第46話:露天掘りのレイヤー1、および冷酷の蔑視
すり鉢の底から吹き上げてくるのは、大気の呼吸ではなく、灼熱と強酸が混濁した機械の排気熱だった。
外気温四十七度。照り返す赤茶けた岩盤が容赦なく足裏を焼き、大気中に滞留する微細な希土類分離ガスの刺激臭が、鼻腔の粘膜をチリチリと苛む。境界ゲートをくぐり抜けた俺たち三人を迎えたのは、完全共産制『シンテン・ゴビア』が敷設した、資源搾取の巨大な擂り鉢――ゴビプロヴィンス第13採掘区だった。
「おい、新入りの下流! 突っ立ってんじゃねえぞ!」
粗悪な防塵マスク越しに、現場監督の荒々しい怒号が飛ぶ。
第45話の検問所で投げ渡された使い捨ての作業着を着た俺の首筋には、安価なパッシブRFIDタグがプラスチックの結束バンドで無造作に巻き付けられていた。
「貴様は最深部の掘削ピット底だ! 破砕機の動力ケーブルを張り直してこい! 女二人は上だ、崖の上の厚生プレハブへ行け!」
泥臭い分断配置。
俺は無言のまま、油煙で煤けた作業ヘルメットを目深に被り直した。
別れ際、歩実が不安そうに俺の袖を引く。その手には、ペラペラの使い捨てエプロンが握られていた。
「怜くん……無茶しないでね。本当に、何もかも取られちゃったんだから……」
「心配すんな」
俺は視線をピットの底へと据えたまま、低く囁いた。
「俺たちの主戦場は、いつだって泥水の中だ。……由奈、頼んだぞ」
「ええ。生体ログの観測と給電パルスの逆算は、任せなさい」
由奈が静かに頷き、歩実の背中に手を添えて断崖に張り付くプレハブ小屋――「第13給水カフェテリア」へと登っていった。
◇
ピット底へ至る急勾配の未舗装路は、超大型ダンプの踏み均しによってパウダー状の岩粉が舞い上がり、視界を白く遮っていた。
俺に課されたのは、頻繁に過熱トリップを起こして停止する旧式ジョークラッシャー(岩盤破砕機)への、大口径CVTケーブル(架橋ポリエチレン絶縁ビニルシースケーブル)の延線および端子圧着作業だった。
「ぐっ……重ぇな、おい……」
一本数十キロに及ぶ太い高圧電線を肩に担ぎ、汗と粉塵にまみれながらぬかるむ泥盤に足を取られる。
周囲で働く一般サピエンス労働者たちの瞳には、光がなかった。十六時間労働の連続シフトで肉体を削られ、ただ機械のビートに合わせて手足を動かすだけの肉塊と化している。
だが、俺の脳内では、第一級陸上特殊無線技士としての計算式が冷徹に回転していた。
紙の地図はない。
胸ポケットに潜ませた手のひらサイズの「防水野帳」の白紙ページへ、資材の陰に隠れながら、自らのダブルステップ(二歩一組の歩測)とシルバコンパスによる視準方位角を手早くプロットしていく。
(ピットの底面半径、約四〇〇メートル。すり鉢の斜度は約三十五度。高圧受電トランスは北北東の断崖基部に設置されている……)
さらに俺は見逃さなかった。
舞い散る粉塵と、巨大ディーゼル重機が吐き出す熱風の陽炎によって、断崖の上に並ぶAI監視カメラの光学認識が激しく散乱を起こしている事実を。
「……なるほどな。最新鋭の監視システム気取りだが、現場の熱力学を舐めすぎだ」
破砕機の点検ハッチを開けた瞬間、俺の口元に微かな笑みが浮かんだ。
急造された使い捨てプラントゆえの、致命的な手抜き。
