第46.5話:理不尽のカウンター、およびビジュアル格差の熱力学
トタン板の天井が直射日光を吸い上げ、プレハブの内部はまるで密閉された蒸し風呂だった。
換気扇の羽は油煙と砂埃で固着し、重油の焦げた匂いと酸性の鉱石粉塵が熱気とともに室内に淀んでいる。外気温はとっくに摂氏四十七度を突破していた。ピットの断崖絶壁に張り付く「第13給水カフェテリア」のカウンターの中、歩実は額に貼りつく前髪を甲でぬぐい、悲鳴のようなため息を漏らした。
「……暑い。暑すぎるよ……! サピエンスを蒸し焼きにする気なの……!?」
「歩実、無駄口を叩いている暇があるなら配給バルブを開きなさい。第一シフトの交代要員が押し寄せてくるわよ」
隣のレーンで、由奈が感情の起伏を一切見せずにプラスチックカップを整列させていた。
渡されたペラペラの作業用エプロンを着けているというのに、由奈の立ち姿はエアコンの効いたジパングの高級カフェにいるかのように涼しげだった。汗一つかかないその陶器のような肌と、冷徹な瞳。
だが、歩実のほうは全身汗だくで、エプロンのポケットには薄汚れた布巾がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
ガラガラッ!
プレハブの引き戸が乱暴に蹴破られ、十六時間労働で泥と油まみれになった屈強な鉱山労働者たちが、堰を切ったように雪崩れ込んできた。
喉を鳴らし、目を血走らせた荒くれサピエンスたちの長蛇の列。カウンターの前に二つの列ができた瞬間、この過酷な現場における残酷な現実が露骨に牙を剥いた。
「おい姉ちゃん! 水だ水! 早く注げよ!」
「ひゃ、はいっ! 今注ぎます!」
歩実のレーンに並んだ大柄な採掘工が、カウンターのトタン板をドンドンと拳で乱暴に叩く。
歩実は焦りながら、レバーを押し下げて微温い食塩水をプラスチックカップに注ぎ分けた。だが、配給機の水圧が低いせいでチョロチョロとしか出てこない。
「遅ぇんだよ! 手がトロいんだよ! こっちはピットの底で死にかけてんだぞ!」
「ご、ごめんなさい! この機械のバルブの調子が……!」
「言い訳すんな! ……ったく、コップの底に砂利が入ってんじゃねえか! もっと冷たいの出せねえのかよ! 塩分も薄いぞ! ちゃんと混ぜてんのか!?」
「す、すぐ取り替えますからぁぁっ!」
歩実は頭をペコペコと下げながら、新しいカップに注ぎ直す。
生身のサピエンスの感情と空間を克明に捉える歩実の13K解像度は、相手の血管の浮き出方や唾の飛び散る角度まで超高解像度で捉えてしまい、精神防御力を容赦なく削り取られていく。
一方、そのすぐ隣――由奈のレーンだった。
並んでいる男どもの表情が、なぜか歩実のレーンとは百八十度違っていた。
泥だらけの荒くれ者たちが、なぜか全員、もじもじと指をもじらせてデレデレと頬を緩めているのだ。
「あ、あの……お姉さん、合成カフェイン水を一杯……」
由奈は男の顔を一切見ず、トレイの上にカップをコトッと無造作に置いた。
「どうぞ。塩分濃度〇・三パーセント、規定値よ。次のサピエンス、前に出なさい」
氷河よりも冷たい声。視線すら合わせない完全な事務的対応。
普通なら「愛想がねえぞ」と怒号が飛ぶはずの対応に対し、男どもはぽっと顔を赤らめ、胸元を掻きむしった。
「ひょ、ひょわぁぁ……! す、すげえ冷たい視線……! 最高だ……! ね、ねえお姉さん、仕事は何時に終わるの? 俺、裏のコンテナに美味い密造酒を隠してるんだけど、今夜一緒に飲みに行かない!?」
「不要よ。あなたの肝機能および大脳皮質の疲労度から逆算して、エタノールの過剰摂取は心不全リスクを四十二パーセント跳ね上げるわ。さっさと飲んで寝なさい」
「叱られたぁぁぁ! たまらん! 明日も並ぶぜ!」
「お、おい次! 俺の番だ! お姉さん、俺の腕の識別バーコード、端末で読み取って連絡先交換してくれない!?」
「業務外のパケット通信は規約違反よ。下がりなさい」
「くぅぅっ! ゾクゾクするぜ!」
ガタガタガタッ!!
