気量のディーゼルエンジンが唸りを上げ、装甲車が動き出す。
分厚い装甲板が車輪の振動を拾い、鉄の床が激しく跳ねる。
漆黒の暗闇の中。手枷と足枷が擦れ合い、冷たい金属音だけが響いていた。
俺は鉄の壁に頭を預け、血の滲む唇をぎゅっと噛み締めた。
自らの愚かさと、現場を見誤った過信。
絞り出すような、掠れた声が闇の中に落ちる。
「……俺たちの、負けだ」
その言葉に、暗闇の空気が凍りついた。
「世界を、アジャストできなかった……。俺たちがここで終わるってことは……このままデッドポイントを迎えて、この星が終わるってことだ」
俺は拳を握りしめた。だが、繋がれた鉄の枷が虚しく擦れ合うだけだった。
「今まで悪あがきして、泥水啜って、ここまで走ってきたけどよ……。この砂漠の吹き溜まりの収容所で、世界が終わっていくのをぼんやり観測するのも、悪くないかもしれねぇな」
「……ごめんな、歩実。……ごめん、由奈。俺が……俺の計算が甘かったせいで、お前たちをこんなところまで巻き込んじまった」
静寂が、落ちた。
だが、その沈黙を破ったのは、絶望の啜り泣きではなかった。
ギュッ、と。
暗闇の中で、泥に汚れた小さな手が、作業着の裾を力任せに握りしめた。
「……何言ってるの、怜くん」
歩実の声だった。
震えてなどいなかった。そこにあったのは、驚くほど澄んだ、強い生体ログの響きだった。
「私はね、それを最初から覚悟してついてきたんだよ!」
「歩実……?」
「怜くんしか、この狂った世界をアジャストできないから……! あの日、マスターライセンスが床に散らばったその瞬間から、私はコンマ一%の希望に全部賭けたんだよ!」
暗闇の中で、歩実の瞳が真っ直ぐに俺を見据えているのが分かった。
「指をくわえて何もせず、安全な場所で世界の終わりを待つなんて絶対に嫌だった! 泥水を啜るのも、収容所に入れられるのも、全部覚悟の上だよ! だから……最後まで、一緒にいようよ!」
その隣から、静かに衣擦れの音がした。
由奈が暗闇の中で深く息を吸い、硬質な気配が伝わってきた。
「歩実の言う通りよ、怜」
73Kの知性が、迷いなく闇を切り裂く。
「熱力学的にも、確率論的にも、サピエンスが絶滅を迎える確率は九九・九パーセントよ。けれど、残された〇・一パーセントの変数は、いつだってあなたのその泥臭い現場の悪あがきの中にしかなかった。……後悔なんて、最初から一バイトも私のメモリには積んでいないわ」
「お前ら……」
俺は暗闇の中で、深く息を吸い込んだ。
胸の奥で燻っていた熱いものが、再び血流を駆け巡る。
負けてなど、いられない。
この二人が自分を信じて泥の中に立っている限り、たとえ明日世界の終わりが訪れようと、膝を屈することなどできるはずがなかった。
「……へっ。そうだな」
俺は口元の血を拭い、暗闇の中で獰猛な笑みを浮かべた。
「悪あがきは、ここからだ」
その時だった。
ジッ……ジーッ……。
歩実のポケットの奥深く、検問所での私物没収を奇跡的に免れ、肌身離さず隠し持っていた――骨董品端末が、微弱な振動を始めた。
薄暗い青黒いバックライトが、密閉された装甲車の荷台をぼんやりと照らし出す。
液晶画面にノイズが走る。
プトラからゴビへと繋がっていた因果の糸が、収容所への連行によって完全に寸断されたことを示すように、文字コードが激しく崩壊し、再構成されていく――。
【NEXT LOCATION: EAST 103°26' / NORTH 42°35' ―― GOBI PROVINCE】
↓ [OVERWRITE]
【 NEXT LOCATION:―― UNDETERMINED 】
次なる絶対座標――『未定(UNDETERMINED)』。
「未定、か……」
俺はその文字列を見つめ、静かに呟いた。
「上等だ。敷かれたレールが消えたなら、ここから先は俺たちの足で刻み直すだけだ」
重装甲の車輪が砂塵を巻き上げ、護送車は誰一人戻らないとされるゴビ最深部の暗黒へと消えていく。
絶望の底で灯った、消えることのないコンマ一%の光を乗せて――。
(第48話へ続く)