六千六百ボルトの高圧動力ラインと、監視塔へ繋がる遠隔インターロック信号用の制御信号線が、コスト削減のために同一の金属ダクト内に強引に束ねられていたのだ。シールドアースの接地抵抗は杜撰極まりなく、誘導ノイズを防ぐためのセパレーターすら入っていない。
「レイヤー1(物理層)を手抜きすりゃ、どうなるか……上流の設計屋サピエンスは現場の基本も知らねぇらしい」
俺は作業用腰袋の奥、点検用の予備端子に紛れ込ませておいた私物のジャンパーピンと高耐圧ダイオードの感触を指先で確かめた。
◇
一方、採掘ピットの縁、断崖の上にプレハブを組んだだけの「第13給水カフェテリア」。
ここは、十六時間労働の合間に下流サピエンスたちが、わずか十分間の休憩で喉を潤すための泥臭い補給ポイントだった。
「はい、どうぞ……気をつけて飲んでくださいね」
歩実は額に汗を浮かべながら、配給用のプラスチックカップに、薄い合成カフェイン水と微温い食塩水を注ぎ分けていた。
エプロン姿の歩実の瞳――【13K解像度】が、カウンターに押し寄せる労働者たちの生体ログをミリ秒単位で記録していく。
荒れた指先のひび割れ、首筋の識別バーコードに刻まれた所属セクター、そして擦り切れた喉から漏れ出る乾いた愚痴。
「……けっ、こんな泥水飲まされちゃ、身体がもたねえよ」
喉を鳴らして塩水を飲み干した古参の作業員が、カップを乱暴にカウンターへ置いた。
「最近、プトラ・セクターから流れてきてたっていう『ソルティ・ルミナス』の給水パックはよ……こんな安物じゃなかったぜ。あれを一口飲めば、どんな過酷な現場でも立ちくらみ一つ起きなかったのによ……」
「ソルティ・ルミナス……」
歩実は胸元にそっと触れ、小さく息を呑んだ。
(綾乃ちゃん、栞ちゃん……あなたたちが守ったのは、こんな砂漠の底にまで希望として届いてたんだよ……)
その横で、由奈はカウンターの下の粗悪な配給管理端末のタッチパネルを、指先の高速キーストロークで密かに叩いていた。
オフラインのスタンドアロン状態でありながら、由奈の【73K知性】は、配給機が定期的に刻むパルスノイズと電圧降下の周期から、プラント全体の受電スケジュールを暗算で逆アセンブルしていた。
「歩実、聞こえる?」
由奈がカップを拭くふりをして囁く。
「受電トランスの冷却サイクルは二時間周期。午前二時四十分、第4ピットの破砕機が一斉停止する瞬間に、電力系統に極小のサージ・ウィンドウが生じるわ」
「了解。怜くんに伝えないと……」
その時だった。
バタンッ!
プレハブのトタン戸が乱暴に蹴破られ、熱風とともに冷徹な威圧感が室内に流れ込んできた。
休憩していた作業員たちが一斉に息を呑み、怯えたように視線を伏せて壁際へと身を縮める。
姿を現したのは、完全共産制『シンテン・ゴビア』の武装親衛隊を引き連れた、一人の女だった。
――ヘレナ。
プトラ・セクターの神殿で見せていた、聖母を装う女神アパレルの偽善は跡形もなく消え失せていた。
身に纏っているのは、過酷な採掘プラントを暴力と論理で統制する、冷徹な現場監視官の軍服風ハイブランドスーツ。黒革の手袋を嵌めた指先には、違反者をその場で高圧放電処刑するためのスタン・バトンが握られている。
ヘレナの鋭い視線が、カウンターの中に立つ歩実と由奈を捉えた。
その口元が、醜悪な嘲笑へと歪む。
「……あら。プトラの神殿から這い出してきた下流サピエンスのネズミが、ずいぶん身の丈に合った職場を見つけたものね」
コツ、コツ、と軍靴の硬質な足音を響かせ、ヘレナがカウンターへ歩み寄ってきた。