給水タンクの裏で、濡れた雑巾を絞っていた歩実の手が怒りで小刻みに震えた。
歩実はエプロンの端をギリィッと奥歯で噛み締め、涙目で由奈を睨みつけた。
「……なんなの!? なんなのよこれぇぇぇぇッ!!」
「何がかしら、歩実」
由奈はカップを淡々と並べ替えながら、涼しい顔で首を傾げた。
「何が、じゃないよ! こんな砂漠の吹き溜まりの地獄みたいな採掘場ですら、ビジュアルが高い方が圧倒的に有利じゃん!!」
歩実は給水タンクの陰に由奈を引きずり込み、ヒソヒソ声で猛抗議を叩きつけた。
「私だって一生懸命愛想よく『いらっしゃいませ』って笑顔作って頑張ってるのに、なんで私には『水がぬるい!』『砂が入ってる!』『早くしろ!』って理不尽な怒号とクレームの嵐なの!? なんで由奈ちゃんはゴミを見るような目で一瞥しただけで『お姉さん飲みに行こう!』『連絡先教えて!』ってナンパの行列ができてんのよ!? 男サピエンスってやつは、全員脳みそが単細胞のバグで出来てんの!?」
「男サピエンスが視覚情報に対して極端な認知バイアスを示すのは、太古の進化生物学および生殖戦略上の不可避なアルゴリズムよ」
由奈は無慈悲なロジックを告げた。
「歩実の笑顔が悪いわけじゃないわ。単に、相手の神経伝達物質を強制発火させるパラメータにおいて、私との間に不可逆の解像度格差が存在しているだけよ。僻む暇があるなら、受電トランスの電圧降下ログを数えなさい」
「僻むよ! 僻むに決まってんでしょこんなの!!」
歩実はエプロンをバシバシと叩いて悶絶した。
「決めた! こんな不条理な世界、絶対許さない! 次のセクターに行ったら、私も絶対ツインテールにして、あざといコスプレして、男サピエンスどもを顎で使ってやるんだからぁぁぁ!!」
「歩実、そういう付け焼き刃の属性付けは、あなたの13Kの泥臭い生存本能を狂わせるだけよ」
「……おい、騒がしいぞお前ら」
低く、ざらついた声がカウンターの外から割り込んできた。
歩実がハッとして振り返ると、列の最後尾に、作業着を泥とグリスで真っ黒に染めた男が立っていた。
安全ヘルメットの下の顔は油煙で煤け、腕には太い高圧電線を担ぎ続けた鬱血の痕が痛々しく残っている。
「怜くん……生きてた! 大丈夫なの、その腕……!?」
「現場の泥水を啜るのが俺の仕事だ、これくらいなんでもねぇよ。……おい、水くれ。塩分が一番濃いやつだ」
「うん、すぐ出すね!」
歩実は丁寧にカップへ水を注ぎ、カウンター越しに俺へと差し出した。
その瞬間だった。
俺の泥だらけの指先が歩実の手のひらに触れ、指と指の隙間から、小さく折り畳まれた紙片――「防水野帳」の切れ端が、滑り込むように歩実のエプロンのポケットへと滑り落ちた。
俺は視線を逸らさず、ゴクリと塩水を一気に喉へ流し込んだ。
「……手抜き配線の接続点、全部マーキングした。受電トランス冷却ラインのバイパス位置だ」
「受け取ったよ」
歩実はポケットの紙片を指先で確認し、小さく頷いた。
俺は空になったカップをカウンターに置くと、隣で男たちに拝み倒されている由奈を一瞥し、呆れたように片眉を上げた。
「……なんだありゃ。お前ら、ずいぶん繁盛してんじゃねえか」
「繁盛してない! 由奈ちゃんだけ! 私はクレーム処理係!」
歩実が唇を尖らせて小声で抗議する。
「怜くん、早くこんな理不尽な採掘場、跡形もなくぶっ壊して! 私、もう限界!」
「へっ……言われなくても、今夜きっちり清算してやるよ」
俺は口元に獰猛な笑みを浮かべると、ヘルメットを目深に被り直し、再び灼熱のピット底へと背を向けて歩き出した。
◇
夕暮れが近づき、カフェテリアを埋め尽くしていた労働者たちの波が、夜間シフトへの交代とともに引いていった。
静まり返ったプレハブの奥で、歩実は俺から渡された野帳の切れ端を広げ、由奈と突き合わせた。
そこには、緻密な手書きで、第13採掘区の基幹配電ルートと監視カメラの死角が完璧にスケッチされていた。
「……散々な一日だったけど」
歩実はエプロンの紐をキュッと結び直した。
その瞳の奥には、昼間に浴びせられた怒号と理不尽の数々から、13Kの絶対全ログで吸い上げた「現場の真実」が整理されていた。
「あのクレームをつけてきた男たちの愚痴のおかげで、ヘレナの巡視ルートも、監視兵の交代時間も全部ログが取れたよ。……昔ヤクートから流れてきてた『ソルティ・カザフ』のパックはあんなに感謝されてたのに、ヘレナが来てから配給水が変な薬臭い泥水になったって、みんな怒ってた」
「ええ。あなたの泥臭いクレーム対応のおかげで、受電トランスの脆弱ウィンドウが〇・一秒単位で特定できたわ」
由奈が静かに頷く。
「褒めてるのか貶してるのかどっちなの!? ……まあいいわ。見てなさいよ」
歩実は西の空、砂漠を赤黒く染める夕日を睨み据えた。
「今夜、あの偉そうなヘレナも、理不尽に怒鳴り散らしてきた男どもも……全部まとめて、わたしたちの力でひっくり返してやるんだから!」
夜の帳が下りる。
俺の仕掛けたダイオードが赤く火花を散らす、運命の午前二時四十秒へ向けて――砂漠の底で、反撃の秒針が静かに進み始めていた。
(第47話へ続く)




