第39話:アナログの荒野と、ゼロサムの天秤
神殿の地下、分厚い電磁遮蔽壁に囲まれた執務フロアに、不意に耳障りな高周波の呼出音が鳴り響いた。
俺の端末ではない。由奈のクラスタでもない。
ルミナスのふたり――綾乃と栞が携行していたヤクート公認の通信コンソールが、青白い火花を散らして強制起動したのだ。
空中にノイズ混じりで結像したのは、眩い白銀のドレスを纏い、神聖な笑みを浮かべたヘレナのホログラム。
「ごきげんよう、ルミナスの小鳥たち。……それに、哀れなジパングサピエンスの皆さん」
ヘレナの視線が、床で涙を拭ったばかりの綾乃と栞を、まるで汚れた実験器具を見るような冷徹さで撫でる。ふたりの心がこちらへ傾いたことなど、疾走するデータログのように見切っている女特有の、優雅で猛毒に満ちた声だった。
「ずいぶんと泥臭い男サピエンスに誑かされてしまったようね。でも、いいわ。私、寛大ですもの。裏切りかけたあなたたちに、最後の『慈悲』を差し上げます」
栞が息を呑み、綾乃の腕にすがる。ヘレナは細い指先を顎に添え、小馬鹿にするように弧を描いた。
「プトラ・セクターのコアはもう限界。だから、代わりとなる未開拓の新セクタ――鉱物資源とバイオプラントに適した『新天地』の絶対座標を自力で特定しなさい」
「新セクタの……特定……?」
「ええ。もしルミナスのふたりが、ハインズたちより先に座標を特定できたら……その土地をあなたたちだけの専用区として下賜してあげましょう。不問にして差し上げるわ」
「じゃあ、もし俺たちが先に見つけたらどうなる?」
俺が割り込むと、ヘレナの眼光が爬虫類のように冷たく細まった。
「その時は、特定データだけを私たちが美味しく回収し、あなたたちハインズは『第3国』へ即時パージ――国外追放よ。そして役立たずだったルミナスのふたりには、予告通りペナルティを受けてもらうわ。メイド喫茶で、脂ぎった下流男サピエンスどもへの十六時間強制接客……一生、笑顔を貼り付けて暮らすといいわ」
どちらが勝とうが、莫大な価値を持つ新セクタの座標はヘレナの手に入る。
負けた側は排除されるか、尊厳を解体されて搾取される。
絶対に胴元が損をしない、ヘレナという怪物の『完全ノーリスク・絶対搾取トラップ』。
さらに、ヘレナは愉悦を滲ませて追い討ちをかけた。
「そうそう、公平を期すために特別なルールをあげる。ルミナスの時代には、インターネットなんて普及していなかったでしょう? だから――ネットワーク接続、衛星通信、最新演算デバイスの使用は一切禁止よ。あなたたちの本来の知性とやらを見せてちょうだい。ふふっ、期待しているわね」
最新規格の電子デバイス、広域ネットワーク、測位衛星の全面遮断――。
理不尽極まりない条件宣告に、フロアの空気は一瞬にして凍りついた。
「そ、そんな……ネットも衛星も使えないなんて! 広大な大陸のどこにあるかも分からない新セクターを、どうやって見つけろっていうのよーっ!?」
修道服の歩実が頭を抱えて絶叫し、綾乃と栞も血の気を失って震え出す。
「最新の測位衛星すら封じられては、位置の特定どころか探索にすら出られませんわ……!」
「終わりです……私たちは、ヘレナ様の掌の上で踊らされて……メイド喫茶に……!」
唯一冷静さを保とうとしていた由奈ですら、額に冷や汗を滲ませていた。
「……ヤクートの帯域制限プロトコルが完全にアクティブ化されたわ。外部演算クラスタも、衛星リンクも完全に沈黙。スタンドアローンの端末すら、最新規格のチップは監視電磁波で無力化されている……完全な盲目状態よ」
絶望に沈むフロアを見下ろし、ヘレナは完璧な勝利を確信した高笑いを響かせる。
