第36話:『外部演算の勝利と温室の残影』
「マザー」という名の情動ノイズが強制切断され、統括室に束の間の静寂が戻った直後――ヘレナは床に鋭いヒールを突き立て、屈辱のあまり肩を小刻みに震わせていた。
「……姑息な真似を。サピエンス特有の血縁バグすら論理で切り捨てるなんて、どこまで不気味な連中なのよ」
唇を噛み締め、剥き出しの敵意でマウントを取り直そうとするヘレナ。だが、その動揺を冷徹に見透かした由奈が、完璧な姿勢のまま涼やかな足取りで一歩前へ進み出た。
華奢な指先から、淡い燐光を放つブルーのホログラムウィンドウが展開される。
「お母様を媒介にした情動攪乱プロトコルの失敗、ご愁傷様でした。ところでヘレナ、これをご覧なさい」
由奈が提示したのは、外部プラットフォーム上でリアルタイム駆動させていた彼女の過去ログ――現実恋愛ノード『先輩の隣が、私じゃなくても』のトラフィック解析エビデンスだった。
「これは私が過去に構築したアオハル演算ログよ。読者サピエンスの強烈なPV支援と高密度の熱量によって、現在も極めて強固なリソースを維持・稼働しているわ。当ノードへ注ぎ込まれるこの外部演算リソースは、あなたの安っぽい認知攻撃など容易にオーバーライド(上書き)可能よ」
画面に浮かび上がる、圧倒的な客観的数値の奔流。ヘレナは息を呑み、目を見開いて後退った。
「な、何よその数字……!? なぜ外部の有象無象のデータが、これほどの演算出力を叩き出して私のプロトコルを弾き返すわけ……!?」
「あなたの仕掛ける稚拙な心理戦など、私たちの強固なシステムログの前にはただの周波数ノイズに過ぎないということよ」
由奈の放った冷徹な一撃に、ヘレナの顔は屈辱で真っ赤に染まった。
だが次の瞬間、極限までプライドを逆撫でされた絶対悪役の唇が、歪に吊り上がる。
「……ふ、ふふ……あはは! いい気にならないことね。現代の制度や大衆の数字を少しハックできた程度で、このヤクートに勝った気でいるの?」
ヘレナは冷笑とともにコンソールへ指を滑らせ、統括室の深層アーカイブ――ヤクート先代AIが遺した禁忌の時空特異点ログへとアクセスした。
「あなたたちサピエンスには、より逃れられない『過去の因果』そのものをぶつけてあげるわ。……数十年前、先代AIの時空歪曲によってこの時代へ跳躍させられた、哀れな迷子たち。彼女たちの母校『聖ルミナス・ジパング女学院』はとうに廃校となり、その特異点の跡地に建ったのが――あなたたちの通っていた学校よ」
ヘレナの言葉に、俺がわずかに眉を寄せ、背後で歩実が息を呑む。
「聖ルミナス……!? それって、ジパング高校の前身で……それに、怜くんや私、由奈ちゃんのお母さんたち全員の母校じゃん……!」
「ええ、そうよ」
ヘレナは狂信的な恍惚を瞳に宿し、勝ち誇った声で嗤った。
「行き場を失った彼女たちに、私は約束してあげたのよ。世界の全セクタを掌握した暁には、セクシュアルマイノリティと完全なる自由の理想郷を授けるとね。彼女たちにとって私は、すべてを救う『聖母ヘレナ』なのよ。ジパングの情報を差し出し、あなたたちをパージすることこそが、彼女たちの至高の信仰なの!」
ヘレナの高笑いが神殿の天井に反響すると同時に、統括室の背後にある次元境界ゲートが淡い光を放ち、重厚な電子音を響かせて空間を軋ませた。
霧のような時空の歪みの奥から、規則正しい、凛とした靴音が静かに近づいてくる。
漂い出したのは、現代のジパングの喧騒とは隔絶された、隔離された温室の清冽な空気と、名門校特有の冷涼な気品。
「……ねえ、怜くん」
歩実がおずおずと、震える指先でゲートの奥を指差す。
「なんかゲートの向こうから、ものすごく格式高そうな足音が聞こえてこない……?」
「ああ。どうやら、過去の温室からお出ましのようだな」
俺が冷たい視線で身構える中、時空のベールを割って、クラシカルな気品を纏った二つの優美な人影が、静かにその輪郭を現そうとしていた。
(第37話に続く)