「神殿の温室をルミナスの小娘どもにくれてやって、勝ち誇った顔で逃げ出したと思えば……まさか自ら首輪を嵌めて、砂漠の泥水汲み係に志願するとはね。笑わせてくれるわ」
ヘレナは手袋をつけた指先で、歩実が差し出していたプラスチックカップをパチンと弾き飛ばした。
床に微温い塩水が飛び散る。
「っ……」
歩実の奥歯がギリリと鳴った。
だが、歩実は怒りを表に出さなかった。13Kの感情ログが、ここで挑発に乗ることの破滅的リスクを瞬時に計算していたからだ。
歩実は深呼吸を一つ挟み、完璧な、凍りつくような営業スマイルを浮かべて頭を下げた。
「いらっしゃいませ、監視官様。……冷たいお飲み物でもいかがですか?」
「結構よ。豚の残飯を口にする趣味はないわ」
ヘレナは冷酷な眼差しで歩実を見下し、吐き捨てるように言った。
「……ところで、あの生意気な電波屋(怜)はどうしたのかしら? まさか初日の熱気にあてられて、ピットの底で野垂れ死んだのかしらね?」
「彼は現場の動力ラインで、元気に泥水を啜っているわ」
由奈が、冷え切った声で応じた。
「あなたの命令通り、ね」
「ふん。せいぜい穴の底で、一生高圧線に這いつくばっていればいいわ。私物も端末も没収され、情報網から切り離されたあなたたちは、ただの替えがきく使い捨ての肉塊に過ぎないのだから」
ヘレナは勝ち誇った哄笑を残し、身を翻してプレハブを出ていった。断崖の頂上にそびえる、冷房完備の防弾ガラス監視塔へと戻っていく。
「……絶対に、許さない」
歩実は床の塩水を雑巾で拭いながら、低く呟いた。
「由奈ちゃん。怜くんに合図を送るよ」
「ええ。準備は完了したわ」
◇
日没を過ぎ、砂漠の空は深い群青から漆黒へと沈んでいった。
採掘プラントに設置された何百本もの水銀灯が一斉に点灯し、露天掘りの巨大な穴を不気味な白熱光で照らし出す。
シフト交代の合間。カフェテリアの裏口から生ゴミのペール缶を運んできた歩実が、断崖の縁に立った。
歩実は、エプロンの腰紐をほどき、結び直す動作を繰り返した。
三秒の静止、二回の素早いクロス、一秒の引き締め――歩実の13Kが生み出す、ミリ秒単位の規則的ジェスチャー(視覚暗号)。
ピットの最深部。破砕機の高圧受電盤の陰に身を潜めていた俺が、顔を上げた。
舞い散る粉塵越しに、崖の上の歩実の合図を完璧に視認する。
「……受け取ったぜ、歩実」
俺は獰猛な笑みを浮かべ、腰袋から高耐圧ダイオードを取り出した。
陽炎と粉塵が監視カメラの焦点をぼかす、わずか数秒の死角。
手が、電撃のように動いた。
基幹配電ボックスの端子台。破砕機の受電トランス冷却ラインと、監視塔へと直結された照明制御インターロックの接点に、極小の逆バイアス回路を噛ませる。
(午前二時四十分……破砕機が停止し、逆起電力のサージが走った瞬間、この現場の手抜き配線そのものが巨大な共振アンテナに化ける)
カチリ、と端子がロックされた。
俺は作業着の袖で煤けた額の汗を拭い、見上げる先――断崖の頂上で燦然と輝くヘレナの監視塔を睨み据えた。
「見下ろしていられるのも、今のうちだぜ、ヘレナ。……泥水を啜ってきた現場のサピエンスの怒りを、その骨の髄まで叩き込んでやるよ」
巨大破砕機の唸り声が夜の砂漠を揺らす中、配電盤の奥で、俺の仕掛けたダイオードのインジケータが微かに赤く明滅していた。
(第47話へ続く)