「おほほほっ! 見苦しいわね、ジパングのサピエンスたち! 道具を奪われた途端に何もできないなんて、所詮はその程度の知性だったということかしら? 無駄な悪あがきはやめて、大人しく運命を受け入れ――」
「おい、待てよ」
甲高い哄笑を、俺の乾いた声が真っ二つに切り裂いた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、ホログラムのヘレナを正面から見据える。動揺の欠片もない。むしろ、獲物の喉笛に照準を合わせた冷徹な光がそこにあった。
「ヘレナ。お前の言ったルールは、『最新デバイスの持ち込みが禁止』……それだけだよな?」
「……何よ、負け惜しみかしら?」
怪訝に眉をひそめるヘレナへ、俺は口元を吊り上げる。
「だったら――移動に使う乗り物や、旧世代のアナログデバイス、それに『お前たちと連絡を取るための最低限の通信デバイス』は、全部そっちで支給してくれるんだよな? 当然だよなァ?」
「なっ……!?」
「俺たちはこれから、ヤクートの新しい利権のために、わざわざ過酷な荒野へ人肌脱ぎに行ってやるんだぞ? 移動手段も寄越さず、結果を報告するホットラインすら用意しないなんて、天下の『聖母ヘレナ様』がそんなみみっちい真似はしないよな?」
「ぐっ……! へ、屁理屈を……!」
痛烈な煽りに、ヘレナの端正な美貌が屈辱で引き攣る。
尊大で完璧な支配者を気取る手前、ここで旧式資材の供与すら渋れば、自らの器の小ささを認めることになる。ヘレナはギリッと奥歯を噛み締め、忌々しそうに吐き捨てた。
「……ええ、いいでしょう! 旧式の輸送車両と、旧規格のアナログ計測器、そして私への直通緊急回線端末だけは支給してあげるわ! 精々、泥にまみれて無駄骨を折るがいいわ……!」
ブツンッ、と暴力的なノイズを残し、通信が切断された。
静寂が戻ったフロアで、歩実が涙目で掴みかかってくる。
「怜くん、正気なの!? 乗り物をもぎ取ったからって、ネットも衛星もないんだよ!? アナログ機器だけで新セクタの特定なんて、できるわけないじゃない!」
「そうですわ! 地図と磁石だけで大陸の資源鉱脈を探すなんて、砂漠で落とした一本の針を探すようなものですわよ!」
「怜、無茶よ」と由奈も眉をひそめる。「どれほど現場の技術があろうと、計算の基盤となる測地データがなければ、確率論的にも自殺行為よ」
不安と混乱に包まれ、俺を取り囲む4人。
だが――俺は肩をすくめて息を吐くと、呆れたように言い放った。
「明日から俺たちは探検家になるんだ。ギャーギャー騒いでないで、手を動かせ」
「だ、だから! その探検家ごっこでどうやって見つける気なのよーっ!?」
喚く歩実の額を、人差し指で軽く弾く。
そして、全員の顔をゆっくりと見回し、口元を不敵に歪めた。
「安心しろ。――九十九パーセントは、最初っからアジャスト済だ」
「……え?」
「残りの一パーセントは――天候と運だけだ。俺を誰だと思ってんだ? 現場の配線と周波数の泥水をすすってきた、第一級陸上特殊無線技士だぞ」
揺るぎないロジックと経験に裏打ちされた、圧倒的な自信。
ネットを奪われ、世界のすべてから遮断された絶望の淵で、その言葉はあまりに力強く彼女たちの胸を撃ち抜いた。
ハッタリではない。この男の頭の中には、ヘレナの傲慢を叩き潰す「アナログの勝機」が完全に組み上がっているのだ。
張り詰めていたパニックが霧散し、歩実たちの瞳に、確かな熱が宿る。
「……もう、相変わらず心臓に悪いんだから」
歩実がぐすっと鼻を鳴らし、綾乃と栞も小さく息を吐いて視線を交わし合った。
デジタルの光が死に絶えた神殿の地下で――サピエンスの泥臭い逆襲劇へ向けた『探検の準備』が、静かに幕を開けた。
(第40話へ続く)




