第41話:白夜の熱線と泥濘(サーモカルスト)の巡礼
沈まない太陽が、地平線の低空を這うように張りついていた。
真夜中を過ぎているというのに、白夜のぎらついた陽光は遮るもののない大気を容赦なく炙り続けている。地球の平均気温が0.3度上昇した熱力学的現実は、ここ極北のプトラ・セクターにおいて、永久凍土の崩壊という不可逆な傷口となって露出していた。
ブシュウゥゥッ、と地割れの奥からメタンハイドレートの気化ガスが泥水とともに噴き出す。
視界を埋め尽くすのは白銀の雪原などではない。氷が抜け落ちて陥没した無数の沈降湖群――見渡す限りのサーモカルストと、油を混ぜたように鈍く濁る泥濘地帯だった。
ゴバァッ!
巨大な低圧ラグタイヤが泥水を跳ね上げ、耐波ハル構造を持つ水陸両用車が水深二メートルの泥沼を強引に掻き分けて進む。
「きゃああっ! ちょっと、揺れるなんてもんじゃないですわよ……!」
荷台のパイプフレームにしがみつき、栞が悲鳴をあげる。
「栞、手すりを離さないで! ……憐れな泥の海ですこと。これが、かつて凍りついていた北極圏の無残な姿……」
泥飛沫をバイザーで防ぎながら、綾乃が苦々しく息を呑んだ。
「騒ぐな、手元のアネロイド高度計から目を離すなよ」
運転席で無骨なステアリングを抑え込む俺は、泥濘に沈む車体のトリム角を微小に制御しながら、助手席の歩実へ鋭く声を飛ばした。
「歩実、移動時間とスクリュー推進の回転数ログ。ダブルステップの誤差を水流分で補正しろ」
「は、はいっ! 水深一・八メートル、泥濘の粘性抵抗で時速は七キロまで低下! 野帳への記録、三〇秒間隔で継続中だよ!」
助手席の歩実は汗ばんだ額で鉛筆の先を紙の防水野帳へ走らせる。
衛星もオンライン測位もない。頼れるのは、タイヤの回転数、紙の等高線、そして手元の気圧計が示す大気の重みだけだ。
やがて、ぬかるんだ悪路の先に、陽炎で歪む巨大な構造体群が姿を現した。
プトラ自治機構が設置した外縁検問所兼、極地ドライバー休憩所。対温暖化インフラの巨大な冷却塔群が轟音を轟かせ、過負荷に軋む室外機が白夜の大気へ凄まじい排熱を吐き出していた。
「……ふう。ここで形式的な通行証の刻印と、冷却水の補充だ。車から離れるなよ」
俺が機械式ディーゼルをアイドリングに落とし、プレハブの断熱シェルターへ足を踏み入れる。
建屋内は、限界まで回された旧式空調の生温い風と、機械油、安煙草、そして作業員どもの汗の臭いが充満していた。壁面には塩分補給用の『ソルティ・カザフ』の自販機が鈍い光を放っている。
「怜くん、喉乾いたでしょ? 私、ソルティ・カザフ買ってくる!」
歩実が小走りに自販機へ向かった、その時だった。
「――暑いネ。永久凍土が溶けて泥海になったプトラまで、わざわざ巡礼に来るサピエンスも珍しいヨロシ」
すれ違いざま、耳元に滑り込んできた声音に、歩実の足がピタリと止まった。
休憩所の薄暗い片隅。扇風機の首振り運動が届く簡素なスチールテーブルに、その人物は腰掛けていた。
極地用の防熱織物を無造作に羽織り、テーブルの上には冷えた茶器と、擦り切れた「高緯度帯の古い聖地巡礼マップ」が広げられている。
「え……? あ、聖地巡礼……?」
歩実が瞬きをすると、その人物は薄い唇をわずかに歪め、旧中華語特有の奇妙に跳ね上がる抑揚で静かに言葉を継いだ。
「そうネ。この星が余計な熱を抱え込む前の、古い地球の歪みと始まりの場所を辿る……ただの巡礼者アルよ」
男とも女ともつかない滑らかな声音。だが、その瞳の奥には、白夜の強烈な太陽光すら反射しない深い暗渠のような冷徹さが宿っていた。
「……けれど、お嬢さんたちの向かう先には、こんな生ぬるい泥沼じゃないネ。もっと干からびて過酷な『ゴビプロヴィンスの砂漠』や、息もできない『世界の屋根』が待っているヨロシ」
「な……っ」
歩実の背筋を、冷たい氷柱のような悪寒が駆け抜けた。
なぜ、自分たちが向かおうとしている未来の座標を知っているのか。
「――歩実、下がれ」
俺の低い声が割って入り、歩実の肩をぐっと後ろへ引き寄せた。
巡礼者を名乗る人物のテーブル上、無造作に置かれた小型の携行短波受信機に固定されていた。白夜の直射日光が差し込む液晶画面の上で、微小な受信シグナルがチカチカと不穏に明滅している。
『8,414.5kHz』
神殿の地下で傍受した、あのDSC国際主幹バンドの周波数。
名乗りはしない。だが、この人物の背後にいるのは間違いなく、ヘレナの裏で地球のサプライチェーンを握り潰そうとする完全共産制陣営――『シンテン・ゴビア』の尖兵だ。
巡礼者は俺の鋭い視線に気づきながらも、一切動じる風もなく、冷え切った茶器を持ち上げた。
「……良い旅を、ジパングの現場技術屋さん。ザイジエン」
俺は一言も返さず、歩実の手を引いて検問所の外へ出た。
車内に戻った歩実が、冷や汗を拭いながら声を震わせる。
「怜くん……今のひと……」
「ああ。ヘレナの監視の裏で、あいつら(第3国)の目がすでにこのセクターの現場まで入り込んでる。……のんびり泥遊びしてる暇はねえぞ」
ガタガタと車体を震わせ、水陸両用車の直噴ディーゼルが再び咆哮を上げる。検問所のゲートを抜け、一行は再び白夜の泥濘のツンドラへと飛び出した。
「由奈、ルミナス、ここからが本番だ! 紙の地質図と植生データを照合しろ!」
俺の怒声に、綾乃と栞がハッとして手帳を開く。
「わ、わかりましたわ! この先の断層崖……太古の花崗岩質ペグマタイトが露出している露頭付近のデータです!」
「永久凍土が融解して地表温度が上がったことで、特定の希土類(重レアアース)とリチウムを含む土壌の周辺にだけ、異常繁茂する変異地衣類――『クロロ・バイカル』の群落が形成されているはずですわ!」
フロントガラス越しに見渡す白夜の熱気の中、泥濘の湖の彼方に、灰白色の岩肌を剥き出しにした巨大な山裾が見えてきた。
その岩肌の裂け目、泥水が滝のように流れ落ちる一本の「沢」の周囲にだけ、不自然なほど毒々しい青緑色のコケの帯が、まるで鉱脈の血管のように地表を這い上がっている。
「見えたぞ……! あそこが熱水変成帯の入口だ!」
俺が低圧タイヤの駆動トルクを直結に切り替え、アクセルを踏み込む。
白夜の熱線が照らす泥濘のツンドラを切り裂き、水陸両用車は新セクタの心臓部――凍結の解けた「運命の沢」へと突入していった。
(第42話に続く)




