特別編:コートの上の太陽と天才
キュッ、とゴム底がポリウレタンの床を強力に噛む、甲高くて鋭い擦過音が西日の差し込む体育館に響き渡る。
夕暮れ時のコート。茜色に染まる空間のただ中で、薄手の機能性生地で仕立てられた白いユニフォームを纏う少女——穂波歩実は、全身から溢れ出る汗を眩しく散らしながら叫んだ。
「まだまだ……! シャトルは……まだ落ちてないよっ!」
結び直した黒髪のポニーテールから、ポタポタと絶え間なく雫が落ちる。
呼吸はとっくに荒く、太ももは乳酸の蓄積で鉛のように重い。視界の端が明滅するほどの限界に達しているというのに、彼女の表情には悲壮感など微塵もなかった。
そこにあるのは、胸の奥底から燃え盛る情熱と、観客や周囲の部員たちの視線を惹きつけて離さない、まるで太陽のような破顔の笑みだ。
ヒュンッ——と風を切って落ちてくる真っ白な羽。
両足が悲鳴を上げ、関節が拒絶反応を起こしているにもかかわらず、歩みは一切の迷いなく硬い床へとダイブした。
膝や肘を擦りむくのも厭わない、泥臭く泥泥としたフライングレシーブ。
床すれすれ、わずか数ミリの隙間に滑り込ませたラケットの面が、ギリギリのところでシャトルを捉える。パシッと澄んだ打球音とともに押し出されたシャトルは、綺麗な放物線を描きながらネットの向こう側へと返っていった。
「……見事な執念ですね、穂波さん」
ネット越しから届いたのは、氷のように研ぎ澄まされた静かな声だった。
そこに立っていたのは、同じ高校の二年生であり、学業成績と圧倒的実力を兼ね備えた学園アイドル——七瀬由奈。
由奈の着ている白いポロシャツは、これほど激しいラリーを重ねた後であってもシワひとつなく、パリッと美しい張り感を保っている。襟元は気品すら漂わせるほど整い、汗で生地が肌にまとわりつくことすら許さない。
足元のフットワークに無駄はなく、相手の手元から放たれるシャトルの角度、初速、空気抵抗までをも瞬時に脳内で弾き出す。彼女にとってバドミントンという競技は、物理法則と確率論をコート上で正確に再現するだけの「簡単な計算問題」に過ぎなかった。
「ですが、あなたの呼吸の乱れ、着地時に生じるミリ単位の軸のブレ、および大腿四頭筋の疲労度……私の弾き出したデータ上、あなたのスタミナはあと二分五十七秒で完全に底を突きます。これ以上の抵抗はエネルギーの無駄遣いというものです。素直に諦めなさい」
由奈は感情の波を一切見せず、淡々と冷酷な宣告を告げる。
同時に、手首のスナップだけでラケットをしなやかに振り抜いた。
シャトルはネット際の白帯を撫でるように越え、歩実のバックハンド側——もっとも体勢を戻しにくい死角の領域へと失速しながら落ちていく。完璧な配球、寸分の狂いもないコースと落点。観戦していたギャラリーの誰もが「終わった」と確信する、詰みの領域の一打。
しかし——。
「諦める……? そんなダサい言葉、私の辞書には最初から載ってないよっ!」
歩実はニッと白い歯を見せて弾けるように笑うと、由奈の築き上げた「完璧なデータ」と「精密な計算」を根底から嘲笑うかのような破格の脚力で床を蹴った。
「なっ……!?」
これまで一度として動揺を見せなかった由奈の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
計算上、現在の疲労度と体勢からでは絶対に届かないはずの歩幅。解剖学的な運動限界を明らかに超越している身体。
それを突き動かしているのは、ロジックや理論などではない。ただ愚直で、どこまでも青臭く泥臭い「絶対にこのコートで負けたくない」という純粋な熱量——すなわちド根性そのものだった。
「届いてぇぇぇ——っ!!」
床すれすれの極限の高さでシャトルを救い上げると、歩実はそのまま空中で身体を一回転させ、力ずくで着地点の軸を修正する。
高くふわりと上がったクリアーに対し、西日の眩しい光を一身に背負い、高く、どこまでも高く跳躍した。
跳躍の瞬間、汗でしっとりと重みを増した白いユニフォームが、彼女の躍動するしなやかな筋肉のラインをくっきりと浮き彫りにする。夕日を背から透過する布地の上で、弾け飛ぶ汗のひとしずくがダイヤモンドのように眩しく光を反射した。
「由奈先輩! 最高の勝負を……ありがとう——っ!!」
ドォンッ!!
体育館の空気を激しく振動させる破砕音。
限界を突破した全身の全細胞を動員して叩きつけられたジャンピングスマッシュ。
由奈の網膜に焼き付いていた予測ラインをはるかに越えたその凄絶な軌道は、由奈の手元を置き去りにし、コートの最奥——ラインギリギリの白帯の上に真っ直ぐ突き刺さった。
パンッ……とシャトルが床を転がる乾いた音だけが、静まり返った館内にいつまでも虚しく響き渡る。
「……イ、イン! ポイント、穂波! 試合終了!」
静寂を破ったのは、審判を務めていた部員の震える声だった。
「やったぁぁぁぁっ! 勝ったぁぁぁ!!」
歩実はラケットを天高く掲げると、そのままコートの上に大の字になって倒れ込んだ。
肩を激しく上下させ、呼吸すらままならない状態でありながら、見上げた高い天井に向かって、弾けるような太陽の笑顔を咲かせる。
一方、コートの反対側では、由奈がラケットを握りしめたまま、自身の足元に落ちたシャトルを見つめて呆然と立ち尽くしていた。
(私の計算が……完璧だったはずのデータが……理論をすべて超越した、たった一つの『情熱』に上書きされた……?)
自身の敗北という現実を反芻する由奈。
しかし次の瞬間、彼女の整った唇からは、どこか吹っ切れたようなフッと静かな吐息が漏れた。
ラケットを脇に抱え、倒れ込む歩実の元へとゆっくり歩み寄ると、由奈は静かに手を差し伸べる。
「……まいりました。私の誇るロジックも、あなたのその眩しい笑顔と呆れるほどの根性の前には、完全に形無しですね、歩実さん」
「へへっ……! 由奈先輩! 私、やっぱりバドミントンが大好きでよかった!」
差し出された細くしなやかな手を取り、歩実は太陽のような笑顔で力強く起き上がった。
コート全体を優しく包み込む深く温かい夕映えの中、泥臭くも圧倒的に輝かしい「絶対的ヒロイン」の物語が、ここから始まろうとしていた。(完)
(第31話へ続く)




