第40話:極北のアナログ・プロトコル
『――ザザッ……ピィィィ……ジュルルッ……』
短波帯(HF)、8,414.5kHz。
遭難・安全通信を司るはずのDSC国際主幹バンドの隙間へ、電離層反射の周期的なフェージングを縫って、冷淡で滑らかな肉声がスリップインしてきた。
『――ニーハオ、ジパングサピエンスの皆さん』
旧中華語特有の声調が混じり込んだ、語尾が奇妙に跳ね上がる独特のイントネーション。だが、その声の底にある温度は零下数十度の大気よりも冷え切っていた。
『極北のプトラでどれだけ泥臭く知恵を絞ろうと、ヘレナの手のひらの上アルよ。……けれど、勘違いしないでほしいネ。ヘレナの背後で資源の喉元を握っている我ら完全共産制『シンテン・ゴビア』の存在を。せいぜい、ゴビプロヴィンスと世界の屋根まで辿り着いてみせるヨロシ。――それでは、次のセクターでお待ちしております。――ザイジエン』
プツン、と高周波の切れ端が虚空に溶け、冷え切った地下フロアに重い静寂が返ってきた。
「……なんなの、今の不気味な通信」
シスター服の襟元を握りしめ、歩実が小さく身震いする。
だが、俺はその怪電波を気にも留めず、神殿の重厚なカーゴリフトが軋みを上げて地下フロアへ下ろした「無償奪取の機材」を無骨な足取りで見分していた。
そこに鎮座していたのは、通常の陸上四駆ではない。
永久凍土の融解で泥沼・沈降湖群と化したツンドラ、さらにはフィヨルドの冷水域をも走破するためにヘレナから引きずり出した――電子制御なし、機械式直噴ディーゼルを心臓に積んだ極地用水陸両用車だった。
分厚い耐波ハル(船体)構造の車輪周りには、泥濘を掻き分ける巨大な低圧ラグタイヤ。荷台にはスクリュー推進軸と、縮尺五万分の一の紙の地形図・地質図、透明なアクリルベースプレートを備えたシルバコンパス、真鍮製のアネロイド高度計、気圧計、防水野帳、そして旧規格の船舶用国際VHFトランシーバーが無造作に積まれていた。
「うそ……でしょ……?」
荷台を覗き込んだ栞の顔から血の気が引いていく。
「ネットワークのリンクアイコンが一つもありませんわ……! 衛星の補正信号も、AIの最適ルートガイダンスもないだなんて……! こんな骨董品で、どうやって大陸のどこにあるかもわからない新セクタの鉱脈を見つけ出しますの!?」
綾乃も唇を青ざめさせ、震える指先で車体の泥を弾いた。
「騒ぐな。画面の矢印に従って歩くだけのナビに脳みそを委ねてきたから、お前らは上流の連中に足元をすくわれるんだ」
俺は事も無げに言い捨てると、分厚い作業台の上に紙の五万分の一地形図を乱暴に広げた。乾いた紙の擦れる音が、ひび割れたコンクリート壁に響く。
「由奈、三角定規とシャープペンシルを出せ。現場のプロトコルを開始する」
「……はい」
由奈は、俺の横に立った。その瞳はすでに、眼前の紙片を「二次元の物理座標平面」として捉えている。
「ステップ1、偏角補正だ」
俺はシルバコンパスのリングを回しながら言った。
「地図の上が真北(地理上の北極点)だが、地磁気誘導のコンパス針が指すのは磁北だ。このプトラ・セクターから極北未開拓セクターへ向かう高緯度では、地磁気偏角のズレが極大化する。このズレを無視して進めば、一キロ進むごとに数百メートル単位で現在地が狂い、泥濘と流氷の海へ突っ込んで遭難死する」
俺は手際よくマップルーラーを当て、地形図上に偏角差を相殺する平行線――『磁北線』を手引きで何本も刻み込んでいった。
「ステップ2、クロスベアリングによる自位置打刻」
俺は地下フロアの換気用開口部から、遠く雪原の彼方にそびえる二つの特徴的な岩峰へコンパスの視準ミラーを向けた。
「ピークAの方位角、〇四五度。ピークBの方位角、三一二度。……由奈、引け」
由奈の定規が迷いなく走り、二本の視準線が紙の上で鋭角に交差する。
「現在地の交点、特定完了。気圧高度計の数値とも三メートル以内で一致」
「よし。ステップ3、アジマスロックだ」
俺は地質図の凡例に無骨な指先を滑らせた。
「狙うのは単なる雪原じゃない。花崗岩質ペグマタイトが基盤岩に貫入した『熱水変成境界』だ。鉱脈は必ず地質がぶつかり合う歪み(境界線)に顔を出す。……目標方位、〇二八度にセット。磁針をカプセルの矢印に閉じ込めたら、リングの度数をロックする」
カチリ、とシルバコンパスのベゼルが硬質な音を立てて固定された。
神殿の最新鋭AIが電波を遮断しようと、地球そのものが帯びている巨大な地磁気と物理限界だけは絶対にハックできない。
「……ロジックに破綻はないわね」
由奈がわずかに息を吐き、野帳に打刻された測位データを確認した。
「衛星リンクも演算サーバーも一切介在していない。ヘレナの監視システムから見れば、私たちは完全に『停止した死人』に見えているはずよ」
「当たり前だ。現場の泥水を啜ってきた技術屋の計算を舐めるな」
俺は水陸両用車の無骨なスチールハッチを力任せに跳ね上げた。
「おい、乗れ。ダブルステップ(二歩一組の歩測)のカウントは歩実、お前の役目だぞ。移動時間と気圧の推移、サーモカルストの水位を野帳に記録し続けろ」
「は、はいっ! 任せて!」
グォォォンッ――!
セルモーターが唸り、大排気量の直噴ディーゼルが咆哮とともに黒煙を吐き出して目を覚ました。
車体が激しく震動し、凍てついた金属の匂いと軽油の刺激臭がガレージを満たす。
「行くぞ。目指すのはあの山裾の沢だ」
白銀と泥濘が入り乱れる極北のツンドラへ向けて、水陸両用車が巨体を軋ませて出立した。
神殿の最上階から冷笑を浮かべて見下ろすヘレナの監視網を嘲笑うかのように、アナログの反撃部隊は白銀の荒野へと突き進んでいく。
(第41話に続く)




